-2-
「ちゃんと仲直りできなかったな……」
楽しく遊ぶはずだったのに、なんだか落ち込んでしまった。
こんなことならあのまま図書室で本を読んでいればよかったって後悔したけど、もう遅い。
口ゲンカだってめったにしないから、こういうときは本当にどうしていいのかわからない。
「……何がいけなかったのかな」
トボトボと庭の隅を歩いていたら、急に後ろから呼び止められた。
「ちょっと、そこの者。シィ様とエレフ様を見かけませんでしたか?」
細くて黒いドレスを着た学校の先生みたいな雰囲気の女の人だった。
「えっと……二人ともさっきまで一緒だったんですけど、ちょっとケンカみたいになってしまって……」
後ろめたい気持ちを隠せなくて、声がだんだん小さくなる。
それを見透かしたわけではないだろうけど、女の人は片方の眉毛をつり上げた。
「いやだ。よく見れば人間じゃないの。立場をわきまえずに気安く話しかけたのでは?
だいたい『一緒だった』ではなく『ご一緒させていただいた』と言うべきでしょう?
エレフ様もシィ様も陛下のお身内で由緒あるお家柄なのですから、貴方のような者が気安く口を利いて良い相手ではないのですよ」
エレフとシィに付き添ってきた世話係か家庭教師なんだろう。
僕が二人に話しかけたことがとても気に入らないみたいだった。
「それで、貴方はこんなところで何を? お城へはどんな用事で? 誰から許可を?」
顔をしかめたまま厳しい口調で問い詰める。
「あの……僕はレンって言います。アルのところへ遊びに来ていて……」
その時、その女の人は「ああ」ってつぶやいたけど、表情はいっそう険しくなった。
「そういえばアルデュラ様のお名前をきちんと呼ばないともっぱらの噂だけど」
略称ばかりというのはどういうつもりなのかと、尋ねた声はほとんど怒ってるみたいな感じだった。
「本当はちゃんと呼びたいんですけど、でも……」
「呆れたこと。今度は言い訳ですか」
学校の友達だっていつもニックネームでしか呼ばないけど、こちらでは名前がとても大事だから、きっとそれではダメなんだろう。
「いいわけっていうか……僕が『アルデュラ』って言うといつもアルに『ちょっと違う』って言われてしまって」
そういえば、あれから一度もちゃんと呼んだことがない。
アルが何も言わないからそれでいいと思い込んでいた。
「確かに違いますね。なぜそのような適当な呼び方を?」
「……適当に呼んでるつもりは……でも」
僕に言わなかっただけで、本当はみんなそう思っていたんだろうか。
アルだけじゃなくて、王様やばあやさんも。
ニーマさんやルナやフレアや執事さんも。
どんよりしたものが体の中にたまっていって、顔を上げていることができなくなった。
「『でも』の続きは? きちんと説明することもできないんですか? これだから人の子は―――」
お小言に対しても何の返事もできず、ただじっと地面を見つめていた。
今までずっと誰からも注意されなかった。
でも、彼女の言うとおりだとするなら、本当に失礼なことだ。
なによりもお父さんとお母さんが一生懸命考えてつけてくれた名前を適当に呼ばれてしまうのはとても悲しいことじゃないだろうか。
「とにかく。エレフ様とシィ様をご不快にさせたのなら、それなりに責任は取っていただかないと」
『まったく無作法で』とか『陛下はどういうつもりなんでしょう』とか、そんなことまで並べながらお小言は延々と続いている。
―――王様はちっとも悪くないのに……
シィが言っていた「みんな」の中には彼女も入っているんだろう。
僕が気に入らないなら僕だけを怒ればいいのに、どうして王様まで悪く言うんだろう。
そんなことを考えていたら突然ポワッという音がして、一口サイズの青リンゴのような果物が目の前に現れた。
「どうぞお受け取りください。庭師が是非レン様に、と」
聞き慣れた声がして、顔を上げると銀色の髪がふわりと舞った。
「……フェイさん」
なんだかすごくホッとして、同時に泣きたくなった。
飛びついてしまいそうになったけど、女の人がまた眉を寄せたので思い留まった。
「何かと思えばフェイシェン殿でしたか。イリス様付きの魔術師がこのようなところを徘徊しているなんて職務怠慢ではなくて?」
気のせいかもしれないけど、口調は僕のときよりさらにキツイ感じだ。
もしかしたらフェイさんのこともあまり良く思っていないのかもしれない。
「定時の見回りです。加護の呪文が城の隅々まできちんと行き届いているかを確認しなければなりませんので」
そして、どうやらフェイさんも彼女のことはあまり好きじゃないみたいで、顔は微笑んでいるのに声がものすごくトゲトゲしていた。
「私の仕事についてはともかく、仮にも陛下のご親族に付いて城に出入りするほどの従者なら、アルデュラ様のお名前には人間の耳に聞こえない音が混じっていることくらいご承知のはず。なのに、何故あのような―――」
フェイさんの話を遮ってつぶやいたのは僕だった。
「……やっぱりそうなんだ……」
僕のことが嫌いだからちょっと意地悪なことを言っているだけならいいって心のどこかで願っていた。
でも、さっきの話は全部本当で、今まで誰もそれを僕に教えなかっただけ。
ここでは名前はとても大事なもの。
なのに、僕だけが知らなかった。
「まったくここは無礼な者ばかり。とにかく、わたくしはシィ様を探しに行かねばなりませんので。では、ごきげんよう」
彼女がそそくさと消えた後も、僕はしばらく立ち尽くしてしまった。
地面を見つめたまま動けなくなってしまった僕に、フェイさんはまるでエスコートでもするような優雅なしぐさで右手を差し出した。
真っ白な手袋からふわりといい匂いが立ち上る。
「図書室までお送りいたします。妙な来訪者のせいでまた気分を害されてもいけませんので」
そっと握った手はひんやりとしていて、なんだか少し硬かった。
そういえば初めて握手したときも同じことを思ったっけ。
「では、お茶の時間までこちらでお待ちください」
図書室の扉が静かに開く。
準備ができたらルナかフレアが呼びにくるからと言い残して、フェイさんはいつものように足先からスッと消えていった。
中にはミミズク司書さん以外誰もいなかった。
「アルはまだ戻ってないんですか?」
宿題のノートもここを出たときのままテーブルに乗っている。
一度でもアルが戻っていたら、どこかにらくがきくらいは残っているはずだった。
「アルデュラ様でしたら、あれから一度もお見えになっておりません。今は伯父上であるコーヴィリアン卿のゲームのお相手をなさっているとか」
キース・コーヴィリアンというのがアルの伯父さんの名前。
ゲームはチェスのようなもので少し時間がかかるという説明があった。
「じゃあ、お茶の前に少し廊下を散歩してきます」
なんだか誰にも会いたくない気分だったから、そんな言い訳をして図書室を出た。
「……こういうときに迷子になれたらいいのに」
そしたら、知っている人が一人もいない場所へ行けるはず。
なのに、今日に限ってどこを歩いても思ったところに辿り着いてしまう。
「誰にも見つからないようにお城のはじっこに行こう」
玄関から遠ければ、少なくともお客さんには会わないだろう。
黙々と歩いて、ときどき足を止める。
それから、深呼吸して窓の外を見る。
晴れた空の下、庭師さんとサンディールが育てた色とりどりの花が揺れている。
最初に名前を聞いたとき、アルは『ちょっと違う』と言うばかりで、何がどう違うのかは教えてくれなかった。
「……でも、がっかりした顔だったな」
ちゃんと呼びたいのに。
どうすれば聞こえない音まできちんと言えるのか分からなくて、考えてるうちに泣きたくなった。
一人になれそうな場所を探しながらひんやりした廊下を歩いていると、角を曲がったところで誰かにぶつかった。
「ごめんなさい。前を見てなくて――」
また「これだから人の子は」なんて言われてしまったらよけいに落ち込んでしまいそうだったけど。
「……あ」
にっこり笑って立っていたのは王様だった。
「アルデュラならキースにつかまってボードゲームの相手をさせられているよ」
もうしばらくかかるんじゃないかなと言われて、僕は小さく頷いた。
「宿題は終わった? このあとの予定は?」
「宿題はもう……あとは別に……」
「じゃあ、少し私の話し相手をしてくれないかな」
差し出された手はフェイさんのようにかしこまってはいなくて、どちらかというと友達みたいだった。
王様は今日もちっとも王様らしくなかったけど、大きくて温かい手にすごくホッとした。
「私の部屋へ行こう。誰かに見つかると面倒だからね」
楽しげな足取りで僕の手を引き、ときどきにっこり笑って振り返る。
お兄さんみたいな王様は、やっぱりアルとよく似ている。
「さあ、ここだよ」
王様の部屋なんだからきっとものすごく豪華だろう。
大理石とか宝石とか、よくわからないけど高そうな家具とか置いてあって……ってドキドキしたけど。
「ようこそ、レン君。お茶を入れるから、そこへ座って」
開いたドアの向こうは、僕の家にあるのと同じようなごく普通の書斎だった。
|