-6-
こんなときに迷子になるなんて……って、いつもよりたくさん慌てたけど。
今日は落っこちたり転がったりすることもぜんぜんないまま、気がついたら一人で静かに苔の上にしゃがんでいた。
エネルもちゃんと肩の上に乗っていて、「今のなに?」っていう顔で僕を見ている。
「また迷子になっちゃったね」って言いかけたとき、ペンダントが服の下でぶわっとあったかくなって、嫌な感じの鼓動が体中に響いた。
それと同時に目に飛び込んできたのは、大きな幹の陰からはみ出したル・ルーク殿下のふんわりした足の先。
あわてて口を閉じ、そっと立ち上がって右にちょっと移動したら、今度は体の半分くらいが見えた。
ふわふわした胴体は片手で乱暴に掴まれ、宙に浮いた体は変な格好で固まっていて、目には涙が浮かんでいる。
王子様を捕まえている人の姿は木の陰になっていて見えなかったけど、誰なのかはすぐにわかった。
トガモなんとかの最後の一人だ。
とにかくエンデールさんたちに知らせないと。
でも、今いる場所がどこなのかも分からない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
自分の心臓の音で頭の中がガンガンする。
木の棒ならあちこちに落ちているけど、それを武器にしても勝てないだろう。
だったら、まずはそっとここを離れてペンダントに相談してみようか。
みんながどっちにいるのかくらいは教えてくれるかもしれない。
息を殺したままあれこれ考えながらあたりの様子をうかがった。
すると、左5メートルくらいのところでふんわり風に泳いでいるものに気づいた。
キラキラと光を跳ね返しながらなびいている、それはニーマさんの糸。
―――これだ!
誰かがひっかかったらお母さんたちに伝わるのだ。
そして、つかまえるべき犯人以外はくっついて巻き取られてしまったりはしない。
音を立てないように注意しながら苔の上をはい進む。
普段なら5秒で着くのに1分くらいかかってしまった。
しゃくりあげるル・ルーク殿下の声を聞きながら、そっと糸に指をかける。
さわっているかどうかもわからないくらい細くてやわらかい。
だけど、ひっぱると想像以上にしっかりした手ごたえがあった。
すぐにシャラン、シャランって音がして。
「よし、これでニーマさんたちが来るぞ!」って思った瞬間、王子を掴んでいた男がこっちを振り返った。
あわてて首を引っ込めたけど、すぐに見つかってしまったんだろう。
大きな足がガサガサと草を踏み散らしてズンズン近づいてきた。
草むらに埋もれた僕からもバタバタしている王子様の手は見えている。
助けてって言うように「くーくー」泣き続ける声も近くなってきた。
エネルは僕の上着のポケットにもぐりこんだきり出てこない。
当たり前だ。
さっきチラッと見えたトガモなんとかは、大きくてがっしりしていて、顔も怖かった。
いかにも「悪い人」っていう感じだったんだから。
僕だって涙が出そうだった。
怖くて怖くてどうしようもなくて、今すぐ走ってお城に帰りたかった。
でも、僕たちだけ逃げたらどうなるだろう。
見捨てられたと思ったら、今よりもっとこわくなってしまわないだろうか。
涙でぐちゃぐちゃになった王子様と目があった。
その間にも男との距離はじりじり近くなって、表情まではっきり見えるようになっていた。
青っぽくて、黒っぽくて、生きている人っていう感じがしない。
手の甲は荒れてひび割れていて、何かの模様みたいになっていた。
「くーっ、くーっくーっ」
うるさいって言われてたたかれたりしたらどうしよう。
泣いちゃダメだよって言いたかったけど、声が出なかった。
どうか王子様も僕たちも助かりますように。
お祈りをしながらペンダントを握り締めた瞬間。
「レン様!!」
サーッと風が吹き抜け、ニーマさんの声が聞こえた。
男はいまいましそうな顔をしながらもすぐに方向転換をし、ザザザッと消えていく。
「ニーマさん! 王子様が!」
息を切らすこともなく僕の前に立ったニーマさんを見上げながら、男が逃げた方を指差した。
「大丈夫、すぐに奪い返して参ります!」
でも、トガモなんとかはあんなに大きくて怖そうなのだ。
ニーマさん一人で戦ったらきっとケガをしてしまう。
「待って! みんなを、連れてこないと」
せめてもう一人誰かいれば、って思ったんだけど。
「ご心配無用です。森の中ですもの、負ける気がいたしません」
にっこり笑ったニーマさんは本当にすごくすごくかっこよくて。
だから僕も大きく「うん」ってうなずくことができた。
男を追いかけたニーマさんは、宣言した通りすぐにル・ルーク殿下を取り戻してきた。
攻撃されてもケガをしないようにって繭を被せてもらった殿下は、きぐるみみたいに顔だけを出していた。
涙と鼻水でほっぺがすっかりゴワゴワになっていたけど、ケガはしていないみたいだった。
「もう大丈夫ですよ、殿下。レン様、エネル、しばらくの間、殿下をお願いします」
くーくーくーと泣き続ける王子を僕に渡すと、広げた手のそれぞれの指先からしゅるるるると糸を出した。
僕らを取り囲んだ半透明のキラキラは、あっという間に大きな繭になった。
ミントみたいな爽やかでやさしい匂いがふんわり漂う。
ぐしゅぐしゅ鼻をすすっていたル・ルーク殿下も、エネルといっしょにクンクン鼻を動かしたあとすぐに泣きやんだ。
「よかったね」って言ってみたけど、安心するのは早かった。
逃げたはずの男が僕らの見えないところから襲ってきたのだ。
枯れ枝を踏む音に気づいたときにはもうすぐ近くまできていた。
ザザザッと草がなぎ倒され、黒い影が繭に伸びる。
手にはナイフみたいな武器。
小さいからここまでは届かないって思っていたのに、変な音の呪文のあとにさっと長く伸びて、僕らを覆った半透明の壁に切りかかった。
「ニーマさん、助けて!」
思わず叫んだけど。
繭玉は見た目と違ってすごく丈夫で、ぼよぼよよん、って感じに表面が揺れただけ。
いとも簡単に長い剣を弾き返した。
持っている武器ではこの糸は切れないと判断したのか、男は僕らを人質にすることを諦めた。
そのかわりに僕の声で戻ってきたニーマさんに襲い掛かった。
「誰か!! 助けに来て! ニーマさんがっ!!」
「きゅううううううう!!」
のどが枯れるほどの大声に繭玉がビリビリ振動した。
誰でもいいから早くって思っている間、ニーマさんの手に握られた光る糸が風を切って鞭のようにしなるのが見えた。
ひゅるるるるパシッって爽快な音がして、撥ね退けられた剣が空高く舞い上がる。
うわぁ、って思いながら僕がそれを見ている間に、もう片方の手の糸で男の足をすくうと、一瞬でぐるぐる巻きにして閉じ込めてしまった。
「もう大丈夫ですよ」
サッカーボールみたいに繭玉を足で転がしながらにっこり笑うニーマさんはもういつものふんわり顔。
ついさっきまで戦っていたなんて思えなかった。
「すっごいなぁ……」
僕のとなりでこぐま王子もコクコクうなずく。
目はニーマさんに釘付けで、ふんわりしたほっぺがちょっと赤くなっていた。
やっと駆けつけてきたエンデールさんも、繭ボールとニーマさんを見比べて、びっくりした顔をしていた。
そのあと、4人で並んで歩きながらみんながいるところを目指した。
「エンデの森は本当にきれいですね」って言いながら、ニーマさんがときどきふわっとスキップをする。
無事に仕事が終わったせいか、とても楽しそうだ。
ル・ルーク殿下もニーマさんの真似をしてスキップをはじめたけど、今まで一度もやったことがないのか、右手と右足がいっしょに前に出ていた。
ときどきよろける王子様を眺めながら、ニーマさんがふにふにと口を動かす。
でも、直してあげようとはしなかった。
「殿下。一度お止まりください」
声をかけたのはエンデールさん。
どうやら一からちゃんと教えてあげることにしたらしい。
王子様を後ろからふわっと持ち上げ、浮いている間に手と足の練習をさせる。
ときどき王子様が振り返って何か質問をしていたけど、僕の耳には「くぷくぷ」にしか聞こえないので話の中味はわからなかった。
でも、地面におろしてもらったあとは正しくスキップできるようになっていた。
よかったねって思いながらニーマさんを見上げたら、「よかったですね」って顔でニコニコしたけど。
そのあとの「でも、ちょっともったいなかったですね」は、たぶん「あのままのほうがかわいかったのに」っていう意味だと思う。
こぐまぬいぐるみ王子様の小さな足と、まだ少し心配そうに見守っているエンデールさん。二人のあとを僕とニーマさんが少し遅れてついていく。
「ニーマさんって本当に強いんだね。僕、びっくりしちゃった」
「そうですか? ありがとうございます」
「どうして騎士にならなかったの?」
かっこいいのにって思ったから聞いてみたんだけど、ニーマさんは「とんでもない」って首を振った。
「こうやって捕まえるだけならいいんですけど、戦うことが仕事だとやっぱり『どうしても』って言うときがありますよね」
たとえ自分の身が危なくても、相手を殺すことができそうにないから騎士はムリなんだっていう説明に「そっかぁ」って思った。
「だって、自分が振った剣で誰かが死んでしまうなんて、とても怖いことでしょう?」
「うん」
僕もぜったいムリって言ったらニーマさんがふんわり頭をなでてくれた。
「騎士というのはとてもとても重い仕事ですよね」
守っている人の命と自分の命、それから戦っている相手の命も背負って任に就いているんだって話を聞きながら、ちょっと心配になった。
僕がなりたいと思っている冒険者は誰かと戦ったりしないんだろうか。
相手を殺さなくちゃいけないときはないんだろうか。
「あ、広場が見えてきましたよ」
真剣にスキップをしている王子様の、ちょっと力の入った手の先を見ながらノートを取り出した。
今度バジ先生に会ったら忘れずに聞いてみよう。
『ぼうけんしゃは戦いますか? "どうしても"の時はありますか?』
みんなのいるところに着いてから、ニーマさんは繭玉をさらに小さくして袋に入れた。
「久しぶりなので楽しかったですわ」
「またお手伝いできることがありましたら、いつでも呼んでくださいませ」
お母さんたちもエンデの人たちもお互い「大変よくできました」って感じで満足そうだった。
「それではそろそろおいとま致しましょう」
お母さんの声を合図に帰り支度をする。
そのときグランさんがエネルに新しい寝台をくれた。
「この間のものとは別に、専用の休憩所として王城の庭にでも置いたらよかろう」
ということは、前のかごベッドももらってしまっていいってことだ。
「ありがとうございます。よかったね、エネル。それならお散歩の途中で疲れちゃっても大丈夫だね」
「きゅきゅきゅ!」
エネルが大喜びなのを見ると、他の人たちもいそいそと苔を持ってきた。
「ならば少し多目に持っていかれるがよい」
「特に香りの良い株を選んでまいりましたぞ」
「もっと若い株のほうがよかろう。なにせエネル様はフワフワでいらっしゃるからな」
「エネル様、どれがお気に召しましたか?」
ひしめくぬいぐるみの真ん中で、エネルはとても元気よく返事をした。
「きゅう!」
エネルはだいたいなんでも「きゅう」だから、僕には意味がわからないんだけど。
「さようでございますか」
「ならばお持ちください」
ぬいぐるみの人たちは大きなかごを用意すると、それぞれ持ってきた苔を一つ残らず中に入れた。
どうやらさっきの「きゅう」は「ぜんぶ」の意味だったらしい。
「……エネルってすごいな」
僕だったら思ってても言えない気がする。
「もう少し大きくなったらエンデの方々専属の大使になってもらったらいいかもしれませんね」
ニーマさんが小さな声であいづちを打った。
ヒソヒソ話だから誰にも聞こえていないだろうって思ってたのに。
「でしたら、森にエネル様の屋敷をご用意いたしましょう」
「森の食事もお口に合うようですし、不自由はなさらないでしょう」
「お一人では寂しいとおっしゃるなら主殿がご一緒でも構いませんぞ」
けっこう離れたところにいた人にまで聞こえていてびっくりだった。
「えっと……今はまだすごく小さいから、たまに遊びに来させてもらえるくらいがいいかなって思うんですけど」
だからお屋敷はいらないよっていう意味のつもりだったんだけど。
「でしたら、別荘という形にいたしましょう」
「おお、そうだ。前の嵐の夜に倒れた木があるのですが、とても香りのよいものでしてな。それでお造りいたしましょう」
みんなそれぞれ、「森のどのあたりに」とか「広さはこれくらいで」なんて話をはじめてしまった。
はっきり「いらない」って言わないとダメそうだなって思ったとき、ル・ルーク殿下と目が合った。
まんまるでキラキラで、エネルが遊びに来ることが本当に本当にうれしそうだったから。
「あの……えっと、じゃあ、エネルにちょうどいいくらいの、小さな家なら」
結局、ちゃんと断わることができなかった。
みんなにお別れを言ってお城に戻ったあと、ばあやさんにトガモなんとかの報告をした。
ニーマさんの一族の人たちは「蜂蜜のお返しにいただいた種を今日中に蒔きたいので」とはずんだ足取りで帰っていった。
「なんだかすごーく珍しくてびっくりするほど綺麗な花が咲くらしいですよ」
うまくジアードの土に馴染んだら、ソラのお墓の隣にも一株植えてくれるらしい。
「うちの母、性格はきついですけど、花を育てるのはとても上手なので期待していてくださいね」
「うん! 楽しみ!」
ニーマさんの一族はたまによそからお婿さんをもらったりするけど、生まれてくるのが女の子ばかりなので、圧倒的に女の人の権力が強いらしい。
「それで、代々一族の中で一番強い者が森を取り仕切るんですけど」
今はニーマさんのお母さんなのだ。
しかも全員一致で決まったらしい。
「じゃあ、すごいんだね」
きれいで優しそうなお母さんだなって思ってたけど。
ニーマさんだって今日はいつもと違って戦士みたいだったし、世の中には見た目だけではわからないことがたくさんあるってことなんだろう。
そのあとの「お疲れさまでしたのお茶会」はアルも一緒だった。
「ニーマさん、かっこよかったよ」
「だろ?」
本当はすごく強いんだってアルがいつもの自信満々の顔で言う。
ほっぺもピンクで、お菓子もバリバリ食べて、もうすっかりいつものアルだ。
「苔、たくさんいただいちゃいましたね」
えらい、えらい、ってニーマさんに頭をなでてもらってエネルもごきげんだった。
グランさんたちから承諾がもらえたので、お土産にもらった苔は日光に当てて増やしてから大きな病院に配ることになった。
「今まで治療が難しいとされてきたいろんな病気に効果がありそうだって、お医者さまもおっしゃっていましたし。私も鼻が高いです」
さすがレン様ですねってニーマさんが言うんだけど。
「僕、何にもしてないよ」
アルが倒れたあとから今日まで、自分にしてはすごくがんばったって思うけど。
エンデのことを知ったのも偶然だし、話を聞いてもらえたのも苔をもらえたのも全部エネルのおかげだし。
「僕、泣いてばっかりだったし」
「そんなことありませんよ。それに、エネルを拾われたのだってレン様じゃないですか」
「拾ったんじゃなくて、たまたま僕の頭の上に落っこちてきただけなんだ」
ものすごい運がいいってことかもしれないけど、僕が何もしてないってことに変わりない。
……って思ったんだけど。
「あら、レン様。ご存知ないんですか?」
「なにを?」
「たまごは落ちる場所を自分で選べるんですよ」
「たまごなのに?」
「ええ、もちろん。そうじゃないと落ちたらもれなく割れてしまいますでしょう?」
「……うん」
そういうものだと思ってた。
っていうか、僕の生まれた世界ではたまごは落ちる場所なんて選べない。
「エネルはレン様の頭の上がよかったんですよ」
残念ながら物置の中からでは指先さえ届かなかったけど、それでも助けようとして手を差しのべてくれた相手がいいに決まってるってニーマさんが大真面目にうなずく。
「レンの髪はお日様色だしな」
落っこちたくなる気持ちがわかるってアルが自信満々に言うと、エネルも元気よく「きゅ!」って鳴いた。
「そう? ありがとう、エネル。僕も大好きだよ」
手のひらに乗せてふわふわの頭をなでる。
たまごから出たばかりの頃に比べたらやっぱりちょっと大きくなったみたいだ。
元気に育ってくれてよかったな、って思っていたら。
「けど、おまえは俺の次だからな」
アルがとつぜん小さな鼻先に指を突きつけた。
「アルデュラ様、エネルにそんなことを言ってもしかたないんじゃありませんか?」
まだ赤ちゃんなのに……って、あきれるニーマさんを見ながらもアルは思いっきり首を振る。
「大事なことは今からちゃんとしておかないとな」
だから自分が一番だって言うアルは、すごく小さな子みたいな顔だった。
「そんなの決める必要ないよ」
だいたい何についての順位なのかよくわからない。
「ダメだ。俺が一番だぞ」
僕だってちっとも理解できないんだから、エネルなんてもっとわからなかったと思う。
それでも、アルがあんまり何度も言うものだから、びっくりした顔のまま小さくうなずいた。
アルは「よし」って満足そうだったけど。
手のひらから僕を見上げるエネルのクリンとした目はすごく困っていて。
だから、僕もいつもよりちょっと強い口調になってしまったんだと思う。
「そんなことばっかり言ってると、僕、アルのことキライになっちゃうよ」
怒ったつもりはなかったんだけど。
その夜、アルは夕飯をちょっと残し、ニーマさんとばあやさんが明日の天気を心配していた。
〜 fin〜
|