OFF-LIMITS
-3-



その10分後、オフィスで北川の笑い声を聞いていた。
「マモのことなら啓ちゃんにでも聞いてくればいいだろ。俺よりよほどアテになる」
言葉尻こそ柔らかかったものの、厄介払いであることに変わりはない。
「香芝先生の所にはこちらに来る途中にお伺いしたのですが」
香芝医師にしても北川にしても、自分とかかわりのない少年のことなど躊躇なく話すだろうと踏んでいたからこそ、久世からの命も重くは捉えていなかったというのに、予想に反して情報集めが難航しそうなことに気が滅入った。
「……あまり良い返事をいただけなかったもので」
ごく平凡な少年なのに何故ここまで庇われるのか。
「ああ、啓ちゃんはマモを猫かわいがりしているからな。いかにも疑ってますって風情でアレコレ聞かれたのが気に入らなかったんだろ」
笑いを含んだ返事の裏に北川自身もそう思っていることが窺える。
そして、予想した通り、すぐ後に「俺は何も知らないよ」という突き放した科白が続いた。
「どんなことでも構わないのですが」
できるだけ低姿勢で尋ねても笑い飛ばすだけで軽くかわされる。
「身辺調査なら中野がしてるだろ。ヤツに真正面から聞くのが手っ取り早いんじゃないか?」
それができたら聞き込みなどしていない。
北川とてそんなことは百も承知で言うのだろうけれど。
「少なくとも親子でないけどな」
もとより、少年の年齢が15というのが本当なら、まだ30そこそこの中野が父親である可能性は低いだろう。
「そう言い切れる理由があるのですか?」
だが、確かめないわけにはいかない。
「ああ。マモはO型。中野はAB。俺が知ってるのはそれだけだ」
「……そうですか」
とりあえずの礼を述べてから、北川がまた口を開くのを待ったけれど、その後はニヤニヤと笑いを浮かべてこちらの様子を伺っているだけ。
その態度に痺れを切らして、「もう少し何か……」と言いかけた時、北川が笑ったまま言葉を足した。
「そうだな。どんなにボンヤリちゃんなのかを知りたいなら、隣りの部屋で聞いてろよ。しゃべり方もガキくさくてかなり笑えるから。顔が見たければドアを少し開けておけばいい。相当なボケ子ちゃんだから、覗かれても絶対に気付かないしな」
帰る時は裏口に回れよという注意と共に目線が隣の部屋に移る。
「わかりました」
ただそれだけ答えると無言で席を立って、悪戯な笑いを浮かべた男が指し示したドアを開けた。


数分後、バタバタと言う音と共に現れた少年は、北川が言っていた通り、声もしゃべり方も年よりずいぶん幼く感じられた。
「じゃあ、マモ。大事な客だからな。ちゃんと愛想よくしておけよ?」
北川がシャツを脱がせても、ボンヤリと立っているだけ。
「大丈夫だってー」
嫌がる様子もなく普通に言葉を返した。
その間もキョロキョロとよそ見をして、少しもじっとしていない。
「ウリなんて始めたばっかりで慣れてないって顔してろよ?」
北川に何か言われるたびに頷くけれど、ちゃんと聞いているのかどうかさえ疑わしい。まったく小さな子供と同じような反応に我知らず苦笑した。
「うん。でも、嘘つくのやだなぁ……」
「それくらいなら嘘の範疇に入らないって」
「そうかなぁ」
そんな遣り取りも酷く幼く見える。
今時の子供なら嘘の一つや二つくらい顔色一つ変えずにつくだろう。けれど、あの子は納得していないらしく、いつまで経っても首を傾げたまま固まっていた。
そんな様子を見るにつけ、中野の相手が務まるとは思えなかった。それどころか自分には二人で一緒にいる場面さえ想像できなかった。

―――……調べる前より、一層解らなくなったな……

溜め息と共に気持ちが塞がった。
こんな情報だけではあの男に合わせる顔がない。
「……とにかく他を当たってみよう」
焦ったところで仕方ない。
気を抜くと何度でも出そうになる溜め息をかみ殺しながら事務所の裏口を出ると北川の店に向かった。


開店までまだ少し時間がある。
掃除のアルバイトをしている青年に聞けば、中野の近況くらいは知っているかもしれない。
そんな期待と共に重いドアを開けると笑顔で迎えられた。
「こんにちは」
ペコリと頭を下げたのは店でよく見かける青年の一人。にこやかに挨拶をされたが何故か酷く気が急いて、前置きもなく必要なことだけを尋ねていた。
「え? 中野さんですか? でも、最近店にはあんまり来ないんですよね」
そう答えてしばらく思案顔をしていたが、いくら待ってもそれ以上の情報はなかった。仕方なく隣に立っていたもう一人に視線を向けたが、やはり返事はパッとしないものだった。
「だってすごく美人のカレシがいるんでしょ?」
別れたなどという話は聞いたことはないし、件の少年と付き合っているという噂も耳にしたことはないと言う。
他に詳しい人間はいないのかと尋ねてみたが、それも無駄だった。
「エイジさんに聞いてみたらどうです?」
そんな言葉に「そうですね」と答え、作り笑いで礼を言った。
エイジという男。それについてもいずれは調べなければならない。
だが、久世が疑っている通り、どこかの犬だとするなら、容易に隙は見せないだろう。
「……北川の言う通り、中野本人に直接尋ねた方が早いかもしれない」
正直馬鹿らしい仕事だと思った。
だが、中野の身辺は少なからず今動いている仕事にかかわる。
半ば自棄(やけ)になりながら、手当たり次第に知り合いの事務所や店に行き、それとなく中野の周辺と少年のことを聞いてみたが、収穫はなかった。
「……すっかり遅くなってしまったな」
ネオンばかりが目に付く時間にこの辺りを歩くのは好きじゃない。
明日はもう少し遠い関係の人間も当たってみようと思いつつ、駅に向かった。


途中で中野が住むマンションの前を通りかかった。
チラリと門の中を覗くと、恋人であるはずの青年が立ち尽くしているのが目についた。
見上げている部屋にはもう明かりがついていたけれど、入っていく気配はない。だからと言って声をかけるわけにもいかず、そのまま立ち去ろうとしていた時、不意に振り返った青年がこちらに気付いて会釈をした。
顔を合わせたことなどないはずなのにと思い、辺りを見回してみたが、自分の他に人影はなかった。
「どこかでお会いしたことがありましたでしょうか?」
白々しいとは思いつつもそんな言葉をかけた。
涼やかな瞳は一度だけこちらを見据えたけれど、すぐにサラリと視線を外した。
「……いいえ。でも、貴方がこちらのことをお調べになっていることは知っています」
そう告げたのも年齢に不似合いなほど落ち着いた声だった。
細部まで配慮していたつもりでも、調査が長期間に渡れば気付かれても不思議ではない。
「ご不快な思いをさせて申し訳ありません。貴方ではなく、中野氏の素行調査だったのですが……」
多くを語らずとも彼は多分わかっているだろう。
「別に構いませんから」
笑ったような、笑い切れていないような、曖昧な表情が口元に浮かぶ。
あの少年とは対照的に全てに敏い青年。
彼からなら、何か得られるかもしれない。
そう思った瞬間に切り出していた。
「―――失礼ですが」
本来なら聞くべきではない相手。
しかも、本人に面と向かって尋ねることでもない。
「中野さんとはどのようなご関係なのですか?」
少し翳のある瞳。けれど、こちらの不躾な質問にさえ曇ることはなかった。
ただ、わずかに俯くとキュッと口を結んだ。
答えたとしても多くは語らないだろう。
手短に事実だけを話してくれたなら、そこから中野がどんな状況なのかが分かるはず。うまくいけば中野と少年の関係も窺えるかもしれない。
そう踏んでいた。
けれど。

物憂げな視線は乾いた地面に投げられたまま、上を向くことはなかった。
正面から向かい合うこともない彼との間を夜の喧騒だけが通り過ぎていく。
もうこれ以上待っても無駄だろう。
諦めに押されて、こちらから断りを入れようとしたその瞬間、切れ長の瞳がわずかに動いて、結ばれていた口元が開いた。

「―――……俺には、分かりません」

静かにそう告げた青年の横顔は歪むことも笑うこともなかったけれど。
誰よりも彼自身が中野との間に未来はないと感じていることを窺わせた。
「……そう、ですか」
10年も同じ時間を過ごしながら、どこかで距離を置いたまま、恋人と思わせることさえなく別れるつもりなのだろうか。
そんな思いが過ぎって、次の言葉は出なかった。



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