<chapter 6> 秘密の図書館その2
快晴の空の下。
のどかに風が吹き抜ける屋上に水沢が転がっていた。
「勇吾ちゃ〜ん。またお昼寝でちゅか〜?」
声をかけてみたが、無反応。
死体のようにピクリとも動かない。
「けど、寝る時は普通、メガネ外さないか?」
本を枕にして、仰向けに寝転がっている水沢の顔には今日もしっかりとメガネが乗っていた。
しばしそれを眺めながら、脳内で反芻される言葉。
―――大人の、遊び
たとえば、あのホモエロ教師にそんなことを持ちかけられたら、水沢はなんと答えるのだろう。次の3つのうちから答えなさい。
1.聞き流す 2.聞き流す 3.聞き流す
他の選択肢は思い浮かばなかった。
「……そうだよな」
そんなことを考えていたら、レンズの向こうの瞼が開いた。
「おはよ、水沢」
とりあえず挨拶。
「……何時だ?」
寝起きのせいか、比較的普通の反応だ。
「2時半」
ややダルそうに起き上がった水沢の肌蹴たシャツの胸元が、なぜか非常に気になる。
いや。とても普通の男のカラダなんだけど。
確かにそうなんだけど。
……なんで目が行くんだろうな
キスの話なんてしてたからだ。
そう結論付けてから、親友としての質問を思い浮かべた。
『水沢ってキスしたことあるのか?』
ただ、そう聞くだけだ。けど。
……寝起きの水沢に向かって突然その質問は不自然じゃないか?
仕方ないので、やや遠回しに攻めてみることにした。
「水沢、寝る時くらいメガネ外せよ。メガネフレーム日焼けになるだろ?」
まずは普通に雑談をして。
それから、なんとなく話をそっちに……と思って次の言葉を準備したが。
「外すわけにはいかない。あとあと面倒だからな」
またしてもよく分からない返事が。
いったいどうしたら面倒な状況になるんだろう。
どうも思った通りの展開にならない。
さすがは水沢、油断大敵。……と思っていたら、説明があった。
「外すと置いた場所が分からなくなる」
なんですと?
「おまえ、そんな至近距離が見えないわけ?」
子供の頃から1.5をキープしている俺には目が悪い奴の気持は分からない。
だが、確かに水沢のメガネは分厚い。どう見ても高そうなプラスチックレンズなのにこの厚さはなんだろうと思うほどで、相当悪いんだろうということは容易に想像がつく。
「ふうん、そうか。メガネっていろいろ不便だよな。運動するにも邪魔だし」
思いがけずいい流れになった。
これなら目的の質問に辿り着けそうだと一人で微笑む。
「そうだな」
順調、順調。
じゃあ、行きますか。
「キスする時って邪魔じゃないのか?」
これでどうだ、と思ったが。水沢からは曖昧な返事。
「さあな」
わざと外したのか、それともいつもと同じで聞き流しただけなのか。
どちらにしてももっとストレートに聞かないと駄目らしい。
「実際どうよ、勇吾ちゃん?」
これなら逃げられまい。
行き止まりの道に追い込んだような気になっていたんだが。
「俺に聞くな」
流されはしなかったものの、答えてももらえなかった。
「言いたくない理由があるわけ? ああ、ファーストキスの時、メガネのせいでうまくいかなかったとか?」
そうだ、そうに違いない。
我ながら良い勘だ。
しかし、これではエロ教師から鍵はもらえないのか……。
ホモ気障男のニヤニヤ笑いが目に浮かんでやや悔しい気分になった時、水沢から否定の返事があった。
「そういう過去はない」
「じゃあ、なんで教えてくれないんだ?」
他に不都合な理由など思い浮かばず、期待しながら返事を待ったが、水沢は俺の質問を聞き流して本を広げた。
どうやらこの会話が面倒になったらしい。
仕方がないのでその端正な横顔を眺めつつ、次の作戦を練った。
「ならさ、水沢」
そうだ。この手があった。
いや、普通、男には使わない手段だが。
「なんだ?」
「試してもいい?」
「何を?」
「邪魔になるかどうか」
頭は良いがこういう勘はあまり発達してないらしく、水沢はただ訝しげな表情を見せた。
だから、次の質問が飛んでくる前に手早く確認させてもらった。
その反応で経験有りか無しかが分かると思ったからだ。
だが。
肩を掴んで、頬に手を当てて、さらに唇を合わせても、水沢はまったく無反応だった。
固まっていたわけではない。
本当の本当に、なんのリアクションもなかったのだ。
「……勇吾ちゃん、それってどういう態度なわけ?」
俺史上初、完璧なノーリアクション。
「それは俺のセリフだと思うが」
乾いた空気が離れたばかりの唇と唇の間を吹き抜けていった。
俺が気を取り直すのに要した時間、およそ1分。
「いや、どういうって。まあ、なんていうのか……。水沢らしくて非常に新鮮」
目の前でペロリと舌なめずりをされても、水沢は眉一つ動かさなかった。
本当に。表情の変化、皆無。
「で、勇吾ちゃん。分かったんだけど」
「なんだ」
しかも、普通に会話を続けてくれるらしい。
「メガネはあってもできなくはないけど、邪魔って言えば邪魔だな」
っつーか。
「かもな」
水沢はキスもこの会話も全部がどうでもいいんだな。
それだけは間違いない。
ズレてるのは分かっていたが、ここまでとは思わなかった。
ならば、このまま本来の目的を果たしておくか。
「んで。もう一個質問なんだけど」
「なんだ」
もはや遠慮してもしかたないので真正面から攻めてみることにした。
「水沢、過去にキスしたことある?」
これではぐらかされたら次の手は思い浮かばなかったが、水沢はあっさり返事をしてきた。
「いや」
たった一言。相変わらず感動的に短い。
いやそんなことよりも。
「もしかして……初めてか?」
ちょっと待てよ。
「それが何だ」
何だと問われても困る。
「えーと、いや、なんて言うか」
なんて言えばいいんだ?
『ごめんね、奪っちゃって』とか?
『俺とで良かった?』とか?
違うだろ、それ。
えーと、えーと、えーと。
「……どうよ。ファーストキスの味」
これも違うような気はしたが。
「別に」
普通に返事をする水沢も相当ズレてる。
さすが405度。
「っつーか。マジでファーストキス?」
「だったら何だ」
それは紛れもなく肯定なわけで。
「……そうか。なんか、アレだな」
俺の心臓が妙にバクバク動いていた。
何が『アレ』なのかについて水沢はあえて確認しなかったが。
「志野」
「なんだ?」
「タバコ持ってないか?」
空になった箱をクチャッと手の中で潰して、俺の顔を見返した。
「……だから、普段は、吸わないって」
ほんのわずかだが後ろめたさを感じて口ごもる俺に、
「そうだったな」
水沢は極めて普段通りの口調でそれだけ言うと屋上から姿を消した。
「これってどういう状況なんだろうな」
実はキスされたのが気に入らなかったってことか?
「じゃなかったら、何も言わずにいきなりいなくなったりしないよな」
……いや。そうでもないか。水沢ならそれも有りだ。
「う〜ん、実際のところはどうなんだ?」
エロ教師への妙な対抗意識のために、俺はもしかして親友をなくしてしまったのではないかとまで思ったが。
五分後、水沢はまた屋上に現れた。
……タバコをくわえて。
「どこで買ってきたんだよ?」
往復五分の距離じゃ、まだ学校の敷地内だ。
「副理事長にもらってきた」
……教師がそーゆーものを生徒に渡していいのか?
「ほら」
水沢はそう言って、なぜか俺にもタバコを勧めた。
「サンキュ」
どうやら俺たちの関係は唇を合わせる前と何も変わっていないらしい。
その事実に安堵しながらタバコを受け取り、水沢に火をつけてもらって、またしても眩暈がするほど特大のトキメキに襲われた。
自分でも不可思議なこの気持ちの正体が何なのかはわからなかったが。
「な、今度はメガネ外してやってみないか?」
真面目に誘った俺に、水沢は真面目な顔で聞き返した。
「志野、頭は大丈夫か?」
バカにはしていなかったが、あからさまに呆れている。
だが、分厚いメガネの奥の目はとても綺麗だった。
「俺? 別にこれが普通だけど。それがどうした?」
開き直って返したその問いに、水沢からの答えは無かった。
爽やかに風が吹いて、煙が流れていく。
午後の屋上にチャイムが鳴り響いた。
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