暖かな陽射しと春の匂い。
ここで迎える最後の朝は本当に穏やかで。
だから、よけいに寂しさも感じたけど。
「忘れ物をしないように準備してね」
食器を片付けながら、そんなことも心配してくれる看護婦さんにお礼を言って時計を見た。
あと少しで叔父さんが迎えに来る時間だということに気付いて慌てて部屋を片付けはじめたら、闇医者が手伝いに来てくれた。
着替えと雑貨をバッグに押し込んで。
ぬいぐるみだけは手で持って行くことにして。
ベッドの周り、クローゼット、それから。
「あ、テーブルの上も」
そう思いながら手を伸ばしたら、パサッと音がして四角いものが床に落ちた。
四つに畳まれた淡い色の紙。
俺の意識が戻ったときに中野が持っていたもの。
そう言えばずっと置いたままだったなって、いまごろ思って。
「中野のだよね? もっと早く返さなくてよかったのかな」
それともいらないのかなって聞いたら、闇医者が少しだけ笑いながらそれを広げて見せた。
「……あれ……?」
並んでいたのは不ぞろいな文字。
「これって俺が中野に書いたヤツ……?」
自分が出したものだってことにも驚いたんだけど。
「俺、ずっと白だと思ってた」
病院の壁が白いから青っぽく見えるのかな……なんて、そんなどうでもいいようなことを考えながら、またちょっと悲しくなった。
どう見ても手紙は一度思いっきりクチャクチャにされて、あとから伸ばしたって感じで。
「……捨てるつもりだったってことだよね」
俺の愚痴を聞きながら、闇医者はまた手紙を畳んで、
「中野さんに返しておくね。大事なものだから」
ニッコリ笑いながら封筒に入れた。
「でもさ、中野に返してもきっとまた捨てるよなぁ。だって、もうそんなにクチャクチャだし」
そう言ったら、闇医者は少し寂しそうな顔を見せて。
でも、俺が「どうしたの」って聞く前に理由を話してくれた。
「弟も同じこと言ってたんだよ」
中野は手紙を読むとすぐに捨ててしまうから、くちゃくちゃに丸まらない紙が欲しいってねだられたことがあるって。
「渡す時に『これだけは丸めずに取っておいて』って頼まれたこともあったな」
たぶん、それは中野が受け取った最後の手紙。
ファイルに大事そうに挟んであった淡いグリーンの……―――
「中野さん、ぜんぜん変わってないんだよね」
10年も経つのに……って。
窓の外を見る闇医者が不思議なほど中野と重なった。
「……でも……中野は弟の手紙、ちゃんと丸めないで持ってたよ」
キレイなままファイルに挟んであった。
すごく大事なものだってすぐにわかるくらい。
それをくちゃくちゃにしてしまったのは俺。
あのとき中野は何も言わなかったけど、本当はキレイなままで持っていたかったに違いない。
「……悪いことしちゃったな」
今頃気付いても遅いんだけど。
やっぱり、なんだかシュンとしてしまった。
でも。
「もう、いいんだよ」
闇医者はぜんぜんなんでもないことみたいに笑って。
「けどさ」
大事な物をくちゃくちゃにされたら、やっぱり悲しいよなって思ったのに。
「クチャクチャになってても綺麗なままでも、中野さんにとっては同じ価値だろうから」
だから、マモル君が気にすることなんてないって。
そう言われて少しだけ気持ちが軽くなった。
「ごめんね」
闇医者のほうがずっと悲しそうなのに。
なんでいつも俺ばっかり慰められてしまうんだろう。
「謝らなくていいんだよ。慰めてもらってるのは僕のほうだから」
そんな言葉と一緒にいつもと同じ笑顔が返ってきて。
「どうして? 俺、ぜんぜん慰めてなんか……」
聞き返したら、ベッドに座っている俺のすぐ隣りに椅子を持ってきて腰かけた。
それから、少しだけ開けていた窓から入ってくる風が見えるみたいに。
目を細めながら、ゆっくりと口を開いた。
「……僕ね、弟が死んだこと、ずっと病気が苦しくて我慢できなくなったんだって思ってたんだ。でもね」
弟が残していった手紙はどれも幸せそうで、読んだ時すごくホッとしたんだって。
そう言ったあとで少しだけ笑った。
「マモル君、車の中で言ってたでしょう。どうせいつか死なないといけないなら、楽しいことがたくさんあった日がいいって」
だからね……って言いながら俺の髪をなでて。
苦しくて、悲しくて、生きていくのが嫌になって仕方なく選んだ道よりも、一番楽しい時に楽しい気持ちで決めた最後のほうがいいよねって。
「……うん」
そう言われて思い出したのは、白い花と中野の背中。
だって、中野が言ってた。
あの日、屋上で空を見上げながら。
「弟、笑ってたって」
笑って「じゃあね」って手を振ってたって。
そう言ったんだから。
「だから、きっと楽しかったんだよね?」
あの日が中野との最後の待ち合わせで。
好きな人にちゃんとバイバイが言えたなら。
「俺なら、それでもいいなって思うよ」
本当はずっとずっと中野や闇医者と一緒にいたかっただろうけど。
でも、楽しいこともたくさんあったから。
だから、笑って「じゃあね」って言えたんだろう。
助け出された日に、俺が思ったみたいに。
いいことがたくさんあってよかったなって。
「そんな気持ちだったんじゃないかなって思うんだけどな」
闇医者はずっと黙って聞いてたけど。
全部話し終わったとき、静かに頷いた。
それから。
「でもね、マモル君」
優しい瞳は少し寂しそうに瞬きをして。
でも、すぐにまた微笑んで。
「なに?」
「マモル君はそんなこと思わないでね」
もう誰もなくしたくはないから。
だからお願いね……って。
そう言われて。
いつもと同じ優しい笑顔を見ながら、「うん」って答えた。
ようやく荷物がまとまって。
あとはおじさんが迎えに来るのを待つだけになって。
「手続きはもう中野さんが済ませてあるから」
襟を直してくれる闇医者のキレイな手を見ながら、何度目かのお礼を言った。
その間も闇医者の手は俺の髪を直して、そのあと顔にクリームまで塗ってくれて。
だから、もう一回「ありがとう」って言おうって思ってたら、
「お礼は中野さんに言っておいで。話したいことたくさんあるでしょう?」
そう言われてしまった。
「うん」
中野とちゃんと話ができるのは、もしかしたら今日が最後かもしれない。
そう思ったらまたズキッと気持ちが痛くなったけど。
はあ……ってため息をついたら、闇医者に笑われた。
「今日全部伝えられなかったら、また改めて電話したらいいよ」
だから、無理はしなくていいって言われたけど。
「……でも、電話はダメなんだ」
会えなくなってもどこかで繋がっていたいって思ってたから、今でもそのことはまだ少しショックで。
だから、思いきりガッカリした顔をしてしまったけど。
闇医者は、「本当に困った人だよね」って言って、やっぱり少し笑ってた。
「もうマモル君をあんな目に遭わせたくないんだって言えばいいのに」
中野の仕事はまだまだ落ち着かなくて、当分は危ないことばっかりだから。
「すっかり片付いたら、きっと電話だってできるようになるよ」
そう言って慰めてくれた。
「……うん。そうだといいな」
本当はあんまり期待してなかったけど、でも、闇医者が心配するといけないからとりあえずそう答えてみた。
「闇医者、いろいろありがとね」
今でも少し気が緩むと「ここにいたい」って言ってしまいそうになるけど。
でも、今日はちゃんとみんなにバイバイを言おうって決めてたから。
頑張らなきゃって思ってキュッと口を結んだら、闇医者がふっと息を吐いた。
それから、しばらく窓の外を見て何か考えていたけど。
俺が見つめてることに気付いたら、また少しだけ笑った。
「……本当のことを言うとね、マモル君が叔父さんの家に行くこと、僕は反対してたんだ」
所詮は他人で、向こうには小さな子供がいて。
うまくいかないこともあるだろうからって。
「……うん、でも、それは仕方ないよね」
どんな環境でもがっかりなんてしない。
迷惑だってかけないように頑張るからって。
そう言ったら、闇医者は困ったような顔になった。
「マモル君ならそう言うと思ってたけどね……でも、肩身の狭い思いをさせるのは可哀相だなって、みんなと話してたんだ」
小宮のオヤジや患者モドキや院長先生や看護婦さんたち。
みんなで俺の心配をしてくれてたことも今日はじめて知ったけど。
それよりも。
「でもね、中野さんが……マモル君なら大丈夫だって、そう言うから」
そんな闇医者の言葉を不思議な気持ちで聞いていた。
「マモル君、初めて診療所に来た時のこと、覚えてる?」
「うん」
去年の夏。
変なヤツにつかまってケガをして。
もうダメかもって思ったけど、目を覚ましたら闇医者がいて。
少しの間入院して小宮のオヤジや患者モドキと仲良くなって、一緒にお茶を飲んで。
「―――だからね」
診療所でみんなに可愛がってもらったように。
叔父さんの家でもきっとうまくやっていけるよねって。
そう言われて。
「……ありがと。ちょっと元気出たかも」
本当は少し心配だったけど、そう言われたらなんだか大丈夫な気がしてきて。
頑張るねって言ったら、闇医者が静かに頷いた。
「お金のことは中野さんがちゃんとしてくれるから」
だから、余計な心配はしなくていいって言われたけど。
「でもさ」
そんなの悪いよねって思ってる途中で、闇医者は首を振った。
「それで中野さんの気が済むんだから、受け取ってあげて」
ちゃんとお金があれば叔父さんの家だって俺がいることを負担には思わないはずだから。
そしたら叔父さんも叔母さんも俺のいいところだけを見てくれるはずだからって。
「マモル君は今までどおりにしていればいいからね」
きっと大丈夫だから。
普通の家庭で。
誰かに作ってもらったご飯を食べて。
同じ年頃の子がいる学校に通って。
テストでいい点を取ったら褒めてもらって。
手伝いをしたら感謝してもらって。
友達と同じ目線で一緒に悩んだり、相談しあったり、心配しあったり、思い切りバカみたいなことをしたり、泣いたり笑ったりして過ごすといいよって。
「当たり前のことばかりだけど、でも、すごくいいことだなって。マモル君ならきっとそう思ってくれるはずだから」
素直な人間を騙すような大人の間じゃなくて、いい子にはいい友達がたくさんできるような場所で大人になって欲しいから。
友達をたくさん作って、いっぱい楽しいことをして、いい時間を過ごしてねって。
そう言われた。
「……うん」
それから。
少しでも嫌になったらいつでも闇医者のところに戻ってきていいって。
小宮のオヤジと一緒にちゃんとしたバイトを探してくれるからって。
だから、何も心配しなくていいんだよって。
「……ありがと」
みんなにこんなに思ってもらってることがなんだか申し訳なくて。
「心配ばっかりさせてごめんね」
またちょっと泣きそうになってしまったけど。
「やだな。謝らなくていいんだよ」
だから元気で頑張るんだよって言われて、黙って頷いた。
心配してくれた人全部に今日会うことはできないけど。
またいつかちゃんとお礼を言いに来ようって思いながら。
「闇医者、俺ね―――」
ダメになってここに戻ってくるんじゃなくて、楽しい気持ちでまた遊びに来こよう。
もう少し大人になって。
今度はちゃんとみんなと同じようにいろんなことがわかるようになって。
みんながこんなに応援してくれるんだから。
今までで一番たくさん頑張らなきゃって。
そう思った。
「じゃあ、行ってくるね」
この気持ちのまま。
中野に「ありがとう」を言おうって。
ずっと会えなかったとしても、一人で頑張れるよって。
「ちゃんと中野と約束して来る」
そう言って部屋を出た。
そのまま屋上に行こうとしたら、闇医者に呼び止められて。
「マモル君」
「なに?」
振り返ったら、いつもと同じ笑顔がそっと見守っていた。
「……幸せになってね」
時間が止まったみたいに静かな廊下。
優しい声がすっかり消えてしまうまで俺は何も言えなかったけど。
「……うん」
やっとそれだけ答えて。
それから。
もう一度、「ありがとう」って笑ってみた。
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