-ひとなつ-




-13-


脱力状態から復活するのに要した時間、およそ20分。
「じゃあ、榊、また会社で。下着と靴下の新しいのはそこ、ワイシャツとネクタイはそっちにあるから好きなのを着てこいよ。榊なら俺の服でも大丈夫だろう。ほら、鍵。戸締り忘れるなよ」
そう言い残して所長が出ていったのが5分前。
「……なんなんだよ」
やっと妙な熱も引いて、ようやく現状の把握ができるようになったものの、それは何度振り返っても理解したくない事実。
「っつーか、笑顔で『じゃあ』とか言われても」
一時間後にまた会社で会うのか?
それで何もなかったような顔で普通に仕事しろって?

……マジで勘弁して欲しい。



とは言っても俺もサラリーマン。
「だるー。痛ぇー。死ぬー」
ブツブツ言いながら会社に行ったら、所長は本当に何もなかったような顔をしており、
「おはよう、榊」
まったくただの上司に戻っていた。
変にギクシャクするよりはいいんだろうけど。
「……ぅ……ございます」
気力なし。
不信感ありあり。
もちろん事務の子はいなくて、俺ら二人っきり。
如何ともしがたい空気が漂っていた。
「あのー、俺、今日、留守番してますから」
早めに所長を追い払う作戦に出たが、返ってきたのは予想外に厳しい表情だった。
「榊」
その後、ただならぬ様子で「応接に来い」と呼びつけられて。
「……なんですか」
恐る恐る足を踏み入れたら、テーブルの上に破られた契約書が。
「さっき客が来た」
しかも、契約者欄に書かれている名前には見覚えがあった。
「交代で休もうと提案はしたが、すでに入ってる仕事を忘れていいとは言わなかったよな?」
それは、前の所長が辞めていく時に俺が引き継いだ客。
後で受け取りにいくから必要事項を記入しておいてくれと契約書だけ置いてきた先だ。
「……それって、来週じゃ―――」
慌てて手帳を広げてみたら、契約者名と「契約書受け取り」の文字が来週の予定欄に書き込まれていた。
ホッとしたのもつかの間、よくよく見たら、しっかりとメモされていたのは、まさに昨日の日付け。

――――……やばい。

ツツーっと冷たい汗が背中を流れた。
「一週間勘違いしていたのか?」
いつもは余裕の所長だが、さすがに今回ばかりは笑っていない。
「最大手契約者だぞ。前任者は契約書を置き去りにするなんてこともなかったはずだ。万一ここと切れるようなことがあったら、この営業所の存続自体が危うくなる。そうなったら、榊はもちろん、事務の女の子だって職を失うことになるってわかってるのか?」
「え……なんで」
俺はともかく、事務の女の子って?
ハテナを飛ばしまくる俺に冷ややかな声が飛んできた。
「当然だろう。事務職は地域限定で採用されているんだから、ここ以外での勤務はありえない」
突きつけられたシビアな現実に血の気が引く。
「解ったら、さっさと詫びを入れてこい」
自分がちゃんと返事をしたのかさえ記憶にないほど焦りながら、言われるまま車を飛ばして慌てて先方に出向いた。だが、玄関をくぐる前にバッタリ会った事務員に追い払われた。
それでも一時間ほど粘ってみたが、結局どうにもならなくて、そのままスゴスゴと営業所に戻ってきた。
「……すみません」
「まったく、榊は」
所長はしばらく俺の顔を見ていたけど。
その後。
「本社勤務するか?」
いきなりそんな質問を投げかけた。
「えっ……」
なんでそんなと思ったけど。
「俺、都会で暮らすのはちょっと……だったら、こっちで別の職を……ってか、突然そんな話……」
もちろん俺が悪いんだし、クビにならないだけマシなのかもしれないけど。
「でも、東京は海で泳げないし、俺、夜遊び好きじゃないし、空気と水がまずいのは絶対にイヤだし……」
必死になってあれこれ並べていたら、不意にクスッと笑われた。
「笑うことないと思いますけど」
思わず文句を言ってしまったが、よく考えたら笑ってくれるだけいいのかもしれない。
普通なら、怒鳴られて罵られて終わりだろう。
……ホントは感謝すべきなんだろうな。
俺がそんなことを考えている間も所長は笑い続けていた。
そして、ひとしきり笑ったあと、また異次元な言葉を吐き出した。
「じゃあ、遠距離か」
「は?」
っつーか、何の話だ?
と思ったのも顔に出たんだろう。所長からはすぐに追加の説明があった。
「俺と榊のこと」
「はああああ?」
ということは、もしかして。
遠距離っていうのは。
「そう、遠距離恋愛」
俺らって付き合ってんのか?
というより、今そんな話をしてる場合じゃないだろーよ?
「榊がどうしてもって言うなら、ここに骨を埋めてもいいけど」
『どうする?』と聞かれて。
「って言われても……え?」
なんでそんな話になってんだ。
「これじゃ心配で放っておけないだろ。目の届く所に置いておかないと」
まるで保護者のような。最悪の場合は本当に恋人のような。
バカにされているような、大事にされているような。
相変わらず、全てがよくわからないんだが。
「榊にはまだ教えないといけないこともたくさんあるからな」
その言葉に。
「え、え、えええええ?」
いきなり俺の脳裏を過ぎったのは白いシーツと腕枕。
……だったんだけど。
「何慌てているんだ。仕事の話をしてるんだぞ」
くっくっと笑う顔を見て、またしてもからかわれてるんだと気づく俺。
なんだかやっぱりコイツの思うツボ。
「本当に榊は」
その後の言葉はなくて、代わりに妙な微笑みが。
俺を騙してる時の不敵な笑みよりも、その慈愛に満ちた目が怖いんですけど。
でも、まあ、そんなことは。
「もう、なんでもいいです。っつーか、契約……」
話を戻そうとしたのに、
「で、返事は?」
いきなり催促されて、また固まった。
「……なん、の?」
「俺がここに残ってもいいよっていう話」
所長は呆れることもなく微笑んでそう言ったけど、俺の頭の中には破れた契約書やら、事務の女の子の顔やらが渦巻いており、何を言われてもまともに理解などできなかった。
「……って……」

ここに残る?
本社に戻って出世街道まっしぐらなんじゃなかったのかよ。
ってか、何のために??
それより、のんきにそんな話してる場合じゃ……

脳内をぐるぐる回っていく言葉を整理できずにそのまんま聞いてみたら。
「人生、金でも名誉でもないって」
当然のようにそんな答えが。
っつーか。
だから、なんだよ。
俺にどうしろと?
「榊と真っ黒になって夏を過ごすのもいいもんだなって、そういう話」
だから、それはどういう話だ。
ああ、もう何も考えられない。
「……冬は寒いっすよ」
そんな返事をする俺も俺だが。
「榊はスキーもできるんだろ?」
「そりゃあ、もちろん」
そういうことなら任せておけ……とかいう問題じゃなくて。
「じゃあ、それで決まりだな」
「は?」

……何が決まったんですか。
俺にもわかるように説明してください。

そんな言葉を吐き出す隙さえ与えずに、所長は「じゃあ」と言って席を立ち、ついでにニッと意味深な笑みを浮かべた。そして。
「詫びを入れて、新しい契約書をもらってきたら―――」
「……きたら?」
微妙に嫌な予感がしたが、次に続いたのはさほど変わったセリフでもなかった。
「ちゃんと俺を労ってくれよ」
その言葉に、「肩を揉む」とか「茶を入れる」程度のことを想像していた俺が元気良く「はい」と返事をしたのと、所長が「ベッドで」という言葉を足したのはまさに同じタイミングだった。
「快い同意をありがとう。じゃあ、張り切って行ってくるか」
「え!?……ちょ、俺、そんな――――」
今の遣り取りをなかったものにしようと必死になる俺に、所長はいつもの悪い大人の微笑みを残して去っていった。


そして、二時間後、あっさりと新しい契約書を持って帰還した。


「じゃ、榊。来週早々人事部に出向いてここへ正式着任できるように頼んでくるから」
まだ朱印が乾ききっていない契約書をひらひらさせながら、俺にとっては最悪の未来を笑顔で語る。
「そういうことで。来週末、よろしくな」
体を洗うところから教えてやるよ、という不吉な言葉が頭の中を駆け抜けて、
「あ、っつーか、それ、*@%&$#……」
俺は日本語未満の言葉を吐き出しながら、ありえないほど空白になった。




そして、翌週。
朝一で本社人事部に旅立った所長は、その日の夕方、東京土産と共にこの小さな営業所に正式着任したのだった。
「これからもよろしく」
白い歯を見せて笑う男と、「よろしくお願いします」と微笑む女子、週明けから出社している塩崎の間で、
「……ぅげっ」
俺だけがフリーズしていた。
「よろしくな、榊」
正月明けも休みにしてやるからなんて言われて残りの所員がはしゃぐ中、一人で立ち尽くしていたら所長にポンと肩を叩かれた。
「わかっていると思うけど、さっきの『よろしく』は仕事の話をしてるんじゃないからな」
すれ違いざまに笑顔でささやかれ、
「約束どおり週末は空けておけよ」
金曜の夜から月曜の朝までだからと言われて。
「…………」
一言も返せないままガックリとうなだれた。



ヒトナツの過ちとしてひっそりと封印されるはずだった日々は、どうやら俺の周りを本格的に異次元に変えて継続していくらしい。



……もう、最悪。



                                      end









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