その先の、未来

- Another Side:5.5 -




その夜、渉は何も聞かずに俺に抱かれた。
もう「愛してる」なんて言葉を口にすることもなかったが、強く抱き締めた身体はちゃんと応えてくれた。
短い情事の後、渉は腕の中ですぐに眠ってしまった。
「もう寝たのかよ」
聞こえているのかいないのか、少しだけ口元が動く。
すっかり身体を預けて眠る姿に我知らず笑みがこぼれた。
今までだってこんな気持ちに変わりはなかったけれど、いつか離れる時が来ると思えば、態度には出せなかった。
頬や髪に触れるたび、わずかに身じろぎする体を抱き直す。
二人だけの時間。
このままずっとこうしていられるのだろうか。
期待と、かすかな不安が通り過ぎていく。


そんなことを考えていると、不意に彼女から電話がかかってきた。
表面上はもう済んだことだったけれど、彼女の気持ちはまだ整理がついていないのだろう。
それも、当然のこと。
どんなに謝っても許されるはずなどないけれど。
「ごめん。本当に―――」
何度も繰り返した会話。
同じところをめぐって、最後は「もういい」と言って切られる電話。
どんなに責められても、気持ちは元に戻れない。
ただ詫びるしかなかった。
そのやり取りの間に目を覚ました渉は居心地が悪かったのか、ベッドを出ていこうとしたけれど。
すぐ終わるからと言って無理やりそれを引き止めた。
どことなく不安そうな顔で俯いている渉の隣で泣いている彼女に何十分も謝り続けた。
「一生、誰とも結婚しない。そう決めたから。……ホントに、ごめん」
彼女に告げた最後の言葉は、すべてが終わらないうちにプツリと途切れた。
耳に広がる静寂に安堵が押し寄せた。
「……嘘にはならないから、いいよな」
問いかけられて、渉が少しだけ表情を変えるのが分かった。
「何がだよ?」
「一生、結婚しないってこと」
渉だって、その言葉の意味が分からなかったわけではないだろう。
けれど、何の返事も戻ってこなかった。
ただ、ぼんやりと壁を見つめて、何かを考えているようだった。
壁には秒針のない時計。
それから、めくると真ん中にオレンジ色のマークがついているカレンダー。
「……欲しい物、考えておけよ。まだ二ヶ月あるんだから」
何年も一緒にいながら一度も祝ってやったことのないその日。
誕生日だと知っていながら、わざと会うことを避けてきた。
そして、渉もその日に俺を誘うようなことはしなかった。
「いらねーよ」
どんな気持ちでその言葉を返すのか。
また、どこか困ったような、諦めたような表情が過ぎる。
「分かってないな、渉」
一度は枕元に置いた電話をソファの上に放り投げてから、もう一度渉を抱き締めた。
正直なところ、真正面から告げるのには少し抵抗があった。
けれど、全て片付いたら伝えると決めていたのだから。
「さっきの、プロポーズだぜ?」
抱き締められたまま、渉は少し驚いた顔をしたけれど。
しばらくの沈黙の後、穏やかな口調で言葉を返した。
「……指輪、買ってくれねーの?」
今までならたとえ冗談でも口にしなかったそんな台詞に、少しだけ未来が見えた気がした。
「渉におそろいでして歩く勇気があるなら、買ってやってもいいけど?」
笑ってそう言うと、渉は少しはにかんだような表情で俺を見上げた。
「じゃあ、買って」
一度も物などねだったことのない渉からの初めてのリクエスト。
「誕生日プレゼント、それでいいから」
その笑顔が愛しかった。






それからの時間はあっと言う間。
二ヶ月以上あった渉の誕生日もすぐに過ぎていった。
渉は今でも以前と変わらず、会社では良い後輩。二人でいる時も甘えてくることはなかった。
すぐに変われないのが渉の良い所なのだと思うけれど、少し淋しい気持ちになるのも事実。
いつになったら、恋人面して世話を焼いたり甘えたりするのだろうと思いながら、隣に座って新しいカレンダーを見つめている渉に目を遣る。
「弘佳、なんで笑ってるんだよ?」
いつから好きになったのだろう。
思い返して浮かんできたのは配属された日の緊張した面持ち。
真剣な眼差しで俺の一語一句を聞いていた渉のことを今でもこんなにはっきり覚えている。
「ん、別に。渉も新人の頃は可愛かったなって思ってさ」
失敗して慌てふためいたことも、企画が通って大はしゃぎしたことも、本当に昨日のことのように思えるけれど。
「どういう意味だよ」
昔の話をされるのが面白くないのか、少し不満そうに突っかかってくる。
普段は年齢差なんてあまり気にしたことはないのに、こうしているとやはり子供っぽい。
「……なんでこんな奴に惚れたかなと思ってさ」
結局、ほだされてしまったのかもしれない、と苦笑する。
あまりに真っ直ぐで。
なのに、全部を言えなかった渉の気持ちに。
「へえ。弘佳、一応、俺のこと好きなんだ」
そんな返事も渉らしくて、また笑みがこぼれる。
「可愛くない奴だな。何度プロポーズしてやったと思ってるんだ?」
たったそれだけの切り返しに言葉が返せなくて口を結んでしまうから、一層からかいたくなるのに。
「それとも、もう一度言って欲しいのか?」
怒るだろうか。
笑うだろうか。
いつもそう思いながら言葉を投げかけるけれど。
渉は不意にまた不安げな表情になった。
「……そんなこと言ってないだろ? だいたい、弘佳のプロポーズなんて……」
慌てて否定する気持ちの裏側。
それが俺に手放しで甘えない理由。
いつかまた離れていく時のために、心の隅で幸せな時間を否定し続ける。
渉の気持ちを思うと胸が痛かった。
「毎年、おまえの誕生日にプロポーズしてやるよ」
10年で10回。
20年で20回。
この傷が癒えるまで。
ずっと。
「そんなの……」
諦めたような笑みで首を振る。
今の俺では、どんな約束も信じてもらえないだろうけれど。
「なんだ?」
焦らなくても、まだ時間は十分あるのだから。
「……しなくていいよ……ありがたみが減るだろ?」
そんな返事に笑いながら、渉の頬を押さえて強引に口付ける。
「なら、この先永久に言ってもらえないのと、毎年聞かされるのなら、どっちがいい?」
おまえの好きなようにしてやるよと付け足して笑う俺に、渉は少しムッとした。
そして、返事は予想通り。
「弘佳って性格悪いよな」
不満そうな口元と少し寄った眉。なのに真剣な瞳で見上げるから、どうしても構いたくなってしまう。
「で、それはどっちがいいってことなんだ?」
渉はすぐには答えなかったけれど。
しばらくの沈黙の後で、困ったようにプイッと視線を逸らせた。
「……別に、どっちでも」
そんな仕草に、また笑って。
「心配しなくても、ちゃんと毎年言ってやるよ」
薄く色づいた頬に唇を当てて、腕の中に収まったその身体を強く抱き締めた。


手に入れた未来が、今、ここにあることを感じながら―――




                                         end

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