そのあと僕はいつのまにか眠ってしまったらしい。
目を開けたときにはもう太陽は一つだけになっていて、イリスさんの姿はなかった。
「帰っちゃったんだ」
服はすっかり乾いていて、さらにふんわりと白いシーツのようなものがかけられていた。
やわらかくてさらっとした気持ちのいい生地でできている。
はじめは毛布かと思ったけれど、広げてみたら幅の広いワンピースみたいな形をしていた。
「……イリスさんの幽霊服だ」
これ一枚しか着てないと思い込んでいたけど、実は上着だったらしい。
お城に戻ったら誰かにイリスさんの部屋がどこなのかを聞いて、お礼を言って返さないと。
アルもそろそろお稽古から戻る頃だろう。
エネルのお昼寝ももう終わっているかもしれない。
ニーマさんのところでおやつを食べて、服を返したら今度はみんなでプールに来よう。
あれこれ考えながら庭とお城の廊下の間の扉を開けたら、目の前で長い銀色の髪が揺れた。
「あれ、フェイさん?」
なんだかすごく久しぶりって気がする。
「ただいま戻りました」
今日は魔術師兼執事見習いのときのスーツじゃなくて、こげ茶色の長いブーツに真っ黒い上着と真っ黒いズボン。
一番上のボタンにお城と同じ紋章が入っていた。
王様の騎士ともぜんぜん違うなって思いながらじっと見ていたら、「ジアード軍の制服ですよ」って教えてくれた。
軍隊の服っていうのはみんな戦争映画に出てくるみたいな作業着っぽい感じだろうって思っていたけど、フェイさんが着ているのは細くてぴっしりしていて、すごくかっこいい。
「仕事終わったの?」
「まだ途中ですが、数日はこちらで過ごすことになると思います」
王様の椅子専属魔術師のウィヴさんが留守なので、代わりにフェイさんがお城の仕事をすることになったらしい。
「ウィヴさんって閉じ込められてたわけじゃないんだ……」
小さな小さなひとりごとだったのに、フェイさんには聞こえてしまったらしい。
「イリス様にお会いになったのですか?」
しかも、誰から聞いたのかってこともお見通しだった。
「うん。番人の庭へ行く途中の廊下に座ってて……ええと、一緒に水遊びしたんだ」
服を返さなければいけないってことを説明するため、一通り今日のことを話した。
「僕、役立たずって思われてるみたい」
ついそんな言葉を付け足してしまったのは、やっぱりちょっと気になっていたからだ。
でも、フェイさんはすぐに笑って首を振った。
「それはおそらくイリス様ご自身のことでしょう。どう贔屓目に見ても何の役にも立ってないですから」
にっこりしたままさらりと言ったけど、それはなかなか厳しい意見だ。
たとえそれが本当のことだったとしても、そこまではっきり言う人はあんまりいないと思う。
「気になさるくらいなら、国内を回って皆を励ます程度の公務をなさればいいと思いませんか?」
「それはそうだけど……もしかしたら灰色なのを気にしてるのかも」
だって、お城がちょっとどんよりしただけでも「国が傾く」なんて思われてしまうんだから、イリスさん本人が暗い灰色でだるそうに現れたりしたらみんな大騒ぎに違いない。
「おっしゃっていただければ色などどうにでも致しますのに」
そう言ったあと、フェイさんは指を立てることも呪文をつぶやくこともしないで自分の髪をイリスさんとまったく同じ淡い青色に変えた。
「色を変えるのって簡単なの?」
「ええ、とても」
ドラゴンのルナがうさぎコウモリになるほうがずっと難しいらしい。
どちらにしても僕から見たらものすごい魔法なんだけど。
「じゃあ、それは大丈夫なんだね」
「そうですね。まあ、問題はあの甘ったれた性格ですが……いい年なんですから、もう少しなんとかしていただかないと」
見た目と年齢が違うって話はアルから聞いていたけど。
「イリスさんっていくつなの?」
「陛下よりは少し下だと思いますが」
「フェイさんよりは上?」
「もちろん」
フェイさん自身、誕生日が不明なのではっきりした年齢はわからないけれど、どっちが上かということだけでいいなら、イリスさんのほうが「かなり上」らしい。
見た目は僕と3つか4つくらいしか違わない感じだから、なんだか不思議だ。
「でも、そんな変な人じゃなかったよ?」
甘ったれてる雰囲気なんてぜんぜんなくて、どっちかといえばクールな感じだったって言ってみたけど。
「普通の大人はレン様のようなご年齢の方相手に『一人きりで冷たい風に当たれる場所を探してこい』などという我が侭は言いませんよ」
そんな気もしなくもないけど。
「でも、すごく具合悪そうだったんだ」
パサパサになっていたんだって説明したら、フェイさんが僕の前で少し屈んでにっこり笑った。
「イリス様は退屈が過ぎるとパサパサになるんですよ」
今度そんな状態になっていたら、遠慮なく大きな声で「暇なら働け」って言うようにって指導されてしまった。
でも。
「……僕、それはちょっと言えない気がするな」
だって、せっかく仲良くなれたんだ。
王様を選ぶ人なんだからすごく偉いはずなのに友達みたいに話をしてくれたし、寝てしまった僕に自分が着ていた服まで掛けてくれた。
本当はすごくいい人なんだろうって思ってたところなのだ。
「えっと……でも、もうちょっとやさしい言い方なら、できるかもしれ―――」
精一杯がんばって返事をしかけたその時、頭の上から大きな声が降ってきた。
『フェイシェン、戻ったなら部屋に冷たい水を運んで窓から風を入れろ。テラスの温度を下げて、木陰を増やして、それから―――』
注文はそのあとも延々と並べられたけど。
「それくらいの呪文でしたら、ご自分でどうぞ」
基礎の本を読めばすぐにできますよって言ったきり、ほんの少しもイリスさんのところに行く気はなさそうだった。
でも、イリスさんもちっともめげてなくて、今度はさっきの2倍くらいの音量で注文をした。
『フェイシェン! 水! 今すぐ!』
フェイさんに対してだけ特別なのかもしれないけど。
これじゃあ、わがままとか甘ったれとか言われてもしかたない。
頼まれる方は大変だなって思った瞬間。
「うっせーな。自分でやれって言ってんだろ」
壁に向かって叫ばれた言葉を聞いて、僕がフェイさんを心配する必要はないって思いなおした。
「まったく、陛下が甘やかすからこんなことに……部屋にこもったきり王の椅子としての仕事も全くなさらないし、少しでも気が乗らないとベッドから降りてこないし。私が王の立場なら不要物として塔の地下倉庫にでもしまっておきますよ」
そのあとフェイさんは何もなかったかのように廊下の真ん中に立ってお城の守護呪文をかけなおしはじめた。
ぱあっと明るくなる床や天井を見ながら、イリスさんの部屋の場所を聞かないといけないことを思い出したんだけど。
「あの……」
なんでもすぐに気付いてくれるフェイさんは、今日もやっぱりすぐにうなずいてくれた。
「ああ、イリス様のお召し物はお預かりしますよ。どうせ後で呼びつけられるでしょうから」
「あ、うん……じゃあ、お願いします。イリスさんに『ありがとうございました』って……」
抱えていた服を手渡したとき、頭の上からまた声が。
『フェイシェン、水!』
干からびたらどうするんだって怒鳴っていたけど。
フェイさんは速攻で、しかもかなりすっぱりとそれを切り捨てた。
「何度も言わせんな。テメェでやれ」
本当はちょっとだけ「どうしよう」って悩んだんだけど。
「……じゃあ、僕、アルのところ行くね」
「迷われぬようお気をつけて」
二人の会話はぜんぜんトゲトゲしてなくて、それどころかなんだかすごく友達っぽかったから。
仲が悪いわけじゃなくて、こんな感じでちょうどいいんだろうって思うことにした。
それでもちょっと気になって、エネルのうきわと僕たちの水着を用意してもらっている間に聞いてみたら、アルからは「いつもそんなだぞ」って返事があった。
「ふうん、やっぱりそうなのかぁ」
「ええ、スウィード様なんて『男の子同士の話って感じだね』なんて笑っていらっしゃいますし」
エネルにうきわをかぶせて大きさを確認しながら答えてくれたニーマさんも「それが何か?」っていう感じだった。
「けど、ウィヴは困った顔してるぞ」
「あー、でも、ウィヴリル様はもともと荒っぽい口調は苦手なご様子ですから」
どうやら専属魔術師さんは争いごとが嫌いな性格らしい。
ニーマさんの説明では「普段はとても物静かな方」ということだった。
「ばあやさんはなんて言ってるの?」
一番ちゃんとした判断をしてくれそうなのはばあやさんだ。
それだけ聞いておけば間違いないって思ったんだけど。
「メリナは何も言ってないぞ」
「え? ほんとに?」
ちょっと意外な気もしたけど、とにかく心配いらないってことなんだなって思ったとき、ニーマさんがとても意味ありげににっこり笑った。
そして。
「イリス様もフェイシェン殿も、メリナ様の前ではああいう話し方はなさらないですから」
そこでやっと僕はとても当たり前のことに気づいたのだった。
「……そうだよね」
僕の隣で、サッカーのユニフォームみたいな水着に腕を通していたアルも、「賢明な判断だな」って深くうなずいていた。
「じゃあ、やっぱり大丈夫ってことかぁ」
こうして、結論はあんがい簡単に出た。
だって『ばあやさんの前ではやらない』って二人で決めてるくらいだから。
本当はすっごい仲良しに違いない。
〜 fin〜
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