<chapter 2> 眼鏡の行方
ポケットに突っ込んでいた携帯が震えた。
ウィンドウを見たが名前は出ていない。
友人の誰かがどこかの女子にうっかり俺の番号を教えたんだろうと思ったが、並んだ数字は固定電話のものだった。
なんだろうと思いつつ通話ボタンを押して、いっそう首をかしげてしまった。
「え? 水沢? どうしたんだ?」
校内のどこかにある電話からかけているらしい。
こちらとはわずかにずれたチャイムの音がBGMになっている。
そもそも携帯番号など尋ねられたことさえないが、一方的に何度も教えたので、水沢の優秀な脳が記憶してしまったのだろう。
「何かあったのか?」
おそらく「ちょっと志野を呼んでくれ」と、先生か誰かに頼まれたんだろうと予想し、面倒くさいなとつぶやきかけたのだが。
『手が空いていたら来てくれないか』
水沢本人の頼みのようだったので、すぐさま言われた場所に向かった。
「ええと、第二校舎二階の一番奥、と」
辿り着いた部屋の前に出されたプレートを見ながら、寒気を覚える。
現在は職員会議の真っ只中だということを知らなければ踏み込むのに若干の勇気が必要だったかもしれない。
エアコンが効きすぎた副理事長室。
いったい何故こんなところに水沢が。
しかも。
「志野、眼鏡を探してくれないか」
何故か、すっぴん……いや、裸眼だった。
「どうしたんだ?」
「副理事長がどこかに隠した」
「あのオヤジ、相変わらずそんなことをしてるのか」
適当な口実を用意して自室に呼びつけ、無理矢理迫って眼鏡を外し、うろたえる水沢に―――
俺の脳内に一瞬にしてあるまじき薔薇色妄想が広がったが、実際は屋上で爆睡していたら、こっそり持っていかれただけらしい。
おふざけが過ぎる教師らしい嫌がらせだ。
水沢の手に握られた手帳の切れ端には、ムカつくほど流麗な文字で『眼鏡はいただいた。返してほしければ副理事長室に来なさい』と書かれていた。
……ちょっと待て。
それはまさしく、「用意された適当な口実」なのでは―――
「とにかく探してくれ」
ぼんやりしていた俺を咎めるような声が響いて、我に返った。
「ああ……眼鏡な。つか、ここまでどうやって来たんだ?」
「水沢先生が屋上の見回りに来たので連れてきてもらった」
「ああ、そう」
言うまでもなく、水沢先生は水沢家の長男だ。
たとえ学校の中でも現在ここには俺と水沢勇吾の二人だけ。
兄ちゃんとか兄貴とか、もっと家族らしい呼び方をすべきではないだろうか。
まあ、それはともかく。
たとえ閉め切られた部屋の中でも自分の足元さえ見えない水沢を歩かせるわけにはいかない。
俺が探すことになるのだろうが、でもその前に。
「勇吾ちゃんが俺にキスしてくれるか、『愛してる』と言ってくれるなら探してやらないこともない」
たまにはいいだろうと思い、脅迫めいた言葉を吐いてみた。
だが。
「気でも狂ったか」
俺のライバル兼親友兼想い人、水沢勇吾16歳。
必要とあらば大人びた敬語もカンペキに使いこなすが、口は悪い。
俺に向けて飛ばされる言葉のほとんどが身も蓋もない。
だが、そんなことにはもう慣れた。
「んじゃ、自分で頑張れ」
心にもない冷たい言葉をかけて返事を待つと、
「頼むから探してくれ」
水沢にしては丁寧な依頼があった。
どうやら眼鏡がない時は弱気になるらしい。
思わずほくそえむ。
「それじゃあ、『愛してる』が無理なら、他の言葉でもいいんだけど」
「たとえば?」
「『好きだ』とか」
「何をだ?」
「……俺」
不毛だ。ああ、まったく不毛。
思わず溜め息をついたのだが。
それに対して水沢から思いがけない返事があった。
「嫌っているように見えるか?」
それも本当に解せないという顔で。
「……いや、そういうわけじゃないんだけどな」
空気を入れ替えるために開けた窓から爽やかな風が流れ込む。
水沢からそれ以上の言葉はなかったが、俺は上機嫌で探しものを手伝ってやった。
20分ほど後、眼鏡は椅子の背に掛けてあった上着の胸ポケットから見つかった。
あのエロオヤジのことだ。
この眼鏡でよからぬことをしたのではないかと匂いまで嗅いだが、別に怪しげな感じはしない。
むしろピカピカに磨かれており、そこはかとなく副理事長の使っているフレグランスの移り香が。
……それはそれで嫌なんだが。
「あのオヤジ、なんでおまえにばっかりそういうことするかな」
可愛く思っているのは間違いない。
エロジジイは美少年好みだという噂だし、水沢の容姿はかなり良い部類に入るのも事実だ。
「今日はたまたまだ。次兄に届けて欲しいものがあるから屋上で待っているように言われたが、うっかり寝てしまったんだ」
仮にもこの学校で2番目に偉い副理事長からの頼みごとをすっかり忘れて眠ってしまったのが気に入らなかったとか、そういうことではないだろう。
というか。
「水沢、何もされてないだろうな?」
「口を開けて寝ていたらしく、飴を入れられた」
「飴って? キャンディー?」
「それはどちらも同じものだろう」
「そうだけど……で、それ、どうしたよ?」
「腹の中だ」
普通に食ったってことか。
無用心にもほどがある。
「変なもん入ってなかっただろうな?」
「今のところ具合が悪いというようなことはない」
「どんなヤツだった?」
水沢が無言で指し示したテーブルには赤いキャンディーの入ったガラス瓶。
個包装には「佐藤錦」の文字。
「……いちいち含みを感じるな」
握られたメモの後ろ側に、やはり美麗な文字で「キャンディーは部屋にも置いてあるのでご自由に」と書いてあった。
「そういえば先週末、用があって山形に行くとか言ってたな」
いや、産地などどうでもいい。
ツッコミどころはそこじゃないのだ。
「水沢って童貞?」
「だったらなんだ?」
「……いや。深い意味は……」
あのエロ教師がさくらんぼ味のキャンディーを手に、水沢の寝顔を見てあれこれ妄想していたんじゃないかと思うと、ふつふつと何かが湧いてくる。
「志野」
「何?」
無言で渡されたのは瓶の中から取り出されたチェリー飴。
「勝手に食っていいのか?」
「そう書いてある」
「……ああ、そうだったな」
アイツのことだから、おそらく男子にしか食わせないつもりだろう。
エロジジイの策略にまんまと引っかかってる気がしなくもないが、山形産佐藤錦キャンディーに罪はない。むしろ大変良いものだ。
眼鏡を取り戻した水沢と二人、飴を頬張って部屋を出た。
もちろん「なかなか美味かった」などという感想をエロオヤジに伝える気はない。
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