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水面と底を何回か往復すると、イリスさんの顔色はすっかり良くなった。
パサパサしていたのも治って、今はつやつやだ。
「よかった。ニーマさん、すごく心配してたもの。他の人だってきっとみんなそうだと思うよ」
もう一度「よかった」って言ったら、浮いてきたイリスさんが「ふん」っていう顔をした。
「役立たずの椅子でも心配するのがあいつらの仕事だからな」
せっかく元気になったんだから性格も明るくなればいいのにって思うけど、そううまくはいかないらしい。
でも、これならきっとどんよりしていたお城の中も明るくなる。
何よりも、青と銀のイリスさんを見たらみんなが喜ぶだろう。
「いつもその色でいればいいのに」
すごくきれいだからもったいないよって言おうとしたとき、ふいに耳の奥で声が聞こえた。
『これが次代の王の椅子候補? 冗談はよせ。色合いも軽薄で品も風格もなさすぎる』
『確かに威厳に欠けますわ。もっとましな椅子候補はいないの?』
おじいちゃんのレコードみたいに古くて少し遠い音。
でも、それがイリスさんに向けられた言葉だということはすぐにわかった。
声から5秒くらい遅れて、ぼんやりした映像が浮かんだからだ。
イリスさんがまだ小さかった頃、顔を見に来た人たちがみんなで陰口を言ったのだ。
それも、わざと本人に聞こえるように。
「真紅、深緑、濃紺、漆黒、華やかな金。荘厳。重厚。王の椅子とはそうあるべきだと昔から言われている」
薄い青や淡い銀ではダメだっていう説明を聞いて、すごくばからしいことだって思った。
「気にしなくていいと思うよ。そんなこと言うの、きっと変な人だもの。そうじゃなかったらセンスがないんだ。絶対そうだよ」
息をするのを忘れてしまったという王様のほうに僕は賛成だ。
透き通った水でできた宝石みたいなイリスさんの髪。
やわらかな銀の目だって、朝の日射しみたいでとてもきれいだ。
「イリスさんは灰色が好きなの?」
「そんなわけないだろう」
「じゃあ、みんなが『王様の椅子らしい』って言うように重そうな色にしてるの?」
きっとそうだって思ったのに。
「それも違う」
自分で好きな色に変えているわけじゃなくて、どうしても灰色になってしまうんだって言うのが答えだった。
友達が死んで、それからずっと灰色なんだ……って。
空を仰いだまま小さな声でつぶやく。
青いまつ毛のせいなのか、泣きそうな目に見えた。
「……それは僕もなんとなくわかる気がするな」
小さな頃の記憶を引っ張り出すといつでもすぐそばに母さんがいて、それ自体はとても楽しい思い出なのに、やっぱりどこかで少し悲しくなってしまう。
きっとそんな感じなんだろう。
考えていたら僕のほうが泣いてしまいそうになったから、わざと大きな声で質問をした。
「友達ってどんな人だったの? 男の人? 女の人?」
王様の椅子の友達はやっぱり誰かの椅子なんだろうかって思いながら聞いてみたんだけど。
「アルデュラの母親だ」
はじめはちょっと意外だって思った。
でも、それはすぐにいろんなことと繋がった。
「あー……そっかぁ……」
肖像画でしか見たことのないアルのお母さん。
赤い髪で、貴族のお姫様で、ジアードで一番剣が強かった人。
「そしたら、やっぱりアルのこと大好きだよね!」
イリスさんは「いったいどういう理論だ」って顔をしかめたけれど。
そんなのあたりまえだ。
だって、大切な友達とイリスさんが選んだ王様の間に生まれた子なんだから、大好きに決まってる。
それから、アルといる時は絵の具を全部混ぜたようなぐちゃぐちゃの灰色だっていう理由もわかった。
アルがお母さんにそっくりだから、顔を見るたびに思い出して悲しくなってしまうんだ。
「よかった」
「何がだ?」
「イリスさんがアルのこと大好きで」
悲しい気持ちをがまんしながら一生懸命アルの面倒を見てくれたイリスさんは、本当はすごく優しい人なんだろう。
今だって「子供の頭の中はよくわからない」と呆れたようにつぶやいていたけど、そのあともちゃんと話し相手をしてくれた。
「どんなに能天気な性格でも自分が嫌われているかどうかくらいは分かるものだろう」
「そうかな?」
じゃあ、バジ先生はどうなんだろう。
フェイさんなんて、ものすごくはっきりと「うっとうしい」って言ってたのに。
そう思ったとき、何かが足元でチャプンと跳ねた。
「あ……魚だ」
よく見たら、透明な水の中に透明な魚がたくさん泳いでいた。
「さっきまではいなかったよね?」
最初に僕が落ちたときにはそれっぽいものは見えなかった。
どこから来たんだろうってつぶやいた瞬間、急にサーッとこまかい雨が通りぬけた。
空には雲なんて少しも見えなくて、太陽だってガンガン照りつけているのに。
「どうして雨なんて―――」
後ろ側も見てみようと立ち上がったら、プールからザーッと噴水のように水が散った。
水でできた魚たちもそれと同時に一斉に空に昇っていく。
「すごいなぁ……魚なのに空飛べるのかぁ」
感心しながら見送っていたら、イリスさんがまた呆れた顔をした。
「魚ではない。水使いだ」
「ミナツカイ?」
「それも知らないのか」
よくわからないけど、きっとそういう名前の種族なんだろう。
普段は水のふりをして隠れていて、天気雨が降ると空に戻るのかもしれない。
魚がいなくなった分だけ減ってしまったらしく、浮いていたイリスさんが少し遠くなっていた。
じゃぶじゃぶ浸していた足も、今はつま先がちょっとだけ水面に触れるくらいだ。
またイリスさんの具合が悪くならなければいいけどって心配していたら、かかとの下に何かが当たった。
ぴちゃん、と頼りない水しぶきを上げたのは透明な魚。
さっきのよりもずっと小さくて、しっぽが長い。
「置いていかれたな」
イリスさんが言うとおり、どうやら一匹だけ残ってしまったらしい。
心細そうに僕の足の辺りではねていた。
よそ見をしていてタイミングを逃してしまったんだろうか。
そうじゃなかったら、他のよりずっと小さいから上がれなかったのかもしれない。
なんだかとても悲しそうだった。
「じゃあ、僕が手伝ってあげるよ」
手に乗っけて、力いっぱい上にポーンって飛ばしてみたらどうだろうってイリスさんに相談したんだけど。
「そんなくだらないことをよく思いつくな」
「えー、それじゃダメかな?」
それしかないって信じてたのに。
「じゃあ、どうしたらいいと思う?」
いくらなんでもこのままじゃかわいそうだ。
あんなにたくさん仲間がいたのに、一人だけ取り残されてしまったらどんなにさみしいだろう。
「空に戻すつもりなら、小難しい願い事でもしてやることだ」
『世界』が聞き届けなければならないような大事な内容なら、それをエネルギーにして帰れるらしい。
「相当気の利いたことでもない限り無理だがな」
どういうのが「気の利いた願いごと」なのかぜんぜんわからないけど、とりあえず頼んでみて、ダメなら別のにすればいいだけのことだ。
プールの縁から底のほうに向かってのびている階段を少し降りて、小さな魚を両手で水ごとすくう。
「じゃあ、行くよ?」
手の中にいる魚に準備をするように合図してから、空を仰いだ。
お願いごとはすぐに決まった。
ずっと前から何とかしてあげたいって思っていたからだ。
大きく息を吸ってから、階段を一気に駆け上がり、思いっきりジャンプして魚を高く放り上げた。
「アルがお父さんと一緒にピクニックに行けますように!」
雲ひとつない空に向かって力いっぱい叫んだ瞬間、羽なんて出てないのに僕の体はふわんと宙に浮いて、プールからもザッパーンと大きな水しぶきが舞った。
勢いよく飛び上がった魚はぐんぐん昇っていって、キラキラと光りながら鮮やかな青の中にとけていく。
見えなくなる直前、長いしっぽがうれしそうに左右に揺れた。
「バイバイ! また遊びに来てね!」
小さな光がすっかり消えたあともしばらく手を振りつづけた。
おかげで腕を下ろした時には首が痛くなっていた。
「うわー、ぎぎぎって音がしそう」
笑いながらゆっくり下を向いたら、水面に座っていたイリスさんと目が合った。
折り曲げた膝にほお杖をついて、こっちを見ている顔は今までで一番呆れていた。
何がダメだったんだろうって思ったとき、大きなため息が聞こえて。
「まったく、この大変な時によくもそんな暢気な……他の願い事は考えつかなかったのか?」
どうやら僕は思いっきり大きなバツをもらってしまったようだ。
「じゃあ、『もうちょっと涼しくなりますように』とか?」
「……話にならないな」
せっかくの水を無駄遣いして、って怒られて。
プールを見たら、本当にあと10センチくらいしか残っていなかった。
「あ、でも、これならエネルがおぼれなくてちょうどいいかも」
僕らが顔を洗っているときも真似をするくらいだから、きっと水遊びは好きだろう。
アルがいいって言ったら、たまごのルビーも入れてあげよう。
冷たくて気持ちよかったら早く生まれてくるかもしれないし。
「なんだか今日はいいことがたくさんあったな」
神殿もみつけたし、イリスさんとも仲良くなったし、アルもピクニックに行ける。
よろこぶ顔を思い浮かべたら、僕もうれしくなった。
「王様もよろこんでくれるといいな」
「もう叶った気でいるのか。あんなに小さい水使いなど、あてになるかどうかもわからないというのに」
「大丈夫だよ。がんばり屋さんって感じだったもの」
手に乗せたとき、ぴちゃんって跳ねた。
あんなに元気がよくて、まっすぐ空に戻れたんだから、お願いだってきっと聞いてくれるはず。
「あ……でも、アルにはまだ内緒だからね」
叶ったとしても明日すぐに行けるわけじゃないだろう。
だったら、秘密にしておくほうがいい。
「そんなくだらない話、いちいちするはずがない」
イリスさんはそう言うんだけど、ぼんやりしているときに話しかけられたらうっかりしゃべってしまうかもしれないし。
「やっぱりきちんと約束して」
小指を出したら、何も説明してないのにつないでくれた。
「イリスさん、誰かにゆびきり教わったの?」
「アルデュラが朝から晩まで歌っている日があった」
むりやり約束ごとを作ってみんなとゆびきりをしたっていうのは聞いていたけど。
まさかイリスさんまでとは思わなかった。
「でも、アルらしいな」
みんなが友達みたいだからこのお城はいつ来ても楽しい雰囲気なんだ。
そういうところが好きだなって思っていたら。
「それはなんだ?」
急にピッと指を差された。
「え?」
イリスさんの爪の先をたどって自分の手のひらを見たら、真ん中にキラッと光るものがくっついた。
「あ……これ、きっと最後に帰った子のうろこだ」
絶対そうだって自信があったのに。
「水使いは魚ではないと言っただろう。鱗などあるはずがない」
「ないの?」
じゃあ、何だろう。
「形はそっくりなんだけどな」
薄くて透明で堅いところも同じだ。
片目に当てて太陽にかざしてみたら、水の中にいるみたいだった。
「きれいだなぁ。おいしい水の匂いもする」
「まったく、おまえは……」
イリスさんはやっぱり呆れてるみたいだったけど。
とにかくこれは僕の宝物。
あとでアルにも見せてあげよう。
「大事にしまっておいてね」
首からかけていた袋に入れると、種たちが僕の言葉がわかるみたいにシャラシャラと音を立てた。
そのあと、イリスさんと二人でプールの縁で横になった。
服が乾くのを待つ間、ときどき袋を揺らしてみると、「こぽぽぽ」と気持ちいい水の音がした。
〜 fin〜
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