天気予報は夜から雨。
テレビを消して携帯のボタンを押した。
「もしもし……―――」
いつかきっと忘れさせてくれる。
僕はまだあの子にそんな期待をしていて、だから、余計な世話と思いながらもこんな馬鹿げた事をせずにいられない。
「……風邪を引くと可哀想ですから……お願いします」
彼だってきっと判っている。
僕が弟のことを今でも悔やんでいることを。
だから、仕方なくこんな見え透いた頼み事を引き受けてくれるのだろう。
内気だった弟が、生まれてはじめて好きになった相手。
無口で無愛想で。
けれど……―――
電話の向こうからは、何の答えも返っては来ないけれど、こんな一方的な依頼を無視したことは一度もなかった。
始まりはただの幻影に過ぎなかった。
彼にとっても僕にとっても、あの子はただ少し弟に似ているだけの少年だった。
なのに、いつから変わっていったのだろう。
少なくとも、彼は僕よりも先に幻影から抜け出たように見えた。
あるいは最初から、彼にとってのあの子は弟の代わりなどではなかったのかもしれないけれど。
「いい子なのにねえ」
診療所の床を磨くあの子を見ながら、小宮さんが遠い目をする。
歩くたびにキュッと音がしそうなほどピカピカになった廊下を確認して、満足げに振り返った顔に微笑み返しながら、「そうですね」と答えた。
「おふくろさん、あの子をおいていくの、辛かっただろうなあ」
ポツリとつぶやく言葉が、胸の奥に響いた。
この世に生を受けた時から、社会の隅で暮らすことを決められていた。
父親のいない子。水商売の母親。
ひっそりと寄り添って生きてきたけれど、その母親さえ亡くしてしまってからはずっと一人。
「えっとー……死んだのは去年だよ」
大切な人を失ってから、まだ一年も経っていないというのに。
あの子はその悲しみさえ全て忘れてしまったかのようにあっけらかんと答えて、「それがどうかしたの?」と問い返す。
「……別に何でもないから。気にしなくていいよ」
傍から見たら、今だって決して幸せではないけれど。
それでも笑いながら、ただ楽しそうに日々を送っている。
特別なことなんて何もない日々の中。
生きていくのは、こんなにも楽しいことだっただろうかと思うほど、僕たちに向けられる笑顔はいつもキラキラと輝いていた。
「マモルちゃんを見てると、世の中には楽しいことがたくさんあるんだって思うよねえ」
この診療所に来る患者さんのほとんどはケガにも病気にも縁のない人。
けれど、毎日のように誰かがお茶やお菓子を持ってくる。
それもあの子がここへ来るようになってからのこと。
「うちじゃ、孫だって小遣いが欲しい時くらいしか相手にしてくれないからね。血の繋がりなんてアテにはならないってことだよなぁ」
金銭的には恵まれていて、悠々自適な生活に見えるのに、寂しさを紛らわしてくれる相手さえいない。
そんな人ばかりだから。
「闇医者、全部終わったよ」
まるでコロコロと転げまわる子犬のように笑いながら狭い廊下を走ってくるこの子がいっそう愛らしく映るのかもしれない。
「ありがとう。お疲れ様。じゃあ、お茶にしようかな」
「わー、俺も手伝う」
弾んだ声で返事をしながら後をついて来る。
些細な幸せを両手で大切に受け取るような笑顔を見るたびに、母親がどんな気持ちでこの子を育ててきたのかがわかるような気がした。
父親のない子供として生まれ、若い母親とは幼い頃から擦れ違いの生活。
この子が人並みの体格に成長していないことから考えても、食べることさえままならなかったのだということは容易に想像できた。
どんなに贔屓目に見ても恵まれた境遇ではなかっただろう。世間がどんな目で自分たちを見ていたかもわかっていたはず。
それでも、母親がどれほど自分を愛していたのかをちゃんと感じ取っていたから、亡くなった今でも彼女のことはとても大切に思っていた。
『俺、ここに来てからいろんなことできるようになったよ』
そう言って笑った後、
『母さんが生きてたら、全部やってあげたのにな』
付け足される些細な言葉に胸が締め付けられた。
「ね、闇医者。牛乳もあっためるんだよね?」
痩せた体に伸び切ったシャツ。靴もパンツもすり切れていたけど。
「え……ああ、そう。お願いね」
温かで他愛のない会話の中、僕が何か答えるたびに明るい瞳が返ってくる。
「闇医者の紅茶、すっごくおいしいよね」
「喜んでもらえると僕も嬉しいよ」
大人たちが返すつまらない言葉にもいつも心からの笑顔を向けて。
どんな時でも、受け止めるように、包み込むように。
何の見返りも求めずに向けられる気持ちに、甘えているのは僕らなのだと気付かされる。
強くて、脆くて、優しくて、他人の痛みで心から泣ける子だから。
傍にいるだけで心が安らいだ。
あまりにもありきたりで記憶にさえ残らない日々。
ただ退屈に流れていくだけの季節。
なのに。
「ね、マモル君」
同じ時間の中にいるはずのこの子は、何故こんなにも楽しそうに笑うのだろう。
「なに?」
幸せかと尋ねたら、何と答えるのだろう、と。
ふとそんな気持ちが過ぎって行く。
けれど。 「……闇医者、どうしたの?」
ためらうことなく「うん」と頷く明るい声が今にも聞こえる気がして、その問いは言葉にすることなくまた気持ちの中にしまい込んだ。
「患者さんがおいしいケーキを持って来てくれたから、お皿も用意してね」
「わー、楽しみ。今日、お天気もいいから、みんな来てくれてにぎやかだよね」
こんな日って大好きだな……と笑う瞳に、「そうだね」と答えて、窓から空を見る。
目に映るのは、ただ、ひどく青い空。
なのに、それでさえこの子にとっては大切な幸せのひとつ。
「そんなつまらないものは幸せなんかじゃないよ」と意地の悪い大人が告げても、きっと元気よく首を振るだろう。
何の迷いもなく。
ただ、笑顔で。
羨むことも拗ねることもなく、今あるものに感謝しながら、自分の日々を生きていく。
今までずっと母親と二人でそうして来たように……―――
「じゃあ、患者モドキにあとでお礼言わなきゃ。あ、忘れないうちに今から言ってこようかな。それとも、食べる時のほうがいいと思う?」
愛らしい悩みに笑顔で答える。
「今言ってきたら、一番大きなのを貰えるかもしれないよ?」
こんな遣り取りも幸せの一つ。
「え? ホント?」
急に慌てるその様子も微笑ましくて。
「転ばないようにね」
「うん、大丈夫」
バタバタと走っていく様子を温かい気持ちで見送りながら、望んでも悔やんでもどうにもならないものにしがみ付いている自分の愚かさを噛み締めた。
過ぎ去った時間はもう十年以上にもなって。
その間に「あの時こうしていれば――」と何度も思った。
けれど。
何度悔やんでも弟は帰って来ない。
どんなに望んでもあの頃には戻れない。
判っていても、そんな後悔から抜け出せずにいた。
物思いに耽っていると、またバタバタと足音が聞こえて。
目が合うと嬉しそうに報告をした。
「えへへ。一番先に好きなのを選んでいいって」
どうせこの子のために買ってきた物。
全部食べたいと言っても叶えてもらえるだろう。
けれど、この子の望む物がそんなつまらないものでないことは、みんなが知っているから。
「よかったね」
「うん」
暖かく日の差し込む午後。
賑やかに囲むお茶のテーブル。
笑いながら過ごす時間。
「みんなで食べるとおいしいよね?」
「そうだね」
ただ惜しみなく与えられる温かい気持ち。
子供は気楽でいいねえ、なんて言う人もいるけれど。
そのうちに少しずつ気付いていく。
「中野も早く仕事が終われば一緒にケーキ食べられるのになぁ」
透明で純粋な気持ちは、きっと大人になっても変わらない。
だからこそ惹かれていくのだ、と。
そして、それはきっと彼も同じ。
「護君って、いい名前だよね」
「うん。母さんが付けてくれたんだよ。俺も気に入ってるんだ」
父親の代わりに神様が守ってくれるように。
そう祈りながらつけた名前だと聞いた。
金も学歴も家柄も恵まれた容姿も、母親は何一つこの子に与えてやれなかったけれど。
誰からも愛されることで生きていかれるようにと願った通りの人生を神様はちゃんと与えてくれた。
「闇医者、神様っていると思う?」
「うーん……どうかな」
その笑顔に癒されながらも、無邪気な問いにやるせない気持ちが過っていく。
神と名のつくものが本当に存在するなら、それはとても不公平で意地悪だと、目の前の現実を見るたびに思ってしまうから。
「マモル君、どうしてそんなこと聞くのかな?」
「えっとねー」
その後、「神様に頼みたい事があるのだ」と告げた口元は本当に真剣で、そんな言葉を聞きながらまた自然と笑みがこぼれた。
願い事は一つだけ。
この子が一番好きな人の幸せ。
とても単純で、けれど、難しい願い事。
彼は。
多分、神様には好かれない人だから。
どんなに一生懸命に願っても、叶わない事はある。
「じゃあ、マモル君はそれを持ってね」
「うん。落とさないように気をつけようっと」
真剣な面持ちでトレイを持ち上げる。
そんな横顔を見ながら、苦い言葉が気持ちの中を何度も過ぎっていく。
『中野さんはマモル君をそばにおいてあげることができないんだよ――』
本当の事を告げないのが思いやりなのかどうか、自分でも時折わからなくなる。それでも、今はただこうして温かい時間を過ごさせてやれたらと思う。
たとえ、それが刹那の幸せでしかなかったとしても―――
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