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ベーネさんを追って森へ消えていく二人を見送ったあと、誰もいなくなったテントでしばらくぼんやりしていた。
外はあいかわらず真っ黒で、飛ばされた葉っぱが何枚もテントの窓にはりついている。
もう近くには誰もいないみたいだった。
まわりを照らしているランプも見えたけど、風が吹くたびにガラスで囲われているはずの炎が大きく揺れて変な形の影を作るものだから、そのたびに心臓が跳ね上がった。
いくら呪文がかかったテントのはじっこを握っていても一人きりはやっぱり怖い。
まさかトルグまで行ってしまうとは思ってなかったから、気持ちの準備ができていなかった分、心細さも倍増だ。
「誰でもいいから早く帰ってきてくれないかなぁ……」
思わずつぶやいたとき、窓の外を横切ったものがあった。
光る蝶だ。
妖魔かもしれないってことだったから、もっと気持ち悪い感じかと思っていたけど、キラキラと光を放つ蝶はまっくらな夜空に浮かぶ一番星のようにキレイだった。
「……何してるんだろう」
何度もテントの前を行ったり来たりする。
なぜだか「今すぐここから離れて」って言われている気がした。
「どうしよう……でも、ここにいるって約束したしなぁ」
そのとき、一瞬だけ蝶が見えなくなった。
蝶を囲んでいる影が後ろを向いたのだ。
いやな予感がした。
じっと耳を澄ましていたら、ずるずると何かを引きずりながら何かが近づいてくる音が聞こえ、思わずごくりと息を飲んだ。
「なに……あれ……?」
木の間から覗く岩のようなほら穴のようなかたまり。
黒い葉っぱだらけの森よりも夜の空よりもずっとずっと真っ黒だった。
見ているだけで自分まで暗闇になってしまいそうで、こわくてこわくてしかたないのに、体が凍りついてしまって目を閉じることさえできない。
数え切れないほどの黒いニョロニョロが飛び出して不気味さを増していた。
―――森を出て村に行くつもりなんだ……
そして、今僕が立っているここは通り道。
なのに、足がすくんでしまって逃げるどころか自分を支えることさえできなかった。
目も口も開けたままガクリと床に崩れ落ちる。
体中に汗が流れ、手が震えて握っていた布をちゃんと掴めなくなった。
「罠だ! テントに戻れ!! トルグ! オーレスト!!」
森の奥からルシルさんの叫び声がかすかに届く。
でも、切れ切れの命令はあっというまに風に消され、あとは黒い葉っぱがザザザと鳴るばかり。
誰かに聞こえたかどうかもわからない。
その間にも大きな黒い穴は少しずつ近づいてきて、もう森を出ようとしていた。
―――立たなくちゃ……立って逃げなくちゃ……
気持ちは焦っているのに体は少しも動かない。
のどがからからに渇いて、息まで苦しくなった。
無理をしてやっとつばを飲み込んだとき、突然風が吹き、テントが飛ばされた。
「うあっ!」
握っていたはずの布もその勢いであっけなくすべり抜け、僕の手を離れていった。
覆いのなくなった空にはあふれ出した妖魔が群れを作って飛び交い、ときどきチラチラと僕を見るように下を向く。
このままだときっと食べられてしまう。
そうじゃなかったら、あのほら穴に引きずりこまれてしまうのかもしれない。
恐怖に頭の中が真っ白になったとき、ピシッと何かが割れる音がした。
ゴゴゴという音と共に真っ黒な裂け目がジグザグに延び、地面に座り込んだままの僕めがけて走ってくる。
―――助けて……っ
叫んだつもりだった。
でも、声は出なかった。
森から戻ってくる人もいない。
もうダメだって思ったとき、穴とテントの間に蝶が浮かんだ。
フラッシュのようにパッと明かりが散り、ジグザグは一瞬だけ動きを止めた。
「レン様!!」
ルシルさんの叫び声が耳に届いた時にはもう僕は宙に浮いていた。
呪文で跳ね上げられたのだ。
下を見るとルシルさんがいて、黒いひび割れは尖ったブーツの足先まで迫っていた。
自分が逃げるためにもう一度呪文を唱えるつもりだったのかもしれない。
ルシルさんは呪文を切るときみたいに片手を挙げていた。
でも、裂け目に足を取られ、バランスを崩してそのまま地面に倒れこんだ。
「ルシルさんっ!!」
片足だけ落ちかけたルシルさんの手をつかんだのは、後ろから走ってきたオーレストさんだった。
でも、闇はそれに対抗するみたいに大きく口を開け、二人を一緒に飲み込もうとした。
「やめてっ!!」
叫んでどうにかなるわけじゃない。
でも、僕の願いが叶ったみたいにルシルさんの体はふわりと宙に浮いた。
半分飲み込まれながらもオーレストさんがルシルさんを呪文で突き飛ばしたのだ。
「オーレスト!!」
上に飛ばされながらルシルさんが手を伸ばしたけれど、もちろん届くはずなんてない。
もう絶対ダメだって目をつむった。
だけど。
次の瞬間にはオーレストさんの体もポンと空高く放り投げられた。
何が起こっているのかわらかなくて、僕は地面を見下ろしたままぼうぜんとしていたけど。
「トルグ!!」
ルシルさんが叫ぶのを聞いて、たった今オーレストさんの代わりに飲み込まれたのがトルグだと知った。
「トルグっ、やだよ、出てきて!! トルグっ!!」
蝶が来たときすぐに逃げていればこんなことにならなかったんだ。
妖魔しかいない場所でトルグはこの先ずっと暮らすんだろうか。
それとも、すぐに食べられてしまうんだろうか。
トルグが消えた割れ目を見下ろしながら、気持ちの底までまっくらになった。
ガクガク震えていることに気付いたのはルシルさんに抱きしめられたとき。
怖くて思わずぎゅっとしがみついたけれど、ルシルさんの口からも言葉は出なかった。
ゴゴゴゴと宙にまで響くような地鳴りがして、裂け目が閉じようとする。
僕もルシルさんもオーレストさんも何もできずに見下ろしているしかなかった。
「トルグ……っ、トルグーっ!!」
涙と叫び声と一緒にふかふかであったかかったトルグの感触がよみがえる。
「出てきて、トルグ、トルグっ!!」
下に降りて行こうとしたけど、それはルシルさんが許してくれなかった。
「駄目です、レン様。どうか我慢なさってください」
ぎゅっと抱きしめられていたから、ルシルさんの顔を見ることはできなかった。
でも、誰よりも悲しいのがルシルさんだってことはわかっていたから、それ以上わがままは言えなかった。
僕らが見守る中、裂け目はゆっくりと閉じられていった。
本当にもうダメなんだって思ったそのとき、飛んできた何かが闇の口に挟まった。
「あっ、あれ!」
ルシルさんもオーレストさんも驚いた顔で見つめていた。
つっかえ棒になった真っ黒なものの真ん中には、あの蝶が光っていた。
割れ目から少し離れた場所に降りたオーレストさんが剣に手をかける。
また黒いニョロニョロがあふれてくるんじゃないかと僕もルシルさんも身構えたけれど。
ブゴッいう変な音がしたあと、つっかえ棒の横から転がり出たのは妖魔なんかじゃなかった。
「トルグっ!!」
よろめくこともなく着地したトルグは、そのあとブルブルッと体を震わせて長い毛を整えた。
どこにもケガはしていなかったみたいで、すぐにタッタッと歩き出して自分が出てきた穴から距離を取った。
「トルグっ!!」
ルシルさんに抱えられたまま両手を伸ばすと、トルグが僕らを見上げてしっぽを振った。
地上に降りてトルグに駆け寄ったとき、割れ目のほうからフコッフコッと咳き込むみたいな音が聞こえた。
オーレストさんがまた剣に手をかけたけれど。
「……なんだ、あれは」
妖魔が出てきたわけでも、穴が広がったわけでもなく、空中にキラキラ光る粉のようなものが舞っていただけ。
「レン様の髪のようですね」
トルグの首にかけられていたお守りが破れて中味がこぼれたらしい。
闇は光るものが嫌いだから吐き出したんだろうって言いながら、3人は目でうなずき合っていた。
「ありがとうございます、レン様。トルグが無事に出てこられたのもお守りのおかげだったのですね」
本当にそうなのかはわからないけど、だとしたら僕もうれしい。
「少しでも役に立ったならよかっ……うわっ!」
思わず叫び声をあげてしまったのは、地面が大きく揺らいでよろけたからだ。
すかさずトルグがしっぽで僕を背中に担ぎ上げた。
「レン様、こちらに!!」
飛ばされたテントを呪文で建てなおすと、ルシルさんが僕とトルグをその中に押し込んだ。
ドルルルル、と奇妙な振動のあと、森のあちこちで黒い穴が開いて渦に変わる。
駆けつけた隊の人たちがいっせいに剣を構えた。
「飲まれるな! すぐに守護呪文を―――」
魔術師らしきヒゲの人が片手を挙げ、呪文を唱えようとしたけれど。
渦はギュルルルと不気味な音を立てて近くにいた妖魔たちだけを飲み込むと、あっという間に小さくしぼんでスッと消えてしまった。
「あ……明るくなった?」
朝になったからだって思ったけど、どうやらそれだけじゃないらしい。
降ってくる光が増えて、真っ黒に見えた森の葉がみるみるうちにツヤツヤした緑色に変わっていく。
少しずつ薄い青色を足したみたいに、空もだんだん水色になっていった。
厚い雲を突き抜けて地面ごと太陽に近づいてるみたいだった。
大きく深呼吸したあとで地面に目を戻すと、さっきまで闇の裂け目だった場所にはつっかえ棒になっていたものだけが残っていた。
「……あ……」
声を上げたのはルシルさんだった。
明るくなったせいではっきりとわかる。
子供の形をした真っ黒な影が、片足だけ埋まった状態で横たわっていた。
心臓のあたりには太陽の光を受けて光る蝶。
よく見るとそれは髪飾りで、小さな黒い手にしっかりと握りしめられていた。
もうピクリとも動かなくなった影の前にひざまずくと、ルシルさんは埋もれてしまった片足を手で掘りはじめた。
「やめろ、指が傷だらけになる。剣が持てなくなったらどうするんだ」
すぐにテントから掘る道具を持ってくるからじっとしてろって、オーレストさんに言われてもルシルさんの手が止まることはなかった。
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