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「あの……大丈夫ですか?」
抱き起こそうか迷ったのは、さわった瞬間にくずれたりしたらどうしようって心配になったからだ。
だって、なんだか表面がパサパサしていて、土でつくった人形みたいだったのだ。
「なんだ、おまえは―――」
うっとうしそうに顔を上げたその人を見て、どこかで会ったって思った。
ほこりをかぶったようなパサパサの髪。色がよくわからないどんよりした目。でも、中学生くらいの男の子。
「ええと……」
10秒以上たってからやっとピンと来た。
前に会ったときは髪の毛がじゃまで口と頬の下のほうくらいしか見えなかったからすぐには思い出せなかったのだ。
「……イリスさん?」
服はやっぱり幽霊っぽい感じだったけど、つめはちゃんと切ってあった。
「何故分かった」
なんだかすごく不満そうな声だなって思ったけど、単に具合が悪かっただけなのかもしれない。
「ええと……なんとなく?」
僕の返事なんて聞かず、またすぐにうずくまってしまった。
「待ってて、お医者さん呼んでくる」
近くで病院なんて見たことがなかったけど、誰かに聞けば教えてもらえるだろう。
大丈夫、すぐに連れてくるからって思ったんだけど。
「医者に治せるわけがないだろう」
これだから人間の子供は……って言われてしまった。
「じゃあ、薬もらってくる。じゃなかったら、ばあやさんか……あ、いなかったっけ……ルナもフレアも、あとは―――」
みんな忙しいのだ。
イリスさんもそれは知っているんだろう。
誰も呼ばなくていいって断わられた。
「今、城で暇を持て余しているのは役立たずだけだからな」
ドキッとしたのはちょっと自分でもそう思ってたからだ。
「あ……僕?」
でも。
「おまえのことじゃない」
イリスさんはすごく意外そうな顔で僕を見たあと、面倒くさそうに首を振った。
「ええと、じゃあ、王様の椅子専属の魔術師さんは?」
僕はまだ一度も会ったことないけど、なんといっても専属なんだからいつだってイリスさんの近くにいるはず。
病気だって治せるに違いないって思ったんだけど。
「ウィヴなら今日は閉じ込めてある。髪が重苦しい黒褐色だからな」
その返事のほとんどについて意味が分からなくて。
「ウィヴっていうのが魔術師さん? 髪は毎日色が違うの? 重苦しい色だと外に出ちゃダメなの?」
うるさくないように小さな声で聞いてみたけど、「知らないのか」と言われただけで何一つ答えてもらえなかった。
そのままじんわりと時間が過ぎて。
でも、イリスさんはうずくまったまま。
僕はその前に座り込んで途方に暮れていた。
「えっと……じゃあ、執事さんかニーマさんならどう?」
ここで座っているよりはちゃんとベッドで寝たほうがいい。
部屋まで運んでもらおうって思ったんだけど。
「だったら、誰もいない場所を探して来い」
一人きりで冷たい風に当たりたいって言われた。
「でも、今日は外すごく暑いよ。冷たい風なんて……あ、だったら番人の庭は? さっき行ってきたんだけど、ここより涼しくてよかったし、アルが決めた条件に合う人しか入れないから誰かに会ったりしないと思うよ」
こんなにみんなが忙しいときなら、僕ら以外はいないだろうって話したら、「ふっ」って感じに笑われてしまった。
「アルデュラが入場条件を付けたんだろう?」
だったら自分が入れるわけないってイリスさんが言うんだけど、どうしてそう思うのか僕にはちっともわからなかった。
「なんで? ぜったい大丈夫だよ」
自分の好きな相手が入れないような決め事をつくる人はいないはず。
アルだってきっとそうだ。
「だって、アルはイリスさんのことが大好きだもの」
小さい頃の話をたくさん聞いた。
イリスさんがいっぱい遊んでくれたこと。
毎日一緒にご飯を食べていたこと。
絵の具を全部混ぜてかきまぜたみたいな灰色の日でも、イリスさんは絶対にアルが大好きだってことも。
「自信満々だったよ?」
「あれはいつでもそうだろう」
「……そうだけど」
でも、大好きなのは間違いない。
「だから、ぜったい大丈夫だって……」
じれったくなってイリスさんの手を取った時だった。
「う、わああっ!」
またしてもいきなり床を通り抜けて落下してしまったのだ。
落っこちる先がどうかトルグの背中のようにふかふかした場所でありますように。
そう願ってみたけれど。
ザッパーン、とよく知っている音とともに僕はお尻からキラキラ光る水の中に沈んでいった。
深いけれど、川みたいに流れてもいなくて、海みたいにしょっぱくもない。
そっと目を開けてみたら、白い石でできたプールみたいな場所だった。
きらきらゆれる空も太陽も、そう遠くない位置に見えた。
よかったと思いながら光の方向に水を掻いていくと、ちゃんと外に出られた。
「ぷはっ」
空気がおいしい。
思いっきり吸い込んだら、そこがどこだかわかった。
「ここってプールだったのかぁ」
すぐそばにさっき見たのと同じ白い柱があった。
あるのかないのかわからないくらい透明な水は、ほどよく冷たくてとても気持ちいい。
すみっこのほうから這い出てあたりを見回してみると、プールの縁の外側から下に向かって延びている長い階段があって、その終点にさっき僕だけぶつかった場所が見えた。
花のアーチはその向こう。
さらにその向こうに小さくキアやルピがいる家の屋根が見えた。
「なんだかさっきよりアーチの数が増えてるみたいだ」
というか、さっきはこっちに続く階段なんてなかった。
プールを囲っている屋根と柱はやっぱり白かったけど、どちらも途中から色がなくなっていて、真っ青な空が透けている。
「そういえば、イリスさんも一緒に落っこちたみたいな気がしたんだけど……」
どこへいっただろうって、何気なく水の中を見たら、仰向けになった人が沈んでいた。
「うわああっ」
驚いて大きな声で叫んだら、水の中の人がうるさそうに目を開けた。
透き通るような薄青の髪に、銀色の瞳。
さっきまでとぜんぜん色が違うけど、やっぱりイリスさんだった。
「あー、びっくりした……沈んだままで大丈夫なの?」
声は聞こえなかったけど、確かに『あたりまえだ』と言われた。
「あたり前なのかぁ」
王様の椅子は溺れたりはしないってことなんだろう。
それよりも沈んだままでいられることのほうがすごい気がする。
『水が少ないな』
今度は水の中でしゃべっているとは思えないくらいはっきりした音で声が聞こえた。
それも王様の椅子の特技なのかもしれない。
「少ないかなぁ……」
僕の背よりずっと深いのにって思ったけど、それを見透かしたように水面に浮いてきたイリスさんが神殿の後ろ側を指差す。
「ここが一番下だ。本来ならここまでの通路すべてに水が満たされていなければならないんだ」
白い石だけでつくられた階段は上までジグザグにつづいていて、その脇をくぼんだ道が走っている。
でも、水は流れていなかった。
少し昇ってみると小さなプールつきの休憩所があったけれど、そこもすっかりカラカラだった。
なんだか寂しい気持ちになりながら、イリスさんのところまで戻り、靴とくつしたを脱いでプールの縁に並べてから腰掛けた。
「乾いたところは透けて見えなくなるんだね。そのうち全部消えちゃうのかな」
びしょびしょのハーフパンツをまくり上げて、そっと足をつける。
ひんやりしてとても気持ちよかったけれど、神殿の今後はとても心配だった。
「水でできているものだからな。しかたない」
「いっぱい流れるようになれば元通りになる?」
「当然だ」
どこからつながっているのか、僕が座っているすぐそばにはらせん状の細い水路があって、ときどきゴルフボールくらいの水の玉が転がってプールに落ちてくる。
コロン、ポチャン、と音がするたびにイリスさんがため息をつく。
もっとザブザブ溢れていれば気分も晴れたんだろう。
だったら、よそから運んでくればいいって思ったけど。
よく考えたら今はどこも水不足だった。
「イリスさん、水の作り方知ってる?」
前に空気から水を作るテレビを見た。
やり方がわかっていても専門的な道具がなければムリっぽい感じだったけど、イリスさんだったら専属の魔術師さんもいるし、どうにかできるかもって期待したんだけど。
「水は『世界』が与えるものだ。お前の生まれた場所のように勝手にあちこちいじって壊したり作ったりすることはない」
「そうなのかぁ」
じゃあ、それはダメだ。
他の方法を考えなくては。
「うーん……そうだなぁ……」
水の中でバチャバチャ足を動かしながら考えてみたけど、何も浮かんでこなかった。
ときどき僕の頭の上にコロ、ポチャ、と小さな水が落ちてきて飛び散っていく。
真剣に考えなくちゃいけないはずなのになんだか面白くなってしまって、落っこちてきそうなところの下で口を開けて待ってみたら、ちゃんと転がってきた。
「この水、おいしいなぁ」
小さな水の玉を飲み込んだあとイリスさんを見たら、なんだかものすごく「ふーん」って顔になっていた。
なんだろうって首をかしげたとき、「おまえなら多少は役に立ちそうだ」って言って、ザブザブこっちに歩いてきた。
そして、いきなり僕のおでこに人差し指と中指を当てて、ぐりぐりぐりぐりと何かを押し付けた。
目の前で動く口が短い言葉を唱え、そっと閉じられる。
呪文だっていうのはわかったけど、おでこに特別な変化はなかった。
「もういいぞ」
「今のは何だったの? 何にも聞こえなかったけど」
「人の耳に聞こえるはずがない」
「そうなんだ……」
ちょっとがっかりしたけど、しかたない。
むずかしいところを省略した説明によると、今のはイリスさんが『世界』から授かった呪文らしい。
「どんな効きめがあるの?」
すごく楽しみだって思ったのに。
「何の役に立つかわからない呪文だ」
唱えた相手の性質によって違う効果が出るらしい。
「まったく何も起こらない場合がほとんどだがな」
実際、いいことがあった人は一人もいないらしい。
「バジークにもやってみたが、出かけた帰りに子供を拾ってきただけだった」
それも目つきの悪い、小生意気な子供だといまいましそうにつぶやく。
「じゃあ、バジ先生の家には小さい子がいるの?」
ぜんぜんお父さんって感じじゃないよなって思っていたら、イリスさんがもっと不機嫌な顔になった。
「もうすっかり育った。今は口の悪い魔術師だ」
どこを可愛いと思って拾ってきたのかさっぱりわからない、という追加の説明で、やっとそれがフェイさんのことだってわかった。
だって、バジ先生がかわいいって言う相手はフェイさんだけだから。
「……フェイさんは口なんて悪くないけどなぁ」
それどころか指先まで優雅で、まるっきりどこかの王子様のようだ。
「猫をかぶっているだけだ。ジアードの領外では柄の悪い賞金稼ぎのようだと聞いたぞ」
噂の出どころは王様だ。
お忍びで珍しい妖魔の採集に行った帰りにたまたま出くわした流れ者同士の決闘。
王様はわくわくしながら野次馬に紛れていたんだけど、よく見たら流れ者の片方がフェイさんだったらしい。
お城に戻ってすぐ、ものすごい大ニュースのように笑って話したのだという。
もちろんフェイさんが勝ち、相手から「お詫び」として所持金全部を受け取った、というのがその時の顛末だ。
「『受け取った』んじゃない。『巻き上げた』んだ」
「ふうん」
ガラの悪い賞金稼ぎがどんな感じなのか僕には見当もつかなかったけど、どんな格好をしていたとしてもフェイさんはフェイさんなんだからそんなにひどくはないはずだ。
「だって、僕にはやさしいよ」
あらためて思い返すとフェイさんにはいつも助けられてる気がする。
怖くて立てなくなったときも運んでもらったし、シィの家庭教師の人に怒られたときもかばってもらった。
「あいつは光るものが好きだからな」
「僕、光ってる?」
「頭と中が」
頭っていうのは髪の毛のことだろうけど、「中」ってなんだろう。
聞こうとしたけど、イリスさんはまたじゃぶんと沈んでしまった。
さっきみたいに深いところまでは行かなかったけど、水面でも底でもないところに上手に仰向けになっている。
どうして真ん中で止まれるのかすごく不思議だったけど、また「当たり前だ」って言われる気がしたので聞かなかった。
「沈んでたら元気になるのかなぁ」
少し経つとまた浮いてきて、しばらくするとまた沈む。
何度かそんなことをしているうちに、イリスさんはだんだんあざやかな色になっていた。
透き通った淡い青色の髪が水に揺れる。
銀色の目が空を見上げる。
ふんわりした肌色の指先がときどき水面から出て蝶をとまらせる。
びっくりすることが多すぎて、呼吸を忘れる余裕はなかったけど。
王様が言ってたとおり、全部がとてもきれいだった。
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