- 春ノイズ -

-8-

目の下に広がる家並みは、日が落ちてから見ると知らない場所のようだった。
幼い日に転げ落ちてからというもの、このあたりには良い印象が持てずにいたけど、夜はなかなかきれいだ。
早朝は清々しく朝日が見えたりするんだろうか、なんてのんきなことを考えはじめてみたけれど。
「なんか寒いよなぁ……」
春とは言え、長袖のTシャツ一枚は無謀だったなと反省しながらプルッと身震いしたら、後ろから遙にホールドされた。
「もっと厚着してこいよ」
「大丈夫だと思ったんだよ」
身動きはあんまり取れなかったけど、痛くも不愉快でもなかったし、何よりけっこう温かかったから文句は言わなかった。
「っていうか、これって夜中にわざわざ抜け出して言うほど大事なことかな」
話してもらって気分はすっきりしたけど、別に明日でもよかったような。
教室に来られるのが嫌だという俺の気持ちを考慮してくれたのかもしれないけど、だったら放課後でもいいような。
……と思ったけど。
「まあ、俺にとっては」
耳のすぐ後ろから聞こえてくる返事を聞きながら、不意に脳裏を過ぎった映像があった。
自分も転んでしまいそうなほどの勢いでこの階段を駆け降りてきた小学生の遙だ。
ああ、そうだ。
あの日、ここから少し歩いたところにある公園にみんなで遊びに来て、俺だけ迷子になったんだ。
階段の途中で泣き叫んでいるのを見つけた遙は、「痛くないか?」「大丈夫か?」「歩けるか?」とか思いつく限りのことを尋ね、全部に首を振った俺を背負って昇っていった。
痛くて、真っ暗で、少し寒くて、埃っぽくて。
なのに、遙の背中があるだけで、一人で座り込んでいた時とは比べ物にならないほど心強かった。
あの時のことが目の前の風景と重なった瞬間、夜景がいっそう鮮やかになった気がした。
「……遙がそう思ってんなら、それでいいけど」
無意識につぶやいた言葉の最後のほうは自分にも聞こえないくらいの音量だったけど。
背中で遙が少しだけ笑ったのがわかった。
「何で笑ってんだよ?」
「笑ってねーよ」
「嘘つくなよ。顔なんか見なくても空気でわかるんだからな」
相変わらず身動きは取れなかったので、振り向くことはしなかった。
でも、遙はその後もしばらく笑っていた。


そのままぼんやりと夜景を眺め、帰りにあったかいものでも買って帰ろうと考えている途中で、ふと思いだした。
「遙」
「なんだよ?」
「遙に、えっと……好きな人がいるって話」
別に今じゃなくてもよかったんだけど。
こういうことはお互いの顔が見えないときのほうが聞きやすい。
「それがなんだよ?」
「……『興味ある』って言ったら教えてもらえんの?」
ちょっとドキドキしながら返事を待つ。
遙はしばらく黙り込んだあと、あの日と同じことをもう一度尋ねた。
「興味あるってことなのかよ?」
「え……あー」
出来心で聞いてみただけだから、直球で来られるとやっぱりなんとなく素直には認めづらい。
でも。
「そりゃあ、あるよ。……ちょっとくらいは」
めいっぱい頑張って何気なさを装ってみたけど。
遙からの答えは、「へー」。
馬鹿にしてるのとは違うし、どうでもいいから聞き流したという感じでもないのに、ずいぶん気が抜けた声だった。
「その微妙な返事って何?」
「実際、微妙なんだろうな」
まるで他人事みたいな言い方に、なんだかちょっとムッとした。
結構がんばって口にした質問なのに、さらっとはぐらかされた気がしたからだ。
「教えてくれんの? くれないの?」
意味もなく強気な態度に出てみたものの、背中から流れてくる空気はやっぱり微妙。
そして、返ってきた答えもかなり微妙だった。
「……まあ、そのうちに」
「なんだよ、その返事は?」って感じだったけど。
気が向いたら教えてくれるってことなんだろうって雰囲気だったので。
「絶対だからな。『そのうちに』って言ったこと、ちゃんと覚えとけよ」
今日のところはこれでよしとした。


家に戻る途中で缶コーヒーを買って、子供の頃と同じように半分ずつ飲んだ。
というか、俺が買ったコーヒーを途中で遙が取り上げて何の遠慮もなく飲み干しただけなんだけど。
「じゃあな」
「うん」
家を出た時と同じように音を立てないように自分の部屋に戻り、ベッドに転がって考えてみた。
「……俺と遙って、すごく仲が悪いってわけでもないんだろうな」
自分のことなのによく分からないっていうのも変だけど。
でも、まあ、それについては周囲の見解が正しいってことにしてもいいかなと思った。



その後は少しだけ何かが吹っ切れた感じで。
学校でも前ほど必死に従兄弟だということを隠したりはしなくなった。
というか、従兄弟だって言わないと違う方向で誤解されるので仕方なく……って感じもあったんだけど。
そして、遙は相変わらず。
「利央、千円貸せ」
「なんだよ、いきなり。っていうか、それって人に物頼む態度じゃないし」
俺の教室に顔を出すたびに視線を集めていた。
のんびりした高校生活を送ることを希望していた身としては、やっぱりなんだか居心地が悪いけど。
まあ、これくらいなら許容範囲ってことにしておこうと思えるようになったのは、気持ちに少しだけ余裕が生まれたせいかもしれない。
「家帰ったらすぐ返してやるから」
いつものように態度は限りなく横柄だけど、悪気はなさそうだってこともわかったし。
「遙んち、今日おばさんいるの?」
「んなこと知らねーよ」
従兄弟だということがそこそこ周囲に浸透したせいか、厭味交じりに「ちょっと不自然なくらい仲いいんじゃないか」などと言われることもなくなった。
「あっれー? 瀬崎じゃん。わざわざ一年の校舎まで来て、矢本をいじってんの?」
会長をはじめ、あっちこっちに知り合いが増え、それに伴って雑用を頼まれる頻度も上がったけど、それもまあしかたない。
編入したのはいいけどいつまで経っても学校に馴染めないなんてことになるよりはずっといいだろう。
「金借りに来たんだっつの。昼メシ食えねーだろ。おまえこそ何の用だよ、能見」
「通りかかっただけだよ。それより、昼食代くらい遠慮なんてしないで俺に借りたまえ、ハニー」
「おまえから借金なんかしたら何させられっか分かんねーっつの」
「さすが瀬崎、読みが深いな。でも、金貸してなくても頼む時は頼むよ? ねー、矢本」
「……俺は知りませんけど」
こうやっていちいちこっちに話を振るから、世間に誤解されるんだ。
「能見、おまえ、最近利央に馴れ馴れしくねーかよ?」
「そーんなことないよ? 大親友の従弟ちゃんだし、俺も仲良くしたいなぁと思ってるだけで?」
「しなくていいぞ。っつか、そのキモいイントネーションやめろ」
一年の教室の入口で何の遠慮もなく立ち話をする遙と会長を横目に、斜め後ろの席にいたやつらが体を乗り出して小声で俺に話しかける。
「矢本の周りってなんかアレだよなぁ。瀬崎先輩とはイトコなんだっけ?」
「ってか、会長とも仲いんだなぁ」
そんな質問にも最近ではもう慣れたけど。
「会長は遙と一緒にいることが多いから顔を合わせるだけで、別に仲がいいわけじゃ―――」
「へー、そうなんだ。けど、なんかスゲー。あのへんってなんか二年の間でも特別感があるって言われてんのに」
「えー? 『あのへん』の中に遙も入ってんの?」
「トーゼンだろーよ?」
間延びした会話の向こう。
窓の外に広がるのは眩しいほどの新緑。
そして、目の前にはものすごく何か言いたそうな桜沢。
「……なんだよ?」
「矢本って、最近あんまり遙先輩との関係つっこまれなくなったよなー……とか思うんだけど」
笑顔が引きつっているように見えるのはどうしてなんだろう。
「まあ、もう従兄弟だってこと知ってるヤツのほうが多いし」
「あー、うん、そっか。そーだよなー」
相槌を打ったくせに桜沢はわざと俺の視線を避けて倉田を見た。
「その反応って何? しかも、なんか棒読みなんだけど」
「いや、いいの、いいの。きっと俺の勘違いだから」
「勘違いって?」
「ホントになんでもないから。気にしない気にしない」
この何につけても意味深な「校風」とやらにはまだまだ馴染んでないけど。
「……なんかヤな感じだな」
とりあえず高校生としてのスタートはそれなりにちゃんと切れた……ということにしておこうと思う。
「利央、帰りに迎えにくるからな。教室で待ってろよ」
「来なくていい。勝手に遙んち行くから。っていうか、まだいたのかよ」
そういうのは大声で言わずにメールで済ませろと文句を付け足し、わざと顔を顰めて遙を見送る。
「仲いいよなぁー」
「普通だよ」
「はいはい、フツーフツー」
「……それ、ちょっとムカつくんだけど」
最初に望んでいたよりずいぶん騒がしくなってしまったけれど。
これから三年、なんとか楽しく過ごせそうな気がした。


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