<chapter 3> 弟は可愛い方がいい
水沢と一緒に自転車置き場に向かおうとしていたところを呼び止められた。
「勇吾、ちょっといいか」
声の主は他でもない、その水沢勇吾に「鈍い」と評された長兄である。
「なんでしょうか、水沢先生」
学校では「先生と呼ぶように」と言い渡しているんだろうが、ここまで他人行儀なのはどうなんだろう。
第一、友人その他に自分との関係をひた隠しにしている弟というのは少々寂しいものではないだろうか。
普通なら含みを感じるところだが、そこは何せ実弟に「鈍い」と言われる兄だ。深読みをしようなどとは思わないらしい。
本日もさわやかに白い歯を光らせて笑う。
「今日も明日も帰りが遅くなる。週末も俺は泊り込み合宿でいないからな。今日と日曜はオヤジが帰ってくるからいいとして、金曜土曜はおまえたちだけだ。家のことを頼むぞ」
熱い眼差しで水沢に家内安全を託した。
だが。
任せる相手として水沢は不適ではないだろうか。
一度本を読み始めてしまったら、思い切り不審な物音がしてもその耳は素通りするに違いない。泥棒が入ったくらいでは気づかないだろう。
眠った後も然り。
健やかにお眠り遊ばされている間は唇を舐められてもまったく気付かないのだ。
番犬の役目など果たせるはずもない。
「安澄には後で電話する。真琴には夕べ言ったが生返事だった。雅臣にもメールしたが、どうせ帰らないから意味ないだろう」
あれこれと一人気を揉む長兄の言葉を涼しい顔で右から左へ流しながら、水沢は口先だけの返事をした。
「部活の顧問というのも大変ですね。あまりご無理はなさらずに。では、失礼します」
確かに「学校では先生と生徒」だ。
そう弟に言ってきかせたのだっておそらくは先生自身だろう。
だが。
「……ほどほどという言葉を知らんヤツだな」
我が弟ながら取り付く島がないという愚痴と深いため息が通り過ぎていく。
一昨年、この学校を卒業した水沢家の次男は、部活のマネージャーの話によると、とても調子のいい性格で、兄である教師に向かって「水沢センセ、次の試験どこ出るか教えてよ? 俺、これ落とすとマジでヤバイんだよね」と遠慮なく言うような生徒だったらしい。
だが、その軽さも含めて女子にはもてまくりだったという噂だ。
まさに水沢とは対極。
兄弟全部が似ていないというのも本当のことなのだろう。
「一番下の弟もいずれここに入学してくるだろうけどな」
俺の顔だけを見て話をする水沢家長男。
どんなに能天気でも、自分の弟が世間話をしない性格だということくらいは承知しているらしい。
「それは楽しみですね」
俺のお愛想に先生はまたしてもため息をつく。
その理由が。
「アイツはどんなに言い含めても『水沢先生』とは呼ばんな」
「日頃はなんて呼んでいるんですか?」
「……『憲政(けんせい)』。呼び捨てだ」
しかも、大変子供らしい性格だという。
いや、水沢が俺にしてくれた兄弟説明も末弟についてはそんなニュアンスだったのだが。
水沢教諭が三度ため息をつくのを、俺は頷きながら眺めていた。
悪ふざけ全開の次男、度を越して他人行儀な三男、どんなに口を酸っぱくして言っても「先生」とは呼ばないであろう四男。
どれが一番マシなのかと考えてみたが、答えは出なかった。
その回答を得たのは帰り際。
体育館の前で先生が自宅に電話しているのを聞いた時だった。
『えー? じゃあ、俺、何食えばいいんだよ? 話し相手もいないしさ。憲政がいないと困るよー』
大音量でふてくされる様子が携帯から漏れまくりで、先生の頬も少し緩む。
内心を代弁するなら、『弟は多少バカでも可愛い方がいい』といったところだろう。
満足そうに頷く先生の様子に、力強くそれを確信し、ついでに俺も激しく同意した。
ライバルとしてはこの上ない存在の水沢勇吾だが、自分の弟にしたいと思うことはまずないだろう。
そして、もう少し角度を変えて見れば、うまくことが運んだ暁には水沢の弟は俺の弟。
電話から漏れた素直そうな声もなかなか可愛げがあり、これなら普通にやっていかれそうだ、と一人頷いたのだった。
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