久しぶりにちゃんと履いた靴で。
エレベーターに乗って、一番上まで行った。
闇医者の診療所があるビルより、ずっと広い屋上にはベンチも置いてあったけど。
朝だからか、中野のほかには誰もいなくて。
見上げるといっぱいに青くて大きな空。
その中に、中野の背中とタバコの煙があった。
ゆうべ雨が降ったから、屋上はまだ濡れていたけど。
春になった風は柔らかい匂いがして、必要ないのに何度も呼吸をしたくなるほど。
「いい匂いかもー。花とか咲いてないのに変だよなぁ。あ、それから―――痛っ」
いろいろ言いながら歩いてたから、ちょっとだけつまずいてしまって。
転んだりはしなかったけど、中野がすごく嫌そうな顔で振り返った。
「ったく……ちゃんと前を見て歩け」
いつもと同じ不機嫌な声なんだけど。
でも、やっぱり優しく聞こえた。
「前は見てたんだけどなぁ。あったかくなったなって思って、それにさー……」
一面の空色。
そのまま少しだけ視線を動かすと煙草をくわえた中野の横顔。
「―――なんか、楽しいなって」
もう会えないかもしれないけど。
もし本当に最後なら、今までで一番楽しい時間がいい。
「中野」
呼び止めても振り向かないって分かっていたから、返事を待たずに隣りまで歩いていった。
あと5歩くらいのところから、ふわりと中野の匂いがして。
一緒に煙も流れてきた。
俺でもちゃんと届く高さのフェンス。
手を掛けて地上を見下ろしたら、雨上がりの土の匂いがした。
一度だけ深呼吸をして。
何もしゃべらない中野の隣りで、横顔だけ見上げて。
「……ね、入院の金、いくらかかったの?」
本当はそれより前に、灰になってしまった札束のこととか、おじさんに毎月送る金のこととかいろいろあって。
それを全部足したら、俺には一生返せないかもしれないけど。
「ちゃんと働くようになったら、ちょっとずつ返すからね」
――――だから、その時にはもう一度会ってね……
そう言うつもりで。
でも、やっぱり口にすることはできなかった。
中野は俺の話なんてまるっきり聞こえないみたいに煙を空に流していたけど。
しばらくしてから、あの日と同じ言葉をつぶやいた。
「―――もう戻ってくるなよ」
中野が生きている場所と。
一生返せないかもしれない金と。
ぜんぶが俺にはどうしようもないことばっかりで。
だから。
「……うん」
そう言うしかなかった。
「電話もかけちゃダメなんだよね……」
ダメだって分かってたけど。
でも、もう一度だけ聞いて。
たまにならいいって言ってくれないかなって、少しだけ期待したけど。
やっぱり中野からの返事はなくて。
その代わりにポケットから取り出したものを俺の手に握らせた。
「持ってろ」
手の上には銀色の鍵。
見覚えのあるキーホルダーがついていた。
「……違う、これ、中野の新しい恋人に―――」
闇医者にはちゃんと説明したけど。
でも、中野には伝わらなかったんだって思って。
「中野がプレゼントなんていらないって言うから、代わりに新しい恋人になる人にって思って買ってきたんだ」
だって、ひとつくらい俺の事を思い出してくれそうなものを中野のそばに置いておきたくて。
少しだけでいいから、覚えていて欲しいって思って。
「だから……」
嫌じゃなかったら、ちゃんとその人に渡して欲しいって一生懸命頼んで。
それから、鍵を返そうとした。
でも。
中野は俺のお願いをちゃんと最後まで聞いてたけど。
やっぱり鍵は受け取ってくれなかった。
その代わりすごく面倒くさそうに口を開いて。
「香芝から聞いた」
煙と一緒にそんな言葉を吐き出した。
風が流れて、髪が揺れる。
俺が立ち尽くしている間も中野はずっと変わらずに横顔を向けていたけど。
「……それってさ―――」
言いたいことがちゃんと言葉にならなくて。
気持ちの中で何かを探している時、後ろに人がいることに気がついた。
屋上のドアの前。
いつの間にか闇医者と小宮のオヤジが顔を出していて、こっちを見ながら腕時計を指差した。
たぶん、叔父さんが迎えに来たってことなんだろう。
少しも振り返ったりしてないのに、中野はそれにもちゃんと気がついていて。
「さっさと行けよ」
俺の顔なんて見ずにそう言った。
「……うん」
『ありがとう』って。
言っていいのか分からなくて。
迷っている間に、
「鍵を持ってるからって勝手に来るんじゃねえよ」
そんな言葉が降ってきて。
「……うん」
ただ、言われるままに頷いた。
まだ何かがよくわかってないような気がして。
キーホルダーと背中を見比べて、もう一度闇医者と小宮のオヤジを振り返ったけど。
二人ともニコニコ笑ってるだけで何も言ってくれなかった。
でも、握り締めた鍵にはまだ自分のじゃない温度が残っていて。
こんなにあったかいんだなって思ったら、少しだけ胸が痛くなった。
中野が俺にくれたもの。
ぬいぐるみと鍵と、それから。
まだ手の中に残ってる指先の感触とやわらかな温度。
それをギュッと握り締めて、空を見上げた。
淡い青色にとけるようにふわりと広がった白い雲。
ビルの合間に消えていくタバコの煙に似てると思った。
「マモル君」
優しく呼ぶ声に振り返って。
「うん……今、行く」
まだほんの少し痛む気持ちを抱えたまま、小さく頷いた。
雨上がり。
やわらかい光と、少しずつ緑が見え始めた木と。
見下ろした街は全部がキラキラしてて。
すごくキレイだなって思った。
「中野」
鮮やかに浮かぶ。
中野の背中と、遠くを見たままの横顔。
何があっても。
ずっとずっと忘れない。
出会った日のこと。
今までのこと。
そして、今日の、この瞬間も。
全部。
「――……またね」
振り向かない背中に、少しだけ笑って手を振った。
明日はどんな日になるだろうって。
そう思いながら。
end
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