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用は済んだけれど、そのまま帰るのが名残惜しくて。
無意識のうちに足が止まった俺の背中を峯村が勢いよく押した。
「じゃ、次は第2校舎」
「第2校舎?」
「そ。せっかくだから、寄っていこう」
行き先は授業を抜け出して峯村と待ち合わせた屋上。
階段を駆け上がってドアを開けると、遮るものなく広がる景色。
まるであの頃と同じ。
空と、吹き抜ける風。
校庭から聞こえる声まで何一つ変わらない。
しばらくの間、俺も峯村も立ち尽くしていた。
引き込まれるようにまた同じ気持ちを辿る。
迷って。
結局、言えなかった。
今でもずっと、同じところを巡っている。
ため息を隠して空を仰いだ。
時折、ふわりと暖かい空気が流れてくる。
甘い香り。
なのに、少し苦しくなる。
「……な、相沢」
隣りで深呼吸をしていた峯村が、不意にクルリとこちらに向き直った。
「なんだ?」
目線の高さも、問いかける表情も。
次ぎ次とあふれてくる記憶の通り。
「あの日、本当は俺に何言おうとしたんだ?」
「え……?」
「聞いたら5秒後に忘れろって言ってたアレだよ」
7年以上前の、たった一瞬のこと。
なのに。
「……覚えてたのか?」
「うん。俺、ずっと気になってたんだよなあ。相沢、あの頃から妙に秘密主義だし」
笑いかける瞳が少し大人びて。
みつからないように隠していたものを探し当てられてしまいそうな気がした。
「そういうわけじゃ……」
「なら、言ってみろって。怒らないから」
まさかこんな会話を繰り返すとは思わなくて、また苦笑いしたけれど。
「ほら〜、あ、い、ざ、わ。言ってみろって。どうせ、もう時効だろ?」
急かされて。
空を見上げてから、今度は本当に笑った。
「……もう、忘れたよ」
忘れてしまえたらよかったのだろうか。
それは自分にも分からなかったけれど。
「なんだよ〜。相沢、頭いいくせに肝心なことだけ忘れんなよ」
不満そうに見上げている峯村に、代わりの言葉を投げる。
「あの時、それ以外にも峯村に黙ってたことがあったんだ」
雨が上がるのは2時過ぎから3時頃。
あの日、朝の天気予報でそう言っていた。
「だから、2時くらいからスタンバイしてた」
隠していたのがこんな他愛もない罪なら、笑い話になるだけなのに。
「マジ? 卑怯者〜〜っ!」
スーツを着るようになっても峯村はあの日と変わらずにはしゃぎながら俺の肩に手を回す。
向けられた笑顔が、やっぱり眩しかった。
「よし、ダッシュ!」
ふざけあいながら階段を降りる。
ゆっくりと閉まる屋上のドアから漏れてくる光がなくならないうちに着地できるように。
そんなゲームもまだ体が覚えている。
その後もお決まりの順路。
校舎から自転車置き場までの少し長い帰り道を辿る。
「このへんってさ、絶好の散歩コースだったよな」
花壇の脇を通り、桜の下を歩く。
それが途切れると、目の前にはグラウンド。
視界が開けるのと同時に抜けるように青い空が広がった。
「文化祭のあとくらいにさ、この辺で相沢、告られてたんだよな。覚えてる?」
鮮明に刻まれている。
好きだと言われたことじゃなくて。
あの時の自分の気持ちと、峯村の横顔。
「……ああ。よく覚えてるよ」
どんな表情でどんな話をしたのか。
それから。
見上げた空と星の色も。
緩やかに交差するあの頃の記憶と、目の前にある景色。
流れ落ちる花びらの軌道を追う振りをして、隣りに目をやる。
頬をかすめる風は暖かく、峯村の横顔も少し色付いていた。
「さて、あとはどこ行こうかなぁ」
つぶやくたびに何度も見上げる空は、なんの変哲もない春の色だけれど。
懐かしむために歩いているわけじゃないことは最初からどこかで感じていたのかもしれない。
「なんでそんなにあっちこっち―――」
聞き返すと、峯村はわずかに口元をゆがめて笑った。
「……何かあったのか?」
きっと、そうなのだろうと思っていたけれど。
告げられた言葉にやはりショックを受けた。
「俺、転勤になった。四月一日付けだ。今週引継ぎを終えて、来週着任」
言葉を失った俺に、峯村は慌てて「遠くはないんだけどな」と付け足した。
「電車だと東京駅行くのに一時間かかるし、そこからまた電車だから、思ってるより時間かかるけど」
車だったら二時間かからないんだけどな、と告げて寂しそうに笑った。
「そんな急に……」
急だと思うのは気持ちがついていけないから。
それは分かっていたけれど。
「あー……ってか、ホントは2週間前に内示もらってた。けど、なんか言えなくてさ」
半ば呆然としながら、その言葉を噛み締める間にも峯村は話し続ける。
「戻れるとして、三年後くらいかな」
新しい職場はどんなところで、どんな先輩がいて、どんな仕事をするのか。
切れ間なく言葉を押し出す峯村の声が遠くなった。
いつかはこんな時がくることくらい、疾うに覚悟していたはず。
なのに……―――
立ち尽くす俺の隣で、不意に明るい声が途切れた。
それから。
「相沢と、そんなに長く離れたこと、なかったよな」
たった今、自分の気持ちの奥にしまおうとしていた言葉が耳を抜けて、思わず顔を上げた。
「転勤って聞いたとき、俺が戻ってくる頃には相沢はもう結婚してるかもしれないな……とかってさ、いろいろ考えたんだ」
だからどうって言うんじゃないけど、と付け足して無理に笑顔を見せる。
寂しそうにも聞こえるその言葉の裏が同じ気持ちならと願わずにはいられなかった。
「……なんか、俺、一人でしゃべってて……それよか、なに言ってるのかわかんねえな」
峯村にしては煮え切らない言葉が繰り返されて。
それを聞きながら、ようやく決心した。
少しだけ微笑んで。
やっと。
「峯村」
「なんだよ?」
こんな穏やかな気持ちで告げる日が来るとは思わなかったけれど。
「今から俺が言うこと、黙って聞いて。それから、5秒後に忘れて」
あの日と同じ言葉。
けれど。
ずっと見つめ続けてきた相手は、驚きの代わりにいつもの笑顔を見せて、
「いいよ」
ただ、そう答えた。
舞い散る桜と、空の青。
甘い香りを残して、痛いほど淡く光る春―――
end
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