Tomorrow is Another Day


物語の終わり

―穏やかに変わる季節の中で―




あの子がようやく手元に戻った時も、彼は嬉しそうな顔一つしなかった。
けれど、あの子の意識が戻るまでの間、ずっと付き添っていたその姿が今でも瞼に焼き付いている。

「マモルちゃんは寝てるんかい?」
「いえ、今は一人でテレビを見てると思いますよ」
それどころか、状況が落ち着いたらすぐにでも叔父の家に連れていくと言って聞かなかったけれど。
「退院したら、寂しくなるねえ」
「……そうですね」

正しいのは彼で。
ただ僕らは、ここに置いておくことよりもあの子には相応しい生活があるということを認めたくなかっただけ。

「携帯とか買ってやったら……」
「必要なら、中野さんが買ってあげますよ」
「ヨシ君、照れ屋だからなあ」
寂しがり屋は大人たちのほう。
僕だってそれは同じだけれど。
「マモルちゃんの学校って遠いんか? もっと近場でいいところも……」
ここに引き止めておきたい。
けれど、幸せになって欲しい。
「小宮さん――――」
色々な思いが交錯していく。
「……わかってるつもりなんだけどねえ」
あの子のために僕らに出来ることなんて、たかが知れているけれど。
「そんなにご心配なさらなくても、マモル君はちゃんとやっていかれますよ」
僕らが願うなら、あの子は精一杯応えようとしてくれるだろう。
だから。
「マモル君にとって一番良い未来を願ってあげましょうね」
「そうだねえ……」
あの子が僕らに向けてくれるのと同じ気持ちで、あの子の幸せを願ってあげようと決めたのだから。
「じゃあ、マモル君のところに行ってきますから」
そう言って、手にした花を見せると、ようやく諦めたように笑って目を細めた。
「マモルちゃんの部屋に置くんかい?」
「ええ。たくさん買ったので、診療所にも同じ花を活けてありますよ」
たまには向こうも覗いてくださいね、と告げたら「そうだねえ」という曖昧な返事があって、それから。
「先生、もう白い花はやめたんかい?」
診療所でも同じことを聞かれたなと思いながら、笑い返す。
「せっかくだから春らしい花にしようかなと思って」
以前あの子が供えてくれた花を思いながら選んだ暖かい色。花びらの先の部分だけピンクに縁取られたチューリップの花を眺めていたら、今までの会話などすっかり忘れた頃に暢気な声が聞こえてきた。
「もうすぐ春だからねえ」
少しずつ明るくなっていく陽射し。
去年までの自分なら、それさえ鬱陶しく思っただろうけれど。
「小宮さんもお時間があったら顔を出してください。マモル君、きっと喜びますから」
頷いてのんびりと歩いてくる初老の男を見つめながら、ふっと息を抜いて。それから、静かにドアをノックした。


「マモル君、入るよ?」
彼があの子を守るために用意したボディーガードつきの部屋の奥で、ぼんやりと外の景色を眺めていた顔がパッと明るさを見せた。
「あー、チューリップだ。俺、小学校の頃、球根育ててたんだよ。ピンクじゃなかったけど」
「何色だったの?」
「きいろー」
屈託のない笑顔と他愛もない話に目を細めながら、次は黄色い花にしようかな……と、明るい気持ちで微笑み返した。

どうにもならない思いを持て余しながら過ごした10年という月日の、深い傷、消えない痛み。
癒せるものなどないと思っていたのがまるで遠い過去のように、迎えた春はやわらかで暖かだった。

「今日、中野がくるんだよね?」
起きている間ずっと一緒にいてくれるといいな……なんて、少しはにかんだように笑いながら、待ちきれない様子で時計とドアを見比べる。
そわそわしながら、時折り振り返ってはまた照れたような表情を浮かべて。
そんな笑顔に、自分の気持ちの中でまた少し何かが溶けていくのを感じた。

「ねー、闇医者、俺、なんか手伝おうか?」
長い入院生活でそろそろ退屈になっているのだろう。
花を活け終わると、すぐにそんな申し出があった。
大分良くなったとは言え、怪我人なのだから寝ていればいいのにと思うけれど。
「だって、ひまなんだよなぁ」
そう呟きながら楽しそうに僕の手元を眺める。
「じゃあ、これを番号順に揃えてもらえるかな?」
小児科で使う玩具のカードを差し出すと嬉しそうにそれを受け取った。
何がそんなに楽しいのか、やっぱり僕にはわからないけれど、嘘のない笑顔につられて、気付いたら微笑み返していた。
「それで、さっきテレビでね」
コロコロと変わる表情と、あまり器用とはいえない手先を交互に見つめながら世間話をして。
けれど、しばらくしたら、話はやはり彼のことになった。
「……ね、闇医者。中野ってさ」
ベッドの上に広げたカードをもてあそびながら、もじもじと言葉を続ける。
少し膨れた頬が愛らしい。
出会ってもう何ヶ月も経つけれど、彼の呼び方は『中野』のまま。
それもなんだか微笑ましくて。
「何?」
気付かれないようにいつもこっそり笑ってしまうのだけれど。
「ぜんぜん俺の名前呼んでくれないんだけど、どうしてだと思う?」
彼が未だにこの子を名前では呼ばない理由がどんなものなのかは判らない。
ただ照れくさいだけなのか、それとも。
「―――好きになりすぎると困るから、呼ばないだけじゃないかな」
冗談めかしてそんな答えを返す。
こんな悩みは、多分幸せな証拠。
彼もこの子も。
きっともう大丈夫だと思うから。
「でも、名前呼んだからって好きになりすぎたりしないよね?……っていうか、中野ってちょっとでも俺のこと好きなのかなぁ」
言いながら一人で落ち込んで。
それを見た小宮さんが笑いながら慰めて。
「ヨシくん、照れ屋だからなあ」
そんな言葉も本当に温かく耳に響く。
彼の幸せもこの子の幸せも、それから、僕の幸せまで、ずっと願ってくれた人だから。
「それって関係あるのー?」
「呼んだらマモルちゃんが喜ぶだろう?」
「喜んじゃダメなのかなぁ」
「それで『ヨシくん、照れ屋だから』って言ってるんだよ」
「ふうん。なんか、よくわかんないけど」
でもなー……と口を尖らせて、僕を見上げる。
「じゃあ、中野さんに『名前を呼んで欲しい』ってダダこねてみたら?」
開け放した窓の向こうで、少しだけ暖かくなった空気が舞い上がる。
それを追う様にあどけない視線が空を仰ぐ。
「そんなこと言えないよー」
『やっぱりいいや』と言いながら、少しガッカリしたようにうつむいて。
こんな仕草も愛らしくて、彼が見たらどんな顔をするだろう……と、思わずにはいられない。
「じゃあ、中野さんが来るまで少しお休み」
いつか彼の傷も癒えるだろう。
「うん。ありがと、闇医者」
どんな時も手放しで自分を受け入れてくれる。
そんな人が傍にいてくれるなら。
そして、たとえ離れて生きていくことになっても、永遠に思ってくれる人がいるのなら……―――



病室を出ると静かにドアを閉めた。
「ヨシ君、ちゃんと来てくれるよなあ?」
彼の目は今でも真正面からあの子を見てあげることはないのだけれど、それもいつか変わっていくだろう。
今はまだそんな気持ちは欠片さえ見せようとしないから、余計な世話とは思いながらも口を出したくなるのだけれど。
「ご心配でしたら電話してみますけど」
多分、大丈夫ですよ……と言いながら、静かな通路を進むと目の前に待ちわびた相手の横顔があった。
ナースセンター脇のスペースでタバコを咥えたまま、今でもやはり視線は窓の外に投げられていたけれど。
「中野さん、ここ禁煙ですからね」
聞いているのか、いないのか。良くわからない表情でライターをポケットにしまうとしぶしぶと中庭に消えて行く。
その後ろ姿を見送ってから、隣に立っていた小宮さんに視線を移したけれど。
「……やっぱり電話してあげようかな」
他愛もないいたずらのように。
「先生もおせっかいだねえ。病院で携帯はダメなんだろう?」
小宮さんは笑うけれど。
「ちゃんと彼が外に出た頃にしますから」
中庭の片隅に置かれている灰皿の前に彼がたどり着いた頃を見計らって、ナースセンターの受話器を上げた。
「……もしもし、僕ですけど」
電話越しにさえ外の空気を感じるような、そんな気配の中。
「さっき、言い忘れたことが―――」
一言も発しない彼がどんな顔で聞いているのかを思い浮かべながら、
「マモル君、中野さんに名前で呼んで欲しいみたいですよ」
そう告げてみたけれど。
彼からはとても短い返事がひとつだけ。


『わかってる』


愛想のない声に笑いを堪えながら電話を切った。
「ヨシくん、なんだって?」
興味津々といった様子で僕の顔を覗きこんでいる小宮さんに笑いながら。
「わかってるそうです」
長い廊下に降り注ぐ日差しに目を細めて、そう答えた。
「ヨシくんらしいなあ」
「そうですね」
そういうところが中野さんは駄目なんですよね……と言葉を足して、また少しだけ微笑んでみる。
「まあ、ヨシ君だからなあ……」


静かな午後。
「いいお天気でよかったですね」
彼の見つめる先が鮮やかな青い空なら、あの子はきっと喜ぶから。
「そうだなあ。もう随分あったかくなってきたねえ」
晴れ渡った空は、幸せの一つ。
今ならきっと彼にもそれが分かるだろう。
「中野さんが戻ってきたら、マモル君を起こしてあげないと」
かすかに季節の匂いを含んだ風が窓の向こうを通り過ぎる。
「マモル君、喜ぶでしょうね」


このままみんな幸せになれるように……と。
片隅に飾られた春の花にそっと祈った。

                                       end







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