静かな関係
-3-




 彼との暮らしはとても穏やかに過ぎた。
 それでも偶に足下を掬われる時がある。恐い思いに、だ。
 彼が咳き込むと不安になったり、ぼく自身が風邪を引くと彼を残
して逝くことになるのではと心配になる。
 そんな偶に襲う気弱な思いを、彼はよく知っていて慰めてくれた。
 その度にぼくと彼は近付いた。
 一緒に暮らし始めたり、手を握ったりという風に。
 正直に白状すると少しだけ彼との間にセクシャルなものを感じて
いた。
 父のように慕っているのも事実だ。
 いやだからこそなのかもしれない。
 ぼくは父からの愛情を受けずに育った。
 だから大人の男との触れ合いに疎い。
 学生時代も友人との間に親密な付き合いはなかった。そもそも友
人と呼べる者さえなかったような気がする。
 だからか、少し彼を意識していた。
 彼も取り立てて触れてくるようなことはなかったけれど、一人怯
えて心の中で泣いている時、いつも見付けてくれては助け慰め、我
が子を愛おしむように頭を撫でてくれもした。
 その度に感じる。
 彼を愛しているのだということを。


 ある日、彼が手紙を握り締めて椅子に座っていた。
「怜一さんっ?」
 会社からの帰りで、玄関に灯りが点いていないことに焦っていた。
だから声に勢いがあったのだろう、彼が驚いて顔を上げた。
「あ、ああ、もうこんな時間か」
「どうしたんです」
「ああ…」
 握り締めた手紙。中に黒いものが見える。
 ハッとした。脈絡がないようで、繋がるものがあった。
「誰が、」
 と言いかけて不要な言葉かもしれないと留まった。彼は気付いた
ようだった。いつもの穏やかな笑顔が、少し哀しげに歪んだ。
 彼はぼくを書斎へ誘った。
 やはりそうだと気付いた。
 あの写真の若者が、いやおかしいな、今では老人となった彼が、
亡くなったのだ。

 親友だったのだと彼は言った。
 気持ちの過去は語らずに、ただ何があったのかを静かに語った。
「彼を愛していたんですね」
 ぼくもまた静かに返した。
「辛いでしょう…?」
 責めるつもりで言ったのではない。ただぼくに教えてほしかった。
「ぼくは慰めになりませんか」
 言葉にするととても陳腐で。だけど伝えたかった。何か言いたか
った。それは多分死んでしまったあの若者に、ぼくは永遠に勝てな
くなったからだ。こんな時に不謹慎かもしれないけれど悔しいと思
ってしまったのだ。
 彼は苦笑した。
 そして、泣いた。
「君に縋ってもいいかい?」
 彼は珍しく動揺していたのだろう。ぼくの返事を待たずに抱き締
めてきた。だが断るつもりなどなかった。
 ぼくは彼を愛している。
「君を大事に思っているよ」
「怜一さん」
「同じ過ちを繰り返すところだった」
 ああ。
 ぼくも伝えなければならない。
「あなたを失いたくありません」
 とても恐い。
 彼の好きだったあの若者が死んだ。どういう理由にしろ死んでし
まった。死は先に見えている。
「わたしも君を失いたくはない」
 彼の肩に額を乗せた。
「彼が亡くなったと知って気付いた。言っておくべきだったと後悔
 した。わたしはもう後悔したくない」
 縋りたいといったのは、哀しいからではなかったのだ。
 ぼくに縋りたいと言ったのだ。
 彼はぼくの顔を覗き込んで伝えてきた。
「君をとても大事に思っている。愛しているよ。傍にいてほしいと
 願っている」
 ぼくもだ。
「あなたの傍にいたい」

 どんな障害があろうとも、構わない。
 他に何もないぼくらだから。

 彼がぼくに触れる。それはずっと以前から行われていたことのよ
うに感じられた。
 初めて触れ合うのに、それはとても当たり前のようで穏やかだっ
た。
 静かに、ぼくらは感じあった。
 とても静かに。


 後悔しないために。
 ぼくは口にする。
 彼を愛していると何度も言葉にして告げた。
 傍にいられる幸せを常に感じていた。
 永遠などないから。
 何れ果てるものだから。
 今を大事に生きようとした。
 彼もまた一緒に生きることを大事にしてくれた。
 時に父親となり、友人となって諭し導いてもくれ、時に縋ってく
れた。
 ぼくを頼りとしてくれた。
 愛してもくれた。
 世間が言う愛の形とは少し違ったかもしれないけれど。
 穏やかで幸せだった。
 不安になる時は触れ合うことで落ち着いた。生きていることを一
番実感できるからかもしれない。
 ただそれはまるで母親が子を慈しむようなもので、淡く切ない恋
のようなものだった。
 触れ合う形は時と共に変わっていったけれど、ぼくも彼も満足し
ていた。
 それは彼が亡くなるまで続いた。
 彼の人生の中のたった十五年の付き合いだったけれど、ぼくは彼
の最後を看取れたのだ、彼の最後の意識の中にいた。それでいい。
 失って寂しいとは思わなかった。
 何故なら彼はここにいるから。
 ぼくの胸にずっと生き続けているから。

 孤独ではない。
 ぼくらは愛し合った。
 お互いに出会う瞬間がもう少しずれていたら、もっと長くいられ
たかもしれない。
 だけど、これでいいのだ。
 ぼくらには丁度良かったのだきっと。
 時間も空間も、心の機会も。
 ぼくらには合っていた。

 静かに始まった恋だった。
 短いようで長い、ぼくらの時間。
 いつまでも続く穏やかで静かな思い。
 ぼくは彼を思いながら彼と共にこれからも生きていく。
 静かに、そっと。
 彼を愛しながら。







                                 (終)







************あとがき*******************
『刻鵠記』のセイさま(イノクマセイシさま)より2万hitのお祝いに頂きました。
(旧『Counter Dream 夢裏屋』さまです)

しっとりと落ち着いたお話は切なくもあり、温かくもあり。
頂いた時、真夜中に一人うるうるとしながら読ませていただきました。

いつも素敵な作品を書かれるセイさま。
切ない物から壮大な歴史物、甘めでうふふなお話まで素晴らしい作品が目白押しの素晴らしいサイトさまでしたが、残念なことに閉鎖されました。(2004.9.30)

本当にありがとうございました。
言い尽くせない感謝の気持ちを込めて。
                                           〜・橘果・〜



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