I want

-春
-


−1−


「悪い、相沢。待たせたな」
待ち合わせた駅前のターミナル。
駆け寄ってきた峯村は相変わらず屈託のない笑顔を向けた。
土曜日だというのにスーツ姿。
「いや、全然。峯村こそ仕事だったんだろう? 大丈夫なのか?」
「平気、平気。基本的には休みだからな。どうしても今日じゃないとダメって用事が一個あったんだけど、もう済んだし。相沢だって土曜日は休みじゃないんだろ?」
院を出たあと製薬会社の研究室に配属になったのは去年の四月。
仕事は大学の続きのようだったし、環境も悪くない。
ただ、土日も休みが思うように取れないということは峯村にも何度か話していた。
「まあ、たまには休みももらわないとな」
そんな返事の裏に、今日、仮病を使ったことは隠しておいた。

峯村に連れられてバスに乗ると真新しい制服が目に付いた。
「どこ行くんだ?」
「神社」
「え?」
「三年の時、一緒に合格祈願に行っただろ?」
やけにノスタルジックな気分になったのは、きっと峯村の笑顔のせい。
「なんでまた……」
問い返したが、それに対しての返事はなかった。
「そこからまたのんびり戻ってきて、我らが母校着は三時半」
ただそんな言葉とともに笑ったままの視線が戻ってきた。


走り出すバス。
窓の外を流れる家並み。
褪せた看板、真っ白い横断歩道。
「この辺、変わってないなあ」
全てが昨日のことのように思い出される。
「俺らって華やかなセイシュンがなかったよなぁ、とか言ってたけど。結局、今でもあんま変わってねーもんな。どうよ、相沢?」
そう言って、空を見上げる笑顔もあの頃のまま。
「……どうって言われてもな」
変わりたくなかったのだと言えばいいのだろうか。
ただ、おまえの側で過ごしたかったのだと。
「……それより、急にどうしたんだよ」
まるで古い記憶を辿るようなコース。
「桜の季節だから、つい懐かしくて」なんてことを言うような性格でもないのに。
「実は昨日、ばったり西田に会ってさ。覚えてるか、数学の」
「ああ」
また、懐かしい名前。
峯村が口にする言葉のひとつひとつでノスタルジックな気分になっているのは自分の方だと気付く。
「たまには遊びに来いって言われたんだ」
「それで……いきなり今日なのか?」
「そう。土曜は毎週出勤して、できの悪い生徒のために特別講習してるんだと」
3時には終わるからと言われて、じゃあ3時半にと約束をして。
そういうところも峯村は相変わらず。
「今でも相沢とつるんでるって言ったら、笑ってたけどなあ。……相沢、西田のこと嫌いだったっけ?」
「……いや、世話になったからな」
思い出すのは峯村と屋上で待ち合わせた日のこと。
「ああ、そっか。相沢、西田の授業だったんだっけ。あの後、職員室に呼ばれたんだよなぁ」
あの日、授業がすっかり終わってから教室に戻ると机の上にメモが置いてあった。
いつもは黒板に書かれる見慣れた文字。
『放課後職員室に来るように』
夕刻にはすっかり雨は上がっていて、職員室の窓が淡い光を放っていた。
あの時もなぜ峯村と仲がいいのかと聞かれた。
『自分にはないものに惹かれるのかもしれません』
そう答えた後、しばらく沈黙があって。
それから、
『学校は確かに勉強をするところだが……それだけじゃないからな―――』
学校一厳しいと思われていた教師は、そう言ってふっと笑顔を見せた。


普段はどこかに置き去りにされている遠い日の記憶。
こんな季節だからなのか、すっかり忘れていたはずなのにやけに鮮やかによみがえる。





バス停は神社からすぐの場所。
降りた瞬間に緑が香った。
「で? 結局、西田には怒られなかったんだろ?」
「ああ。たまにはサボりたい時もあるだろうから……って」
思いつめているように見えたのかもしれない。
慰めるように、励ますように、告げた言葉はどれも温かだった。
「成績悪いならともかく、トップのヤツを怒っても仕方ないもんなあ」
どう思われていたのか。
聞いてみたいような、このまましまいこんで置きたいような。
そんな不思議な気持ちで、ふわりと髪を揺らす春の風に目を細めた。



二人で来た神社は、今でもひっそりと静まり返っていたけれど。
吸い込んだ空気はすっかり芽吹いた木々の匂いに変わっていた。
「懐かしいなあ。何年も経つのに、ぜんぜん変わってないな」
石畳を歩きながら淡い雲を仰ぐ。
その短い距離を歩く間、峯村は何度も懐かしいと言ったけれど、それ以外の言葉は口にしなかった。
ただ何かを噛み締めるように、時折り目を細めて空を見上げた。
静寂を揺らして響いて消える。
何も変わらないと思っていたのに。
耳に残ったのは、あの頃とは違う革靴の足音。



バス通りと反対側、学校へ続く近道を下るために神社の裏手の階段を降りはじめた時、ようやくフッと照れたような笑みを見せた。
「自分が受験勉強するなんて思ってなかったからさ、ホントはすっげー焦ってたんだ」
今だから白状するけどなと笑って。
「でも、大学行ってよかったって今なら思うよ。相沢のおかげだな」
先週のこと、この冬のこと。
一年前のこと、大学時代のこと。
峯村の話は少しずつ遡って、遠い日へ辿り着く。
何かあったのかと問いたい気持ちを飲み込んだのは、その横顔があまりにも変わらないから。

出会った日から何も言えないまま見つめてきた。
今日、この瞬間まで、ずっと。
いつまでこうしていられるだろう。
願いながら、悩みながら。
過ぎていった時間にどれだけの意味があったのだろう。




正門をくぐると華やかに桜が舞っていた。
在学中は気にも留めなかったこんな光景が、懐かしい時間を運んでくる。
「いいねえ。絶好の花見日和。酒持ってくればよかったな」
弾んだ声が心地よく耳をくすぐって、なお一層甘酸っぱい気持ちになる。
「そんなことを許してくれるような学校じゃないだろう?」
つられて少し笑ってみる。
いつもそんな関係だった。
「まあ、そうだけどなあ。……あ、新館。俺らの時はできたばっかで他の校舎から浮いてたのに、さすがにすっかり馴染んだな」
淡いベージュが天気のいい日は目に痛いほどだった壁も、今は風景に溶け込んでいた。
何年経ったのだろう。
指を折る。
数えるまでもなく記憶に染み付いた時間だけれど、なんとなく今はそうしていたかった。


スーツを翻しながら、峯村はいつになくはしゃいでいて。
「うわ、体育館も新しくなってんのか。けど、なんか浮いてねえ?」
その明るい声に気付くと、部活で残っている生徒や見知らぬ顔の教師の視線が遠慮なく追いかけてくる。
俺たちにはもうすっかり通り過ぎてしまった場所だから。
今は部外者にしか見えないのだろうけれど。


「峯村、よく来たな。そっちは相沢か?」
職員室の窓から手を振る人影に気づいて、姿勢を正した。
「ご無沙汰しております、先生。お元気そうですね」
「相沢も変わらんな。まあ、話は後だ。ちゃんと玄関へ回ってスリッパを借りて入ってこいよ、峯村」
白髪の目立つ髪と口元に刻まれたしわと。
けれど、声も口調もあの頃のまま。
「なんで俺だけに言うんすか?」
「相沢がおまえみたいに土足で窓から上がり込むとは思えないからな」
「そりゃあ、そうだけど」
こんな遣り取りもまるで変わらない。
「峯村、営業してるくせに敬語もまともに使えないのか?」
「休みの日くらい、大目に見てほしいよなあ」
笑いながら俺たちを見送る穏やかな笑顔。
変わらないように見えても、どこかで7年という月日を感じさせた。


少し照れながらの思い出話と世間話。
それから、少しの愚痴。
あの頃は大人という括りだった教師も、今は同じ目線なのだと気付く。
「また遊びに来いよ」
見送られて職員室を出た時、二人してふっと息を吐いたのも多分そんな理由。
「俺、高校の時なんてあんなに怒られたのにさぁ……なんかみんな丸くなってて、それはそれで淋しいもんだなぁ。……って、俺、ジジ臭い?」
ふざけ半分で、でも残りは本気で、峯村はそんな言葉を口にした。
「今頃、職員室でも『アイツらも大人になったんだな』って淋しがってるよ」
変わっていないような気がしていただけ。
でも、時間は流れている。
「そっか。そうだなぁ……世の中ってそういうものなんだよな、きっと」
そんな峯村の呟きはふわりと流れる春の風に消えていった。

                                    

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