-ひとなつ-




−1−


うだるような真夏のある日の営業所。
そうでなくてもたった5人しかいないというのに、営業の塩崎と事務の女の子一人が同時に夏休みに入った。
残されたのは派遣社員の女の子一人と、おととい営業所に赴任したばかりのインテリメガネ所長と俺。
しかも世間は夏休みの真っ只中。無論、取引先も軒並み盆休み。
外は連日30度を超える暑さ。
「海行きてぇ……」
思わず口に出してしまった瞬間、所長と目が合った。
メガネの奥でキラリンと光る涼しい瞳がとても何か言いたそうに見えたが、派遣の女子は気づかないフリをしていた。
「榊、やる気がないなら遊んできていいぞ」
静かな事務所に響く涼しい声。
顔を上げる勇気もなく、脳内に思い浮かべたインテリ顔。

同業他社から引き抜かれて、ろくすっぽ研修も受けずにいきなり営業所長として赴任した。
まだ30そこそこ。
うちの過去実績から言うと、営業所を任されるのは早くても35だ。
まあ、社で一番小さな営業所で、しかも前所長の使い込みの後始末をする間だけの仮ポジションなんだけど。
それにしても異例中の異例。

噂通り見るからに切れそうなタイプで、俺はちょっと苦手だった。
だから塩崎が今日から一週間の夏休みと聞いた時には蒼白になった。
事務の子は黙々と言われたことをこなすだけだ。普段からあまり口を利かない。
しかも、盆に来る客はいない。
電話も鳴らない。
静まり返ったオフィスに、俺と所長。
あ〜……ゆ、う、う、つ。

「いいから、遊んでこいよ」
そんな冷ややかに言われると怖くて返事もできない。
何気ない口調にも聞こえるが、当然厭味なんだろう。
いくら盆でも就業時間中に堂々と「遊んでこい」なんて言う上司はいない。
「榊」
呼ばれて慌てて返事をする。
「すみません、真面目にやります」
嘘ばっかり。
自分でもそう思ったとき、いきなりフッと笑われた。
「……やりますって」
投げやりだけど、鼻で笑われちゃあ、いくら俺でもムッとする。
なのに。
「榊が行かないなら、俺が遊んでこようかな。海、近いし」
いきなりそんな言葉が。
冗談なのか本気なのかの区別ができないのは、几帳面そうな顔がおよそ緩んだことなど口にしないように見えるせい。
でも、一応、深く勘繰るのはやめにして、聞いた言葉に対してそのまま返事をした。
「そりゃあ、車なら10分もあれば……」
おそらくは思い切り怪訝そうな顔をしているだろう俺にニッコリと笑い返すと追加の質問をしてきた。
「あんまり人が来ない場所とかないのか?」
「え……えー……あります……けど?」
疑い全開の眼を向ける俺の前で、ネクタイを取ってワイシャツのボタンを外した。
ここはエアコンがガンガンに稼動している冷え冷えのオフィス。
ネクタイをしていても決して暑くはない。
「何かあったら携帯にかけて。今週一杯交代で遊ぼう。一人は留守番な」
マジですか?
その言葉、本気にしてもいいんですか?
「あ、じゃあ、私、今日はお留守番してますから」
事務の子の声も急に弾む。
留守番と言っても電話なんか鳴らない。
一人でゆっくりと取引先が中元に持ってきたゼリーでも食って、雑誌を読んだり、ネットしたりしていればいいんだから気楽だろう。
「じゃあ、榊、海まで案内してくれよ。おまえ、ここで育ったんだろ?」
「そうです……けど」
所長と二人で?
海?
「このカッコで?」
ってか、俺、まだ半信半疑なのに?
「着替えてこいよ。家、近いだろ?」
そりゃあ、俺んちはチャリで5分。
だけどな。
「はぁ」
ここで「やったー!」な状態で大はしゃぎして、実は嘘だったりしたらもう復活できない。
でも、所長は涼しい顔のままわずかに笑顔を見せる。
「鈴木さんも今週はラフな格好でいいからね」
「はぁ〜い」
いきなり懐いてしまうのか。
つくづく女の子は世渡り上手だ。
まあ、所長が赴任してきた日、事務の女の子二人は「若い」とか「カッコイイ」とかってきゃあきゃあ騒いでいたくらいだから無理ないか。
あの時点で既に受け入れ体勢は万全だったんだな。
しかも物分りのよさそうなこの態度。その上……
「俺なんか今日は遊ぶつもりで着替え持ってきたんだよ」
ロッカーにさっさと着替えに行ってしまった。
「用意周到……」
あの顔で。
仕事中に遊ぶか?
「いい人ですね、新しい所長。見た目もかなりレベル高いし」
そりゃあ、いままでのジジイに比べたら、ずいぶんとやり易いんだろうし、顔もまあアレだけど。
いきなり打ち解けられても、本当は何考えてるのかわかんないよな。
「行くぞ、榊。おまえの家に寄ってから海だからな」
振り返ったら、もうすっかり普段着だった。なんとメガネも変わってた。
「所長、メガネが……」
「これは汚しても壊してもいいヤツなんだ」
ああ、そうですか。
手にはビニールバッグひとつ。でも、たいして中味は入ってなさそうだ。
見たところ日焼け止めの類と中味の見えない大き目のポーチのようなものだけ。
「……水着持ってきたんですか?」
「勿論。さっき下に着た。タオルは車に置いてある」
あ、そう。
本当にすっかり用意周到なのか。
だったら信じても大丈夫かもしれない。
……という結論に至り、俺も白状することにした。
「俺、ロッカーに海パン置いてあります」
たまに仕事サボって遊んでるとかそういうことじゃないんだけど……って言い訳をする前に所長は、
「着替えたら来いよ。駐車場で待ってるから」
そう言い残してさっさと事務所を出ていってしまった。

慌てて帰り支度をして、急いでロッカーに行き、服の下に海パン着用。
「いつもサボってるって思われたかな……」
忘れた頃に厭味を言われたらどうしよう。
そんなことをグズグズ考え始めた俺を、
「いってらっしゃい」
鈴木さんは笑顔全開で追い出した。


駐車場に着いた時、所長は真面目な顔で電話をしていた。
相手はたぶん本社の人事部かなんかで、ものすごく仕事の話だったけど。
ピッと携帯を切ったとたんに遊びモードな空気になった。
目の前には見慣れぬ車。
「これって?」
「俺のだけど。社用車の方がスリルがあっていいか?」
「え……いや、そーゆーわけでは……」
俺はまだ手放しで喜んではいなかった。
今まで一度だってこんな気の緩みが許されたことはないからだ。
コイツがどんなヤツなのかわからない間は警戒しておくに限る。
「ホントに海行くんですか?」
しかも俺と二人で?
「榊が行きたいって言ったんだろ?」
「そうです。けど」
こんなつまらないことで部下を陥れるようなタイプには見えない。
でも、いかにもインテリくさいメガネ顔がなんとなく冷たそうなんだもんよ。
「会社で腐ってるよりずっといいだろう? その代わり来週は頭から新規開拓だからな」
そんなことは分かってるけど。
これが人事課大絶賛でヘッドハンティングされてきた人間のすることだろうか。
「次にこんなことがあるのは正月明けだからな。せいぜい遊んでおけよ」
メリハリつけないとなって言われちゃ、それまでなんだけど。
次の予告までしてくれちゃって。
こいつって1ヶ月だけの仮所長じゃなかったのかよ。
……よくわからない。
でも、まあ、遊べる時は遊んでおこう。
確かに事務所で腐っていても仕方ないもんな。
「海っつっても……どんなとこがいいんですか?」
無論、海岸は繋がってるんだけど、それなりにポイントはある。
「静かでゆっくりぼんやりできそうな所がいいな」
優雅にリゾート気分ってやつですかい。
「……俺、泳いでもいいですか?」
ぼーっとしてるの苦手だしな。
しかも所長と二人ってどうだよ?
「榊は俺を海まで案内した後は好きにしていいよ。相手をしろなんて言う気はないから」
一人でいたいってことなのか。
メガネを頭の上にあげて、駐車場から海の方角を眺めている端正な横顔をチラリと盗み見た。
会社にいる時と違って、なんだかすごく楽しげだ。
インテリ風なのは顔だけで意外と普通なのかもしれない。
それならそれでいいんだけど。
……でも、なんかなぁ。


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