静かな関係
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 いつも通る道に彼の家がある。
 彼は縁側から庭を眺めており、ぼくが通ると笑って手を振る。
 4年前、夏祭りのバイトの帰りに気分が悪くなって蹲っていると
ころを介抱してもらって以来の友人だ。
 彼は歳の離れたぼくのたった一人の友達だった。

 昔から人付き合いが苦手で一人で遊ぶような子供だった。
 ずっと一人っ子のようなものだったから、慣れているのかもしれ
ない。構われなくても平気で、朝から晩まで働く母親を家で待つだ
けの生活がそうさせたのだろう。
 だから急に父親ができた時も上手く懐けず、特にぼくは多感な中
学生の時分だったから「おじさん」としか呼べず、距離を置いてい
た。それでも彼等に子供ができなければぼくもまだ「家族」を演じ
られていたのかもしれない。
 弟が生まれた時、ぼくは疎外感を感じた。
 というよりも上手く家族を演じる自信が無くなったといった方が
正しいのかもしれない。
 彼等に対して家族なら当然持つべき感情を抱けなかったのだ。そ
れが単純に「彼等とは違う」という疎外感に繋がった。彼等と同じ
気持ちにはなれない、それが重荷となっていた。
 結局こちらに大学を選んでからずっと、ぼくはあれこれ理由をつ
けては故郷に帰ることを拒んだ。
 義父とどう接していいのか解らなく、弟に慕われても可愛がって
やれそうになかったからだ。

 こんなぼくが彼と友達になれたのは偏に彼の穏やかな性格による
ものだと思う。
 物静かな彼はどこか達観して世を見ていた。
 いつも背筋をピンと張り、紳士という言葉がよく似合う。
 彼を見ていると、ぼくが生まれる前に死んでしまった父がこうで
あればいいのにと願ってしまうほどで、それほどぼくは彼を慕って
いたのだ。
 大人で落ち着いた彼を。


 仕事帰り、いつものように彼の家へ寄った。
 最近は自分のアパートよりもここにいる時間の方が長い。
「ただいま帰りました、怜一さん?」
 広い家に一人で暮らしている須藤さんは始めて会った時から名前
で呼ぶことを許してくれた。
 彼もまた仲の良い友人がいるようではなかったから、ふとした偶
然に知り合った同じ波長の人間に心を許したのかもしれない。
 ぼくらはお互いによく似ていた。
 孤独なところが、特に。
「ああ、今日は早いね。どうだった、仕事は」
「可もなく不可もなく、ですね」
 熱血でもなく、かといって投げやりな仕事をしているつもりはな
い。ただ毎日生きるために働く、その程度の仕事だ。
「司くんらしいね」
 笑いながら居間に入ってくる。そこから台所へ移動し、作ってお
いた料理を出し始めた。
 ぼくも自然と手伝う。
 最近、こういう穏やかな生活が幸せだと思うようになっていた。
 もしも彼がいなければ、ぼくは生きる屍に遠からずなっていたよ
うな気がするのだ。
 特に不況の波が押し寄せているのをヒシヒシと感じる営業職で、
ストレスに負けていく同僚達を見ているとそう思う。
 みんな、何かを糧に生きている。
 それは妻であったり子供であったり、趣味であったりオシャレで
あるが、そういった執着できるものがなければ生きていくのは辛い。
 ぼくには何もなかった。
 彼と友人になってからも淡々とした生活の中の一部だとしか認識
してなかった。
 だけど気付いてしまった。
 いなくなれば、ということに。
「若い君に合うようにね、少しは肉をと思うんだが」
「いいですよ。ぼくはそんなに食べないですし」
 彼がいなくなるということを考えて、初めて気付いた。ぼくにと
ってとても大事な人だということに。
 普通は考えないだろう。
 でも彼の場合は考えざるを得ないのだ。
「そんなこと言ってるから君はいつまでも細いんだ。わたしより体
 力がないんじゃないのか?」
 とても還暦を過ぎた老人だとは思えない、若々しい人ではあるけ
れど、それでも彼はもう64歳なのだ。
 父が生きていても彼より年下で、義父からすれば一体幾つ下にな
るのか。
 そんな人をぼくは慕っていた。

 最初はただの知り合い、せいぜいが友人止まりの気持ちでいた。
 やがて父親を慕う気持ちに変わった。
 そして、最近はとても近しい存在でありたいと願うようになった。
 それは失うのが恐いという気持ちでもある。
 初めてだった。
 これまで人の気持ちに関心を持ったことはなかった。
 誰かに必要とされたいなど思ったこともない。
 でも今は違う。
 とても大切な存在で、誉められたいような、だけど叱ってほしい
ような、いやただ見ていてほしいだけの、複雑な心境で彼を想って
いる。
 どちらにしろぼくは彼を慕っているのだ。
 敢えて気持ちを口にすることはないけれど、お互いにそれは同じ
だろうと思う。
 彼はいつもぼくの為に夕食を用意し待っていてくれる。買い物は
ぼくが何日か置きにメモを見て買ってくる。
 いつの間にかそうなった。
 押しつけるでもなく、押しつけられたわけでもなく。
 それが当たり前のように行われていた。生活の一部。
 一緒にいることが空気を吸うごとく当然のこととなっていた。
 でもそうやって傍にいればいるほど、ふと思い出されてしまうの
だ。もしもこの淡々とした幸せがなくなってしまったら、と。
 彼の年齢を思い出してしまうのだ。
 ついで、ぼくらの関係が変わったものだということも。

 近所の人に、まあ息子さんがいらしたんですか、と言われたのが
最初の考えるきっかけとなった。
 お父さんを大切にするなんて今時珍しいわね、と誉められたこと
で鈍感なぼくも四年目にして気付いた。
 彼の家族について。
 でも聞くまでもなく彼はずっと一人者だったのだろうと想像でき
た。
 彼の家には他に人のいた形跡はなく、ずっと孤独に暮らしてきて
いたことだけが証明されているようだった。
 いやなによりも、彼はぼくに似ている。
 孤独に気付かずに生きてきたような人だ。
 あるいは気付いていながらそれらを意志の力で抑え込んで達観し
ていたのかもしれない。
 それほど彼は穏やかで感情を表に出さない人なのだ。
「美味しいですね」
「そうかい?」
 ぼく達は口が上手いわけじゃない。
 話すことと言えばこんな挨拶のようなものだけで、結局は無言で
いる。
 だが、それは苦痛ではなかった。
 むしろ幸福に近いものだった。
 これを幸せと感じ始めたのは最近のことだけれど、今までだって
同じように感じていた。
 太陽があることに人が普段感謝しないのと同じように。
 そこにあるだけで生きることに役立っている。
 ぼくもそうであるといい、彼にとって。
 そう願ったのも初めてのことだった。



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