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大きな机とたくさんの本。そばに置かれた透明な箱の中には真っ赤な剣が飾ってある。
きれいだなって見とれている間に、積み重なった書類は片付けられ、あいたスペースに王様がいれたおひさま色のお茶が置かれた。
「さあ、どうぞ。ニーマのほどはおいしくないだろうけどね」
「いただきます。すごくいい匂い」
ほんのりと甘い香りが漂ってほっと息をつくと、湯気の向こうでは王様がにっこり笑っている。それを見ていたら、ここに案内された理由がわかった気がした。
「あの……僕、謝らないといけないことがあるんです」
自分より小さな子を泣かせてしまったなんて、本当に恥ずかしいことだ。
ごめんなさいと言うと、王様は静かに首を振った。
「さっきエレフが謝罪にきたよ。甘やかされて育ったせいか、シィは親戚の中でもアルデュラの次にわがままな子でね。父親であるキースもほとほと手を焼いている。本当に申し訳ない」
「ううん、いいんです。僕もあんなに怒らなければよかったなって―――」
シィが甘やかされたっていうのはなんとなくわかる気がする。
学校にもああいう感じの子がいるからだ。
でも、王様から見ると一番わがままなのはアルなんだと思ったら、ちょっとだけ笑ってしまった。
王様がお天気の話をやめたのは一杯目のお茶を飲み終わった時。
「さて、レン君」
「はい」
改まった声にドキッとしながら、カップを置いてきちんと座りなおした。
「君にアルデュラの名前の話をしないといけないと思ってね」
少し長くなるかもしれないけれど、という言葉に頷くと、王様はアルの小さい頃の話をしてくれた。
当時はまだいろいろと問題があって、他の子と同じように学校へ行かせてやれなかったこと。
子供があまり生まれなくなっていたせいで、ちょうどいい遊び相手がなかなか見つからなかったこと。
毎日ひとりで遊んでいたアルがとても寂しそうだったこと。
「それでね、みんなで相談して君の家に行かせることにしたんだ」
もちろんアルがとても行きたがっていたこともあったけど、一番は別の世界の子供ならこちらの利害関係に巻き込まれることがないと思ったからだ。
「契約のことがあったから、誰にも名前は教えないように言い聞かせていたし、アルデュラもずっとそれを守っていた」
契約は相手との結びつきを強いものにするけれど、お互いを縛るものにもなる。
悪意で利用されてしまったら、大変なことになってしまうのだ。
「信頼するに足る相手かどうか、幼いアルデュラには判断することはできなかっただろう。だからね」
アルが僕の家に遊びに行くことは王様の議会で承認された。
人間なら名前の契約ができなくて安心だという理由でみんな賛成したらしい。
「まさかそれが原因であの子の大切な友達を傷つけることになるとは思っていなかった。本当にすまないね」
アルの名前を正しく呼べないことはお城のみんなが知っていた。
でも、触れないようにしてきたのだ。
「今日まで君に言わなかったのは、そんなつまらないことで劣等感を持って欲しくなかったからだよ」
契約は古くからあるしきたりの一つだけれど、昔と違って今はもう絶対的なものではないからって王様は言う。
それはちゃんと理解できたけれど。
あの日、名前を教えたあとでアルはがっかりした顔になった。
何度言い直しても間違った名前しか呼んでもらえないんだから当たり前だ。
小さいアルにとってどれほど悲しいことだったろう。
「僕はいいんです。でも、アルは……」
王様は静かな声で「そうだね」と答えた。
それから。
「よく覚えているよ。あの子にしては珍しく自分から相談しに来たから、落胆の気持ちもあっただろう。でも、事情を話したらすぐに分かってくれたよ。『キライだからちゃんと呼んでもらえないんじゃなくてよかった』とも言っていた」
そのあとはお城中を走り回って僕にニックネームをつけてもらったことをみんなに話した。
次の日も、その次の日も、毎日何度も聞かされたという。
「従者や城下の者はもちろん、比較的年の近い従兄弟たちまでが『アルデュラ様』と呼ぶからね」
「アル」という短い呼び名はいかにも友達っぽくて嬉しかったのだろうって、王様は笑った。
「何よりも君にたくさん呼んでもらったことが嬉しかった。そう言っていたよ」
正式な名前かどうかは重要じゃない。
お互いを呼び合うことで良い関係を築けるかどうかが大事なんだからって。
「友達ならなおさらだ。大切なのはどんな呼び方をするかじゃなく、相手を『大好きだ』という気持ちだと思うよ」
小さくうなずいた僕に王様は今までで一番やさしい顔で笑った。
そして、とてもゆっくりした口調で付け足した。
「アルデュラが君と『名の契約』ができないことは、この先も大きな意味を持つだろう。だからこそ、何にも恥じることなくアルデュラの名を呼んでやって欲しい」
契約などできなくても信頼しあえるのだと誰もが思えるように。
それは僕にしかできない、とても大切な役目だからって。
「……はい」
話はこれでおしまいだよと言われたあと、気持ちが軽くなっているのを感じたけど、僕の中にはまだ「聞き取れなくてごめんね」という気持ちも残っていた。
でも、王様はやっぱりニッコリ笑って首を振った。
「アルデュラに会ったらいつものように呼んでみるといい。あの子がどんな顔で返事をするか、自分の目で確かめておいで」
「はい」
今度は大きく頷いて、元気よく王様の部屋を出た。それから、走って図書室に向かった……はずだった。
「あー、また迷ったみたい」
でも、目の前にある扉の飾りには見覚えがあったから、ひとまず安心した。
いつもニーマさんがいるお茶の部屋だ。
ここから一度出直そうと思ってドアを開けると、予想した通りの笑顔が迎えてくれた。
「あら、レン様」
その後ろではばあやさんが午後のティーセットの模様を、執事さんがお客様用の椅子の形を決めていた。
「もうお勉強は終わりまして?」
「うん。それはけっこう前に」
そのあとが大変だったのだ。
隠すのもなんだか良くないような気がして、みんなに今日のできごとを話した。
「それは災難でしたね」
ばあやさんは呪文をかける手を止めて慰め、執事さんは深くうなずいてくれた。
「でも、ぜんぜん気になさることはないですよ。シィ様は誰に対してもそんなですし、あの子の従者ももともとは先王様のご親戚か何からしくて、口を開けばここの悪口ばっかりですし」
いつものことなのでお城では誰も相手にしていないという。
「最初からぜーんぶ聞こえなかったことにしてしまえばいいんですよ」
悪口だったら返事をする必要はないからってばあやさんも言うから、僕も安心した。
「だったら次はそうしようっと」
その話はそれで終わり。
けど、もっと大事な問題が残っていた。
「あー……アルデュラ様のお名前ですか。まあ、それも気になさらなくていいんじゃないですか?」
たいしたことじゃないしってニーマさんは軽く肩をすくめたけど。
「ちゃんと呼んで欲しかったとしても、アルはそう言わないんじゃないかって思うんだ」
アルはいつだって僕に気を使ってくれるから、できないってわかってることに文句を言ったりはしないだろう。
「そうですねえ。レン様にはお優しいですから」
本当はずっとガマンしているのかもしれない。そう思うと、やっぱり落ち込んでしまう。
下を向いてしまいそうになったとき、自信たっぷりに笑ったのは意外にもばあやさんだった。
「そんなご心配は無用です、レン様。アルデュラ様の場合、口には出さなくてもお顔には全部出ますから」
きっぱりとした口調にニーマさんと執事さんが思いっきり頷いた。
言われてみれば確かにそうかもしれない。
だったらきっと大丈夫ってホッとしたけど、ばあやさんの話には続きがあった。
「それはともかく」
ばあやさんがふうっと大きな息を吐いて僕を見る。
普段はどんなに難しい問題でもあっというまに片付けてしまうばあやさんの口からため息が出るなんてとても珍しい。僕はちょっと緊張してしまった。
「……はい」
おそるおそる返事をしてばあやさんを見上げたけれど、話は僕の思ってるのとは違う方向に進んでいた。
「アルデュラ様のことですから、レン様が気になさっていることをお知りになったら、『名前を変える』などと言い出さないとも限りません。ですから―――」
この先も絶対に「そんなのぜんぜん気にしてないから!」って態度でいるようにと言われてしまい、返事に困った。
だって、アルとおんなじで僕もきっと全部顔に出てしまう。
第一、「ぜんぜん気にしてない顔」がどんななのかよくわからない。
でも。
「レン様、どうか」
お願いしますって、執事さんまでが僕に頭を下げるから。
「……はい。努力します」
本当はすごく心配だったけど、めいっぱい頑張ってそう答えた。
「あら、ちょうどゲームのお相手が終わったようですね」
ニーマさんの視線の先、大きな鏡の中をのぞきこむと廊下を走っているアルの背中が見えた。
「こちらから呼べば聞こえますよ」
ばあやさんがそう教えてくれたから、思いっきり大きな口を開けて叫んだ。
「アル!」
本当に聞こえるのかなってちょっと疑っていたけど、アルはすぐに半分だけ振り返ると、パッと顔いっぱいに笑った。
それから、クルッと方向転換してこちらに走ってきた。
「レン!」
あっというまに鏡を突き抜けたかと思うと、勢いよく僕の首に抱きついた。
「う……ぁ、後ろにっ」
倒れる、と思ったけど。
空気のクッションのようなものがボヨンと僕の体を押し戻した。
ばあやさんの人差し指が立っていたから、きっと何かの呪文だったんだろう。
おかげでちゃんと元通りに立つことができた。
「悪い。おそくなった!」
まだ僕に抱きついたままのアルの背中で、室内用の小さい羽がパタパタ動く。
「そのご様子だとゲームにはお勝ちに?」
「ううん。負けた」
アルはいつだって負けず嫌いだけど、ゲームの結果にはこだわらないみたいで、とても機嫌がよかった。
「じゃあ、お茶にしましょうね」
二つの椅子が僕らを迎えに来て、座るとテーブルまで運んでくれる。
その間もアルはずっとにっこりしたままこちらを見ていたから、僕もなんとなく笑い返した。
その時、うっかり「ごめんね」って言いそうになってしまって、あわてて口を押さえた。
さっき約束したばっかりなのに、こんなにすぐに破ってしまったら大変だ。
焦っていたら、ニーマさんが違う話を振ってくれた。
「ところで、ええと……フェイシェン殿は本当に城内の見回り中だったんですか?」
「あ……うん。イリスさんの加護が行き届いているかどうかの確認だって」
アルの関心はすぐにその話題に移ったらしく、ちょっと「え?」という顔で僕を振り返った。
何か変なことを言ったかなと思っていると、執事さんまでが「本当に?」という目を向けた。
「見回りをしてるところなど見たことがありませんが」
「そうですよね。徘徊していることは多いですけど」
そう言われても僕には違いがわからない。
「そもそも普段はわりと薄情な性格ですのにわざわざ声をかけるなんて。もしかしたらレン様のことがけっこうお気に入り、なーんてことが……」
ニーマさんがそこまで言った時、アルの目がキュッと釣りあがった。
「あ、いえ、ちょっとした冗談ですから。そんなお顔をなさらなくても」
ニーマさんが「しまった」という顔で周りを見回したけど、ばあやさんはぜんぜん気付かなかったらしい。
小さく呪文を唱えながら食器棚に並んだカップの模様を青い蝶から黄色い鳥に変えただけで、フォローはしてもらえなかった。
おかげでアルの羽にはいくつかのトゲが、今にも飛んで行きそうなロケットみたいに斜めに立っていた。
「ふん。まあいい。それが当たってないかどうかは自分で確かめる。なんて言ってもフェイシェンだからな。ちょっとの油断もぜったいダメだ」
「それは、まあ、そうでしょうけど」
ニーマさんの話だとフェイさんのようにもともと流れ者だった魔術師は「気障で遊び人でそのくせ薄情」な性格が多いらしい。というか、むしろそれが普通らしい。
「それとは対照的に代々術師の家柄だと厳格で高貴な雰囲気の方が多いんですが」
ちらりと目をやった先はばあやさんの立っている方向。
実はとても有名な魔術師の家系なのだという。
「いつも落ち着いていらして、何よりも上品でしょう?」
少しかがむと小声でそう教えてくれた。
「うん。とても。……ニーマさんのうちは?」
「ごく普通です。魔術はほんの少し使える程度で、そういう点ではあんまり役に立ちません」
ここからちょっと離れた森の中にニーマさんの実家があるらしい。
「最初に花が咲いた年、風に飛ばされてお城の庭に落ちてしまってからずっとこちらでお世話になっているんです」
ニーマさんの家族は「飛ばされやすい」人が多いらしい。
おばあさんも若い頃に飛ばされて、うっかり誰かの扉をくぐってしまい、人間界に落っこちたのだ。そして、そこで出会ったおじいさんと結婚したらしい。
おじいさんは亡くなるまでずっとニーマさんの実家で暮らしたのだという。
「大恋愛だったんですって。ちょっと憧れちゃいますよね」
「そっかぁ。なんだかおとぎ話みたいでステキだね」
そうつぶやいたとき、斜め後ろから視線を感じた。
振り返ると、アルがキラキラした目でこちらを見つめていた。
「どうかした?」
アルは口をキュッと結んで「ううん」と首を振ったけど。
でも、いつもよりぱっちり開いた瞳はなんだかとても言いたいことがありそうに見えた。
翌日、エレフにつれられてシィが謝りにきた。
「きのうは失礼なことを言ってすみませんでした」
書いてあるのを読んだみたいな感じだったけど。
口を尖らせながらもペコリと頭を下げたシィはちょっと可愛らしかった。
「従者の処遇については現在父上が考え中だが、とりあえず城への出入りは禁止になった。もう不愉快な思いをさせることはないだろう」
僕のことはともかく王様まで悪く言ってしまったら、怒られてもしかたない。
そう思ったから頷いておいた。
「じゃあ、今度からは一緒に遊べるね」
仲直りするときはやっぱり握手、と思って右手を差し出そうとしたら、アルが思いっきりその前に立ちはだかった。
「俺はやだぞ」
「なんでそういうこと言うの?」
「やだから」
どうやらアルは自分より小さい子が本当に好きじゃないらしい。
しかも。
「嫌がるものを無理に仲良くさせることはないよ」
エレフまでそんなことを。
「そうかなぁ……」
納得できずにいる僕の目の前。
エレフが差し出したのはボールのようなまあるい花束だった。
「昨日の詫びだ」
僕らの世界では男の人はあまり花をもらわないけど、アルもクリスマスのときに持ってきたし、こっちではきっと普通のことなんだろう。
「ありがとう。きれいだね」
お礼と同時に目の前で次々につぼみが開きはじめ、甘い香りがあたりにふんわりと広がった。
深呼吸をしながら両手でそれを受け取ろうとしたけれど。
その瞬間、満開になった花束はポーンと勢いよく空中に舞い上がった。
アルが思いっきり蹴飛ばしたのだ。
しかも。
「二人とももう城にこなくていいぞ」
両手をポケットに突っ込んだまま、ものすごく偉そうに目で指し示したのは門へつながっている扉。
「せっかく仲良くなれそうだったのに、なんでそういうこと言うわけ?!」
さすがに僕も怒ったけど、アルはぜんぜん聞いてない。
それでもエレフは「またそのうちに」と約束して帰っていった。
そのあとアルのいないお茶の席でニーマさんに相談してみたけど。
「どうしたら4人で遊べると思う?」
「そうですねぇ。シィ様がアルデュラ様をお好きなのは、まあ置いておくとしても、エレフ様がレン様にご好意をお持ちになったのはちょっと……」
「どうして? 嫌ってるなら困るけど、ちょっとでも好きだと思ってくれてるならその方がいいよね?」
小さな声で話していたつもりだったけど、うしろのほうから控えめな笑い声が届いた。
「レン様は本当にお可愛らしくて」
「どうぞそのまま真っ直ぐにお育ちくださいね」
窓辺のテーブルでお茶を飲んでいたのはマカ夫人とルシルさん。
でも、二人とも笑うばかりで、いい解決方法は教えてくれなかった。
〜fin〜
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