Halloweenの悪魔
黒いつばさ-3




「ロイ、帰ろう。うちの人がきっと心配してるよ」
声をかけても振り向かない。
僕の声なんて少しも聞こえてないみたいだった。
「……ロイ……?」
そっと掴んだ手に温度はなくて、顔を覗き込んでみたけど、ぼんやりと見開いた目も焦点が合ってなかった。
それでも無理矢理手を引いてここから逃げようとした。
でも。
その瞬間に闇から伸びてきたのは骨と皮しかないような真っ黒い手。
動いてはいても生きているものだという気がしなかった。
「……あ……っ!!」
ゆっくりと、でも、まっすぐに僕の首を目指してくる。
それを確認した瞬間、長い爪に咽喉を裂かれ、血に染まる自分の未来が見えた。
フラッシュに当てられたようにチカチカと頭の中に点滅する光。
現実なのか、幻覚なのかわからないまま。
映し出されたのは、真っ赤に染まった自分のコートと引き裂かれたロイの身体。

「……い……や……」
体中から血の気が引いて、目の前が真っ暗になった。
叫ぼうにも声は出ず、何かで固められてしまったかのように身体も指の一本さえ動かない。

―――……たす……けて……

泣くことも叫ぶこともできないまま、ただ頭の中にこだまする自分の声。
助けなんてこない。
誰も知らない場所で、ズタズタに裂かれて。
明日の朝、通りかかった誰かが僕らを見て悲鳴を上げる。
父さんが知ったら、どんなに悲しむだろう。
そう思った時、黒い手の黒い爪が咽喉に当たって。
もう、ダメだ……って思った

でも。
その瞬間に、硬直していた僕の体は何かにグイッと押されて後ろに倒れた。
目の前でバチバチッと黒い火花が散る。
その時にはもう悪魔の手は僕から弾き飛ばされていた。
「レンに触るなっ!!」
僕を起こすために指先をギュッと握ったのはアルの手。
でも、温かいはずのそれは、血の気が引いたはずの僕の手よりずっと冷たくて、やっぱり少し震えていた。
「へえ、魔族か。だが、赤ん坊も同然だな」
頭の中に声が響いて、また血の気が引いていく。
座り込みそうになった時、アルがまたギュッと僕の手を握った。
「レン、怖かったら目つむってて」
大丈夫だから、と言いながら。
真っ直ぐ前を見つめていたアルの目が深い闇色に変わって、真っ黒な翼がバサリと音を立てて宙に広がる。
真っ黒で艶やかに光るそれは、一緒に遊んでいるとき楽しげにパタパタする軽やかな羽と同じものとは思えなかった。
「それが本当の姿か。ヒヨッ子もいいところだな。魔力はちゃんと使えるのか? 人間に化けるのだってやっとだろう?」
黒い影しか見えないのにニヤニヤとした笑いが不気味なほど鮮明に脳裏に浮かぶ。
落雷のようにバリバリという音を立てて空が裂け、そこから姿を現した悪魔はバカにしたようにアルを見ながら、片側の唇を吊り上げてニヤリと笑った。


悪魔と対峙したアルは僕たちには分からない言葉で何かを告げた。
それに対して悪魔から返ってくるのは奇妙な音。
頭の中から響いてくるような変な感じが恐怖心を煽った。
「見たところ多少の呪文は使えるようだな。だが、その程度では話にならん」
音のない薄ら笑いが空気を揺らす。
背筋に寒気が走って、唇が震えた。
でも、アルはしっかりと僕の前に立って、真っ直ぐ前を見たまま言った。
「レン、後ろに下がってろ」
「アル……でも」
さっきまで震えていたアル。
今だって怖いはずなのに。
「大丈夫だから、あの木の後ろに行ってろ。こんな雑魚、何匹いようとすぐに片付けてやる」
ホントに大丈夫だから、ともう一度言われたけど。
のどが渇いて声が出なくて。
やっとのことでコクンと頷き、心を抜かれたままのロイを引き摺るようにして空き地の隅にある背の低い木の陰に隠れた。

その間も悪魔の後ろでドロドロとうごめく黒い靄は大きくなる。
あれが全部相手の力なのだと思ったら体が震えた。

アルを助けないと……―――

確かにそう思っているはずなのに。
怖くて怖くてどうしようもなくて。
震えながら見ていることしかできなかった。


背中に冷たい汗が流れる。
目の前に広がる真っ暗な空間に悪魔の笑い声が響いて。
それから、突然黒い突風が起こった。
ぐるぐると渦巻く闇。その中に見える真っ黒で鋭い棘。
ザッと音を立ててアルを取り巻いたそのほとんどを、アルの翼はなんとか跳ね返したけれど。
避け損ねたいくつかが肌をかすめて血の筋になり、その痛みが隙になったのか、ふわりと浮いた小さな身体はそのまま風に飲まれて思い切り壁にたたきつけられ、ズルリと地面に落ちた。
「魔除けもお粗末だな。その程度じゃ何の効果もないぞ」
時々ピクッと動く黒い羽根にはいくつも裂傷ができて、あちこちに血が滲んでいた。
「アルっ!!」
やっとのことで叫んだけれど、足に力が入らなくて立つこともできない。
でも、アルはちゃんと僕の声に応えて、ゆるゆると体を起こした。
「……大丈夫だから、こっち来んな」
それだって精一杯の強がりだったと思うけれど、アルは傷だらけの頬を歪ませてニヤッと笑って見せた。
「なんだ、ヒヨッ子。まだやる気か? 家から持ち出した術でもあるなら見せてみろよ」
どうせたいしたものじゃないんだろうがな、と。
せせら笑う悪魔をアルは強い口調で遮った。

それは、やっぱり僕には分からない言葉で。不思議な音にしか聞こえなかった。
でも、何かの呪文だったのだろう。
悪魔が三人とも同時に、さっきアルがやったのと似たような呪文除けの動作をした。
けれど、言葉はまだ続いていて、吸い込まれそうなほど深い闇がアルの周りを取り巻き始めた。
「おまえ……―――」
明らかに表情を変えた悪魔と。
だんだん鋭くなるアルの瞳。
息苦しいほど空気が張り詰めて。
呼吸が止まりそうになったとき、呪文の最後の一文が僕の耳に飛び込んできた。
『アルデュラ・ル・キュラス=ヴィセ・ラ・ジアード』

これって……アルの……―――

最初に自己紹介をしてもらった時に覚え切れなかったアルの名前。
確かにそうだと思った瞬間、アルの目の前に姿を現した悪魔の表情が凍りついた。
「……ラ・ジアード……だと?」
悪魔が黒い靄と共にあとずさりをして。
それと同時に目の前がゆらりと揺らいだ。

真っ直ぐに悪魔を指すアルの手。
その長い爪の先に闇色の炎が見えた。
そして。
次の瞬間、アルと悪魔の周辺だけその炎に包まれた。

『ギャアアアアアアアッッ――――――』
それは、あっという間だった。
悪魔は僕らの見ている前で三人いっぺんに足先から黒く変色して、断末魔と共に炎に吹き上げられる紙のように宙に散ると、跡形もなく消えていった。
同時に、周囲を取り囲んでいた薄気味悪い靄もサッと気配をなくした。


その後は何事もなかったかのように、見慣れた街の星空が広がっていた。
「出てきていいぞ」
振り返ったアルは、羽根も頬もさっきよりもたくさんの傷でボロボロになっていて。
「アル……血が……」
それを見たら一気に血が引いて、唇さえ動かせなくなった。
「ちょっと失敗した。けど、大丈夫だ」
軽い口調だったけれど、羽根からは後から後からポタポタと赤いしずくが流れ落ちていた。
僕らのすぐ前まで歩いてきたアルに手を差しのべることもできなくて。
代わりにダーッと涙があふれた。
「な……泣くなよ? ホントに大丈夫だから」
困った顔をしながら自分の服でゴシゴシと手を拭いて、そっと僕の涙をぬぐった。
さっきまで冷たかった小さな手は、やわらかい温度を取り戻していた。
それから、呆然と目を見開いたままのロイの頭をガシッと掴むと口の中で何か呪文のようなものを唱えはじめた。
「アル……?」
びっくりしている僕の目の前で、ロイの身体はガクンと崩れた。
「ロイに……何を、したの……?」
地面に横たわった体はピクリとも動かなかった。
死んでるんじゃないかと思ったけれど、恐る恐る差し出した手に静かな呼吸が当たってホッとした。
「記憶を封印した。あとでうちから誰かを呼んで今夜のことだけ消してもらわないと」
「全部忘れるの? 悪魔との契約も、アルのことも?」
「うん。でも、悪い夢を見たような感覚だけは残るかもしれない」
尋ねられても説明できない記憶だけをそっくり消すのが正しいとは思わなかった。
でも。
「……そっか」
きっとロイにはその方がいい。
そう思ったから、余計なことは言わずに頷いた。
中味をまったく覚えていなかったとしても、心のどこかに何かが残るなら。
もう二度と悪い悪魔と契約を結ぼうなんて思わないだろう。
「それより、アル……早く手当てしないと―――」
そう言って手を伸ばしたけれど、アルはまだ険しい表情のまま。
眉を寄せてロイと僕を見て、少し考えてから一人で頷いた。
「記憶を消せるやつが来るまでコイツはここに置いて……レンは先に家に帰ったほうが―――」
そう言いかけた時だった。
不意に何かが近づいてくる気配がして、アルの耳がピクッと動いた。
「アル……?」
人間の足音じゃなかった。
だとすると、別の悪魔が仕返しに来たのかもしれない。
唐突にまた大きな不安が過ぎった。
でも。
「……大丈夫。うちの召使いだ。呼んでないけど、嗅ぎつけてきたんだな」
空を見上げてふうっと大きく息を吐いて。
険しかった横顔がホッとした表情に変わった。
「手当てもしてくれる?」
「うん。この程度ならすぐに治る。レンは今から家に飛ばすからな。後で連絡するから、それまで今日のことは忘れてろ」
そう言うと僕の手をギュッと掴んで。
それから、まっすぐこっちを見てにっこり笑った。
「じゃ、いくぞ」
言葉が聞こえるのと同時に、ぐにゃりと視界が歪んで。
気がついた時にはもう僕は自分の家の玄関の前にいた。
「アル……? どこ?」
しばらく呆然としてしまったけれど。
はっと我に返って辺りを見回した時、もうどこにもアルの姿はなかった。
今日はあそこでお別れという意味だったんだろう。
「ケガ……本当に大丈夫なのかな」
あんなに傷だらけだったのに。
血だってたくさん出てたのに。
父さんに相談してみようって思ったけれど、まだ仕事から戻ってなくて。
「僕、どうすればいいんだろう……」
どんなに心配でも何も出来ないまま。
ただ、「すぐに治る」って言葉を信じるしかなかった。

フラフラになりながら二階にある自分の部屋に上がって、バサッとベッドに倒れこんだ。
自分の部屋の匂いに安堵して。
それから、やっと今夜起こったことをもう一度考えることができた。
アルが解き放った呪文は相手だけじゃなくてアル自身も傷つけた。
呪文がうまくいかなかったせいなのか、それとも本当は使ってはいけないものだったのか。
どっちにしても、アルは今の自分の力で勝てるとは思ってなかったんだろう。
あの時も何度も「大丈夫」って言ってた。
僕に言い含めるように。
それから、自分自身に言い聞かせるように。

「……アル、ごめん。怖かったよね……」

それでも。
「下がってろ」と言って僕の前に立った。
アルの背中を思い出したら、涙がこぼれた。

黒い羽根の生えた、でも、僕よりもずっと小さな背中―――



僕は今日やっと。
「強くなりたい」って言ったアルの気持ちが分かった気がした。



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