素直な分、騙されやすい子だった。
けれど、何度騙されても人を信じることをやめない子だった。
彼はそのたびに馬鹿だと言って呆れていたけれど、そんな言葉とは裏腹に、あの子がちゃんと公園に戻ってきているかをいつもどこかで気にしているように見えた。
だからこそ、ちゃんとあの子を迎えてくれる人がいる場所で生活させたいと思ったのかもしれない。
彼があの子を手放した時、僕はそれを不満に思っていたけれど、それでも「あの子にとってはそれが一番いいのだから」と、そんな言葉で自分を納得させて送り出した。
『気をつけてね』
どこか寂しそうな背中を諦めに似た気持ちで見送った後、今度こそ幸せになって欲しいと祈り続けたけれど。
そんな思いはわずか数日で無残に壊された。
「……もうすぐクリスマスなのに」
神なんてやはりこの世には存在しないんですね、とつぶやいて窓の外に目をやったけれど、ビルの隙間に見える人波もそれほど幸せそうには見えなくて、それがまたため息に変わる。
「まだ誘拐されたって決まったわけじゃないんだろう? 患者さんが心配するから、先生は元気出さないとなあ」
クリスマスムード一色にライティングされた街の片隅。
あの子が消えたことを知った日に、見えない何かに苛立ちを覚えた。
あの子が叔父の家に戻っていないことを知ったのは、知り合いに頼まれて出向いた会社の社長室。事情があって簡単な健康診断書が必要だからと呼び出された時だった。
手渡された書類は保険会社のもの。ごく簡単な検査の数値を記入する箇所がいつくかあり、それを埋めるだけの仕事だった。
すぐに済ませて帰ろうと思っていたのに。
「適当に書いておけよ」
「そういうわけにはいきません」
面倒くさそうにシャツをはだける、その胸元に唇の跡。
けれど、それには気づかない振りをして問診を終えた。
これといって会話もない。別に気まずくはなかったけれど、静かな部屋には強力な空気清浄機が回っていて、それがなんとなく彼を思い出させたから、世間話のつもりで口を開いた。
「最近、中野さんをお見かけしないのですが」
あの子の様子を聞きたくて彼の携帯に何度も電話をしたけれど、一度も繋がらなかった。もちろんメールの返事もない。
気になっていたことをそのまま尋ねたが、シャツのボタンを止めていた男は一瞬の間の後で意味ありげな笑いを浮かべた。
「―――そう言えば見かけないな」
何か言いたそうで、けれど、それ以上は何も言わなくて。
わざとらしいほどに何かを知っていることを匂わせていた。
もとよりそういう性格の男。そんなことは百も承知の上だし、何よりも、彼の所在など自分には関係のないことだと判ってはいたけれど、嫌な胸騒ぎに押されて焦れたように聞き返した。
「何か、ご存知なんですね」
『ふらりといなくなった』というなら、そんなことはしょっちゅうだから、別段驚きもしなかっただろうけれど。
「仔犬を捜しに行ってるんだろ?」
なんの勿体もつけずに返ってきたその言葉に血の気が引いていく。
「……まさか―――」
マモル君のことですか、と問う前に、その口元にまた薄い笑いが浮かぶ。
「なんだ、知らなかったのか」
行方不明だ―――と。
こちらの反応を探るような目線が向けられた瞬間、視界が色を失った。
フラッシュバックする、雨の屋上。
弟が消えていった日の灰色の空。
「いつから……ですか」
最初から叔父の家に戻る気などなかったのだろうということも、その時に初めて知った。
「啓のところに挨拶に行ったんだろう? 様子が変だって気付かなかったのかよ」
「……何も」
気付いてやれなかった。
今にして思えば、帰りたくない素振りは見えていたのに。
でも、あの子なら彼の言うことだけは聞くと思っていたから。
そして、決して嘘など口にはしないと信じていたから。
「……どうしてそんなこと―――」
笑ってついた嘘は、きっとあの子自身を悲しませただろう。
どんな気持ちで別れを告げたのかを推し量ることさえ苦しくて、無意識のうちに目を閉じると、あの子の泣き顔がまぶたに浮かんで消えていった。
「一人で生きて行けるような子じゃないのに」
そう思っただけで目の前が暗転する。
なのに、男は表情一つ変えずに追い討ちをかけた。
「そうでなくても仔犬は一度狙われてるからな。奴らに掴まったら、今度こそヤバいだろう」
諦めろ、と言われた。
けれど、そんな簡単な言葉で気持ちが片付くはずもない。
「あの子に万一のことがあったら―――」
弟を亡くした時の喪失感が真っ暗な口を開けて蘇る。
「まあ、その時はその時だ。ここで騒いでどうにかなるもんでもない」
弟が死んだことについても「死にたい奴は死なせておけよ」と言い捨てた男だから、慰めの言葉など期待してはいなかったけれど。
「……中野さんから連絡があったら、どんな様子だったかだけでも教えてください」
もしも、また失うことになったら、彼はどうなるのだろう。
あの日、あの子を止めなかったことで、また一つ重い後悔を背負うことになるのだろうか。
「まったく、弱みなんて見せるから面倒なことになるんだ。さっさと捨てちまえば良かったものを」
この男の言う通り、彼があの子に執着など見せなければ、あるいはこんなことにはならなかったのかもしれない。
けれど。
「……一生懸命に自分の幸せを願ってくれる相手を、そんなに簡単に捨てることができなかったんでしょう」
いつだってあの子は自分のことよりも彼を気にしていた。
彼だってそれは気付いていたはず。
「そんなのはおまえの思い込みだ。くだらないことでヤツを縛るなよ」
実際、彼がどう思っているのかなんて誰にも解らない。
僕にも、この男にも。
「僕は……ただ、彼が少しでも幸せになってくれたらと―――――」
彼と出会ってから、十年以上の時が流れていた。
『弟にはもうあまり時間がないんです。最後のわがままだと思って叶えてやってもらえませんか』
そう頼んだことも、ついこの間のことに思えるのに。
いつまで経っても褪せない痛み。
長くは生きられないとわかっていたから、せめて残りの時間だけでも望むように過ごさせてやりたかった。
ただ、それだけのこと。
なのに――――
「引き摺ってるのはおまえの方だろう?」
本当のところ、彼の幸せを欲しているわけではなくて、ただ行き場のない苦しさを少しでも軽くしたいだけ。そう言われたら、否定はできなかっただろう。
それでも。
「……だって、いい子なんですよ。とても」
できることなら誰よりも幸せになって欲しい。
それだけは、純粋な気持ちで願っていた。
弟の代わりとしてではなく、あの子自身のために―――
「手を貸していただけませんか」
そう告げたら、男の口元に笑いが浮かんだ。
「くだらないな」
そんな言葉を吐き捨てて、新しい煙草に火をつける。
「勝手にいなくなったんだろ? 好きにさせておけばいい」
なぜ嘘までついて黙って消えたのか、あの子をちゃんと見ていたらきっとわかったはず。
なのに、気付いてやれなかった自分に無性に腹が立った。
誰にも甘えず、たった一人で生きて行くことを決めた時、あの子を支えていたものは何だったのだろう。
「……中野さんが探しているなら、大丈夫だとは思いますけど、でも」
自分の言葉なのに、やけに乾いた音で耳に響く。
目の前の男はまったく関心がなさそうな顔で「どうだかな」とだけ告げて煙を吐き出した。
「冷たいですよね」
「正直なだけだ」
ほんの少しでいい。どんなわずかな希望でもいいから……と、記憶の奥をひっくり返して少しでも慰めになりそうな材料を見つけようとしたけれど。
「でも、中野さんはいつだってちゃんとあの子を探してくれますし、それに」
空回りする気持ちの中で必死に並べた言葉さえ、またすぐに否定された。
「そりゃあ、啓が頼むからだろう?」
「そうかもしれません。でも、僕が頼めば彼も迎えに行きやすいかと―――」
よけいな世話と思いつつ、彼にかける電話の意図。
それが口実になればと願ったことも、そうすることで僕自身が安心したいだけなのだということも、彼はきっと気付いていただろうけれど。
迎えに行くのも行かないのも、決めるのは彼。
けれど、一度だって拒んだことはなかったから。
それが、彼なりの愛情なのだと信じていられた。
「おまえの妄想をヤツに押し付けるなよ」
確かに、あの子に会ってからずっとそれに縋っていたのは自分で、この男の言葉は間違ってなどいないと思う。
あの子が彼の気持ちを救ってくれたなら、僕自身の罪の意識も軽くなるかもしれない、と最初は本気で思っていたのだから。
けれど、今は―――
「……久世さんは、中野さんとあの子が一緒にいるところをご覧になったことがないんですよね」
「だったら、なんだよ」
あの子が泣いても笑っても目を逸らす。
今なら、そんな彼の気持ちもわかるような気がするから。
「らしくないほど、優しそうに見えるんですよ」
錯覚なのかもしれない。
けれど、どんなに不確かでも信じていたいことはある。
「まったく、バカばっかりだな」
静かな部屋に呆れ果てた声が響いて、また笑い飛ばされるだろうと思っていたのに。
「そう言えば、前に北川に売り飛ばされたガキを探してたっけな。あれも仔犬のことなんだろう?」
仰々しいほど重厚なつくりのデスクに片肘をついて、口元をゆがめたままわずかに視線を上げた。
その目を見て、この男が彼とあの子について僕が思っているよりもずっと多くのことを承知しているのだということを知った。
「……はい」
短い返事の後。
煙草を咥えたままの口から、もう一度「バカだな」というつぶやきが聞こえて、その瞬間にさっきまでの焦燥感は消えていった。
「―――久世さん」
「ああ?」
いざとなったら手を貸してくれる気があるのだという確信がどこから来るのかは自分でも判らなかったけれど、それでも、気持ちのどこかに「大丈夫だ」という安堵があった。
「神って信じますか?」
愚問もいいところだと思いつつもそんな言葉を投げかけたのは、自分が欲しているのが他人の肯定ではないとわかっていたから。
「おまえだって信じちゃいないだろう?」
返された問いに少しだけ頷きながら、窓の外に目を遣った。
「……でも、あの子が無事に戻ってきたら――――」
最後まで言い終わらないうちに、男は無遠慮に白い煙を吐きながら笑い出して、背もたれを少し倒すと机の上に足を上げた。
「おまえにしちゃ、随分と可愛げのあることを言うじゃねえか。まったく、どいつもこいつも仔犬ごときに骨抜きにされやがって」
中野は絶対に面食いだと思っていたが……という暢気な言葉のあと、悪戯な笑みを含んで男の口元がほころんだ。
「ま、今度のことは俺には格好のネタだ。こんなことくらいで中野の首に鎖をつけられるなら安いとは思わないか?」
そんな言葉とは裏腹に、本気で彼を拘束できるなどとは思っていないことも伝わってきたけれど。
「……さあ、どうでしょうね」
曖昧な返事だけを残して、重い扉を開けた。
静かな廊下にカツンと冷たく響く靴音。最上階から一気に地上へ降りるエレベーターの浮遊感。
眩暈と不安と、あの子の面影が交互に過ぎった。
「雨が降りそうですので、お気をつけてお帰りくださいね」
顔見知りの受付嬢に見送られ、軽い会釈をしてからビルを出た。
見上げた空は重い灰色。
肌を刺す風に気持ちが塞がって、同時に薄れた記憶からあの子の声が蘇った。
『ね、闇医者』
『なに?』
『中野ってさ、すっごい雨降っててもタバコ買いに行くんだよ。俺、昨日も中野に会ったんだ』
雨の日くらいガマンすればいいのにね、と笑うあの子を見ながら、あの日、僕はただ微笑んでいた。
――――それはね、マモル君を探しにいっているんだよ
そう言えたら、どんなに喜んだか知れないのに。
けれど、それさえ口に出せなかったのは、彼がいつかあの子を手放すと判っていたから。
「……見つけてくれますよね」
無意識のうちに口をついた呟きは、誰かの耳に届くより早く街の喧騒に吸い込まれていく。
これから起こることなど何一つ予想さえできなかったけれど。
でも、きっとあの子は彼が連れ戻してくれる。
それだけは信じていた。
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