休みの日には少し離れた図書館まで一緒に散歩する。
彼が読む本とぼくの欲しい情報は違うけれど、大抵そこで一時間
ほど過ごしてそれから公園を歩く。
天気が良ければベンチに座り芝生の上を眺める。子供達がボール
で戯れているのを眺めたり犬のはしゃぐ様子を見ていたり。
そんな他愛ない幸せが、あるのだ。
彼がポツリと零したことがあった。
「司くんは若いのだから、わたしのようになってはいけないよ」
と。
彼が何を言いたいのか実は解っていた。
だけど敢えて解らないフリをした。
彼は穏やかに笑っただけでそれ以上の話はしなかった。
彼がぼくを窘めたのはその一度きりのことだった。
同僚に言われたことがある。
「樋口は何が楽しみで生きているんだ?」
付き合いで誘われて飲みに行った時、彼等が休日に何をするかで
盛り上がった。ぼくも聞かれて、素直に答えた。何もしないと。
「付き合ってる女もいない、家族と一緒でもない。ドラマは見ない
し、流行りの歌も知らないなんてなあ。でも何か一つぐらい趣味
ってあるだろう?」
「趣味…ありませんね…」
その答えが最初の疑問に繋がったのだろう。
何が楽しみで生きているのか。
彼等のうちの一人が言った。
「今から老いてどうするんだよ?本当に樋口は淡泊なヤツだなあ」
そうかもしれない。
ただ淡々と生きているだけだから。
生きる為に生きているのだから。
欲しいと強く願うものもなかった。
何も。
だから彼も口にしたのだろう。
まして彼は孤独な老人だったから、あれは彼なりの牽制だったの
かもしれない。
でも今は彼といたいと願う。
こんな生き方は変だろうか。
赤の他人だけれど、居心地のいい場所なのだ。
気持ちが楽になれる。
それに初めてなんだ。
一人になりたくないと切に願ったのは。
人間はいつか死ぬ。
ずっとそう思っていたけれど。
彼と離れるのは辛いと、初めて願った、一人になりたくないと。
ぼくのエゴだということは解っていても。
その写真を見たのは彼の家の大掃除を手伝っていた時だった。
寒い中、開け放たれた部屋の中で見付けた。
几帳面な彼らしく綺麗に整理整頓されていたが風の悪戯で飛んだ
のだろう。写真立てごと落ちてきた。
手に取ると若い頃の彼が映っていた。
美少年と呼ぶに相応しい彼が、若者と一緒に並んでいる。
良い家の出なのだろう、二人とも立派な屋敷の前で高価そうな服
を着て立っていた。
不意に沸き起こる悔しさ。
それはなんなのか。
彼が若いからか。
美しいからか。
隣りに立つ男が彼の親友然としているからか。
それとも。
「司くん、そろそろ休もうか?」
部屋に入ってきた彼を、ぼくは見つめた。
この部屋は彼にとって大事な部屋だ。彼は書斎にいる時間が一番
長い。その部屋に入れてくれたのはいつだったろう。沢山の本を見
せられて嬉しかったのを覚えている。
沢山の本。
重ねられた彼の知識。
それだけ、積み上げられた時間が、彼の中にはあるのだ。
ぼくの知らない彼の時間。
「どうしたんだい?」
心配そうにぼくを見つめ返す。澄んだ瞳は何十年前と全く変わら
ず今も美しい。
「ああその写真…どこから落ちてきたのかな…」
懐かしそうに目を細める彼を見て、ぼくはまた胸を痛めた。
「怜一さん…」
ぼくのいないあなたの過去にぼくは嫉妬する。
こんな感情が、ぼくにはあったのだ。
「彼と仲が良かったんですか?」
「……この人かい?」
写真の中の男を指でつついた。そして撫でる。
「そうだね。彼とは色々あったけど、」
澄んだ瞳が閉じられた。
彼が何を思っているのかぼくには解らなかった。だがそこにぼく
はいないのだ。
「良いことも悪いことも全て彼と共にあったね…」
「怜一さん」
「誰かを思うということはそういうことなんだよ。一緒にいると見
たくないものまで見えてしまう」
一緒にいたのだ。
孤独ではなかったのだ。
ぼくは目を瞑った。
固く固く閉じた。
だけど。
彼の言葉を反芻した。
見たくないものまで見えてしまう。
見たくないから、ぼくは見ないようにしてきた。
「怜一さん…」
「きみがわたしといると、やはり見えてしまうだろう」
「ぼくは」
「それでもいいのかい?」
そうだ。
ぼくは逃げていた。母親や義父や弟から。
見たくない、見られたくないから。深く関わるのが恐かった。
恐かった。
「ぼくは」
恐怖よりも、傍にいることを望みたい。傍にいることの恐怖を選
びたい。
「怜一さんと一緒にいたい」
良いことも悪いことも含めて。
彼は微笑んでくれた。
「こんな老い先短いおじいと一緒にいたいだなんて」
「怜一さん」
「全く、わたしのようになってはいけないと言ったのに」
哀しそうな笑顔を見せて、彼は写真立てを本棚の奥に仕舞い込ん
だ。
世間から見れば常識とは程遠い関係だろう。
ぼくらは事情を知らぬ者からすれば「どちらかが騙している」と
いうことになるらしいから。
身寄りがなくて僅かばかりの財産があったり、若くて体力がある
と互いを「利用価値」のあるものとして考えるのだろう。
だが、そんな口さがない世間のことなど気にしたりしない。ぼく
らは互いに孤独な者同士、身を寄せ合って生きているだけなのだ。
そんな大仰なものではない。
ただ淡々と、傍にいられる幸せを感じていられたらそれで良い。
こんな気持ちもあるのだ。
安らかで、穏やかな。
これが彼とぼくの形なのだ。
不確かに見えるけれど確実に一番近い関係。
求めるのではなく与えるのでもない。ただ寄り添うだけの穏やか
な。
|