明日は晴れる
-2-




張り紙の成果があって、いつもなら三年生が群がる研究室も今日はひっそりと静まり返っていた。
近寄るといきなりドアが開いた。
自動ドアより絶妙なタイミングで。
「遅いよ、水原」
すぐに中に引き込まれた。
「ごめんなさい。図書館で宿題してたら遅くなっちゃったんだ」
せっかく鍵まで渡されてたんだから、こっそり開けて入ってみたかったな。
「終わったのか?」
「うん。宇野先輩が教えてくれた」
「宇野が?」
「先輩、すっごく丁寧に教えてくれて助かったよ。俺、古文苦手だし」
「そうか。よかったな」
良かったなと言いながら、先生は笑っていなかった。
「宇野先輩って、頭良さそうだモンね」
「そうだな。学年でもトップクラスなんじゃないか?……なんで初級の化学なんか取ってるのか……」
先生が不思議そうな顔をしたから、俺は得意げに教えてやった。
「好きな人が先生の化学申し込んだからだって」
それにはさすがに先生も驚いた。
「同じクラス??」
「あ? どうだろ。一緒のクラスかどうかわかんないなぁ」
もっと詳しく聞いておけばよかった。そしたら、先生に話してあげられたのに。
「けど、勉強しながら、なんでそんな話になったんだ?」
なんだっけ……あ、そうだ。
「先に先輩が聞いたんだよ。なんで先生の授業取ったのかって。だから俺も聞き返した」
でも、突然聞かれたんだよな。
まあ、俺と先輩の共通の話題なんてそれだけだから当然だけど。
「水原は理系が好きなんだもんな」
「うん」
理系はね。
文系は全滅だけど。
「申し込む時、俺のクラスだって知ってた?」
「知らなかったよ。だって、俺、ずっとセンセのこと保健の先生だと思ってたから」
先生は一瞬丸い目をした後で吹き出した。
「ああ、入学式の日な」
先生も覚えていてくれたんだ。
そのことが嬉しくて、俺は顔の緩みを止められなかった。
「けど、そんなに笑うほどおかしいかなぁ…。白衣着て保健室に座ってる方が悪いじゃん。みんなそう思うよ、きっと」
「保健の先生はあんな汚い白衣は着てないだろ?」
そうだけど。
先生の白衣は薬品の染みがたくさんついている。
「そういえばあの日の水原、」
「なに?」
また笑い出すから理由を聞いた。
「自分より大きいんじゃないかって生徒を担いできて、半開きのドアを足で開けてさ」
「しかたないじゃん。手が塞がってたんだもん」
「隣りに本物の保健の先生がいるのに、俺に向かって話すし」
だって、本物の保健の先生は白衣を着てなかったんだ。
「白衣の方が保健の先生だと思ったんだもん」
先生がぽんぽんと俺の頭を叩いた。
「あ〜、もう。バカにするし〜」
「バカにしてるわけじゃないんだけどな」
でも笑い転げてた。
「あ、そうだ」
先生にも聞いてみよう。覚えてるかどうか。
「あの時、宇野先輩も保健室にいたんだって。センセ、覚えてる?」
「ああ、いたかもな。確か宇野と林が手伝いにきて……それも宇野が?」
「そうだよ」
さすが先生はちゃんと覚えてるのか。
俺のことだけ覚えててくれたら感激だったのに。
ちょっと残念。
「なんでそんな話になったんだ?」
先生はいちいち「なんで」って聞くけど。
話なんてなんとなく始まってなんとなく別の話になったりするもんだろ?
俺、もう忘れちゃったよ。
「わかんないけど。『あの日、僕も保健室にいたんだ』って言われて」
先生は何か思いついたみたいに一人で頷いていた。
「センセ、どうしたの?」
「宇野の好きなヤツがわかった」
「え〜!?……なんで??」
理由は言わなかったけど、誰なのかはあっさり教えてくれた。
「多分、水原だな」
「え??」
俺は目が点だった。
先生がなんでそう思ったんだか、全然わかんなくて。
「そのうち好きだって言われるぞ、きっと」
「こ、困るよ、そんなの」
そんなことないとは思ったけど。
でも、言われてみるとなんかジッと見つめられてたような気もして。
「だったら、あんまり近寄るなよ。勉強教えてくれるって言ってもそんなの口実なんだから」
「う、うん。わかった」
でも、選択授業で同じ班なんだけど。
先生もそれに気付いたみたいで。
「席替えするか」
ボソッと呟いてた。
「あの、」
それでキスの続きは……と言いかけた時、どやどやと人の通る気配がした。俺は慌てて口を閉ざした。
「ちぇ、閉室だって〜。宿題のヒントもらおうと思ったのになぁ」
「明日聞こうよ。まだ間に合うし」
「だな」
足音が遠ざかるのを確認してから、二人で足を忍ばせて奥にある資料室に移動した。
パタンとドアが締められると、研究室とは違ってほとんどの音は遮断される。
俺はちょっとだけホッとしていた。
音を立てちゃいけないと思うとなんだか緊張するから。
資料室は今日もきれいに片付いていた。
また作業台に座ればいいのかな……と思っていたら、不意に後ろから抱き締められた。
「うわっ……?」
咄嗟のことで声が裏返ってしまった。
笑われるかと思ったのに。
「なんで緊張してるんだ? 電車に乗ってる時と同じだろ?」
後ろから抱き締めたまま耳元で囁く声は相変わらず楽しそうで。
「あ……う、ん」
電車なら、もっとギュッと押しつけられて苦しいくらいだけど。
確かに、そうなんだけど。
やっぱり、違うような……
ドキドキがだんだん大きくなって、外に聞こえてきそうだった。
俺、意識しすぎ?
腹に右手。胸に左手。そっと回された先生の手は、相変わらずキレイだった。
見惚れていると耳に柔らかいものが当たった。
「うわっっ」
「なに?」
先生はいつもと同じ声。
けど、今のって、先生の唇じゃ……?
「……な、なんでも……」
バクバクする心臓を宥めるように深呼吸をする。
俺、きっと真っ赤だ。
しばらくこのまま後ろ向きでいたいなと思っていると先生が話しかけてきた。
「水原は……クラスに好きな人、いないのか?」
それも、耳元で。
そんな近くで話しちゃダメだって。
くすぐったい。
それだけじゃなくて、なんか……
「好きな人なんて、いない……よ、たぶん」
そう答えておきながら、頭の中はセンセの顔で一杯だった。
でも、先生が好きとは言えなかった。
特別な気持ちがない相手から好きだって言われるとすごく困る。
先生だって、きっと同じだ。
「宇野に付き合って欲しいって言われたら、どうする?」
耳にビリビリとした感覚が走って、体に力が入らなかった。
「どうって……困るよ、そんなの」
先生が好きなのに、他の人と付き合うわけないじゃん。
「なら、ちゃんと断われよ?」
軽く抱き締められているだけなのに、ドクンと心臓が鳴って。
「……うん。でも、大丈夫だよ。きっと、俺じゃないもん」
もうダメだと思った時、先生の腕が緩んだ。
そのまま腕の中でクルリと向きを変えられた。
「センセ……」
少しだけ微笑んで、そっと俺の唇に指を当てた。
指が離れるのと入れ替えに唇が触れた。
柔らかく、そっと。
でも、ずっと。
離れそうになるとまたすぐ違う角度でキスされて、ドキドキが酷くなった。
苦しくて、無意識のうちに先生から離れようとしたら、今度はキツく抱き締められた。
頭を抑えられて、強く唇を吸われて。
「ん……っっ、」
苦しくて先生にしがみついたら、少しだけ唇を離してくれた。
「水原、ちゃんと呼吸して。これから先が長いんだから」
……これから、先??
「まだ、続きがあるの??」
びっくりしながら見上げたら、先生はあははって笑ってから、ギュッと俺を抱き締めた。
今度は苦しくなかった。痛くもなかった。
でも、先生の小さな溜め息が聞こえた。
ちょっと呆れた感じで。
「ずっと先まで続きがあるよ。どうする、水原?」
どうする……って言われても。
「キスの、続き、だよね??」
「そうだよ」
これ以上のキスってどんなのだろう。
「それとも水原はキスより先も知りたい?」
その先?
その先って、もしかして……
―――せ、せっくす??
パニックを起こす俺の頭をいつもみたいにポンポン叩いて、先生は笑い転げていた。
「そんなに赤くならなくてもなぁ」
言われて顔に手を当てたら、熱かった。ほっぺも耳も。とにかく全部。
先生は俺を解放して机の上に置かれていた鍵を取った。
「じゃあ、これでおしまい。帰るよ、水原」
ちょっと呆然としている俺の肩にカバンをかけた。
背中を押されて資料室を出て、そのまま研究室を押し出された。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
先生に手を振られて。
仕方なく家に帰った。


帰ってからずっと考えていた。
この前の時よりもずっと苦しくて、息ができなかった今日のキス。
その先はもっと苦しいかもしれないって……
でも。
「キスはキスだよな」
なにビビッてるんだろ、俺。
明日、もう一回、先生に言わないと。
子供扱いしないで全部教えてよって。
「そうだ」
そうしよう。
眠っているような、眠り切れていないような。
浅い夢の中で俺は何度もキスの練習をしていた。



「おはよう、水原」
翌朝、また電車にぎゅうっと押し込まれながら先生と向かい合ってた。
俺も自分で思っていたより夕べは良く眠れたみたいだった。
吹っ切れたせいなのか、前の日が寝不足だったせいなのかは分からないけど。
だから、さらりと言えた。
「先生、やっぱり続き教えて」
いいよ、って軽く返事をするかなと思ってたのに。
予想していたのと違って、先生はなんだか困った顔をしていた。
いつもみたいに俺の腰に回された手が身体を引き寄せる。
「どうしようかなぁ。水原、ちゃんと息できないし」
「するよ。ちゃんとするから」
俺の呼吸の心配なんてしてくれなくてもいいのに。
「学校だと落ち着かないしな」
「じゃあ、他のところで。ならいいよね?」
「んー……」
ダメなんだろうか。
こんなことになるなら、昨日聞かれた時に「うん」って言っておけば良かった。
どっぷり落ち込んで先生の胸に頭をつけた。
「また寝るのか?」
「違うよ。がっかりしただけ」
電車はますます混んできて、俺は壁と先生に挟まれたまま動けなくなっていた。
先生が前にいるおかげで他の人には触れなくて済むけど。
先生はイヤじゃないのかな。
いろんな人に押されて。
「水原、」
顔を上げたら、先生が少し前かがみになった。
そのままおでこに唇が触れた。
すぐに離れてしまったけれど。
「センセ、電車の中でっ……」
俺は慌ててるのに、先生はにこっと笑っていた。
「誰かに見られたらどうするんだよ?」
「大丈夫、見えないよ。水原、ちっちゃいから」
……ひどいな。先生が大きいだけなのに。
「だからさ、」
今度は鼻の頭。それから、ほっぺ。
「水原、顔上げて」
言われるままに顔を上げた。
ほんの一瞬、唇に触れた。柔らかい感触。
でもすぐに離れた。
顔が火照ってどうしようもなくて、先生の胸に顔を埋めた。
揺れるたびに鼻先が先生のシャツに強く押し当てられたり離れたりして。
俺の中のずっと奥の方で、気持ちが「もう駄目だ」って叫んでた。
もっと深く欲しくなりそうで、ギュッと先生のシャツを掴んだ。
先生は俺の手の上に自分の手を重ねてそっと指でなぞった。
身体の芯がむず痒くて、なんとなく背中を捩る。
先生は少し目を伏せて、俺の顔を見てた。
「そうだな。じゃあ、水原が部活サボれる日に待ち合わせしようか」
……先生と、待ち合わせ?
「それって、」
もしかして、デート?
言いかけた時、降りる駅に着いてしまった。だから、その話はそこで切られた。
俺、まだナンにも答えてないのに。
「センセ、あのさ、」
人波に流されながら電車を下りて、慌てて先生を呼び止めようとした。
「水原、こっち」
先生はわざと学校と反対側の改札に俺を引っ張っていった。
改札を出ると見慣れない朝の風景。
駅のこっち側はあんまり人がいないんだな。
「水原、朝練だよな?」
「……うん。って言っても、自主トレだけど」
「じゃあ、今日だけサボれ」
「え?」
よくわからないままに、さっさと歩き出す先生の後ろをついていった。


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