明日は晴れる
-3-




いきなり、喫茶店の前。
「なんか飲んでいこう」
「制服で寄り道はダメなんだろ?」
しかも、まだ朝7時。店にはモーニングセットとかを食べてるサラリーマンしかいない。
「生徒だけの場合はな」
こんな時間、駅のこっち側にうちの生徒がいるとは思えないけど。
「見つかったらヤバくない?」
「どうして?」
「だって、先生人気者だからみんなに誘われるよ?」
俺が一生懸命心配してるのに。
先生はぜんぜん平気そうだった。
「そしたらみんなで来ればいいよ」
あっさりと返事をして、アイスコーヒーを頼んだ。
「……そうだけど」
先生は俺一人のものじゃないんだもんな。
当たり前のことなのに、なんとなくショックだった。
口を尖らせていたら、先生にほっぺを抓られた。
ギュッと胸が痛くなる。
俺、子供に見えるんだろうなって思って。
先生とは釣り合わないんだろうなって思って。
そんなことを考えていたら、先生がカバンからレポート用紙を取り出して、地図を書き始めた。
駅と商店街。
「ここ、俺が乗ってくる駅な」
「うん」
キレイな文字と真っ直ぐな線。それから矢印がサラサラと書き込まれた。
「2階が喫茶店。ここで待ち合わせ。どう?」
「いいよ。今日でもいいの?」
急いだ理由は、簡単。
先生の気が変わらないうちに。
そう思ったから。
「俺はいいけど。水原、部活は?」
「そんなの、サボるよ」
なんだか楽しくなってきた。学校よりもずっといい。
先生を一人占めだ。
本当に二人きりだ。
「帰りは送ってくから心配しなくていいぞ」
「大丈夫だよ。二駅分くらい頑張れば歩いても帰れるから」
先生はアイスコーヒーを飲みながら、くっくっと笑った。
「水原、そんなことで頑張らなくてもいいぞ」
……そうだけど。
なんか先生の笑い方がさ。
俺って、やっぱりすっごい子供だと思われてないか?


喫茶店を出てからは別々に学校に向かった。
二人ともいつもと違う時間だから、怪しまれないように。
でも、俺の足取りは軽かった。
俺と先生の秘密。
思い出して何回もニヤけた。


こういうの、一日千秋って言うんだろ?
本当に長くてウキウキした一日だった。
「水原〜っ、今日ヒマぁ?」
帰り際に同じクラスの三井に呼び止められた。
「あ、俺、今日用事があって早く帰らないといけないんだ。部活もサボリ」
普通に答えたつもりだったのに、
「なんだ、デートか。そんなニヤけた顔して」
「そんなんじゃないよ。家の用事」
「うそばっか〜」
「うそじゃないって」
慌ててゴマかして教室を出た。
なんでこういう時だけ鋭いんだろう。
普段はボーッとしたヤツなのに。


ぐずぐずしてると部活の連中に見つかると思って、急いでクラブハウスに向かった。
朝練をサボったくせに、いつもの癖でクラブハウスのロッカーで靴を履き替えちゃったから。
朝もサボってるから、捕まったら逃げられなくなりそうだしな。
そう思ってクラブハウスへの渡り廊下を走っていたら、不意に後ろから呼び止められてギクッとした。
「どうしたの。そんなに急いで」
宇野先輩だった。
「なぁんだ。もう、脅かさないでよ〜……」
「なぁんだって、ひどいな」
先輩の『くすっ』っていう笑い方はいつ見ても大人っぽくて。
俺はちょっとぼんやりしてしまった。
「水原って、目、悪い?」
「え?? 悪くないよ。両方1、5」
なんでそんなことを聞くんだろう?
もしかして、先輩を睨んでたとか??
考えていたら、先輩がいつの間にか俺のまん前に立っていた。
背の高い先輩の顔を見ようと思ったら結構な急角度で首を曲げなきゃいけないくらい近くに立っていて、「え??」と口に出して言ってしまいそうだった。
「水原、なんか大きくて綺麗な目だなって思ったから」
そんなことを言われたら、頭の中が白くなった。
メガネの奥の先輩の目は、さっきからずっと俺を見てた。
「ふ、普通だと思うけど……」
何故か、心臓がバクバクしてた。
それでやっと思い出したんだ。
先輩が俺を好きかもしれないから、近寄っちゃダメだって先生に言われたこと。
でも、何も言わずに逃げたら変だし。
難しいよな。
「水原に話があるんだけど」
「え、あ、でも、あの。俺、今日、これから家の用事で。急いで帰らなきゃ。もう、時間ないから」
目を白黒させながら、後ずさりした。
「そう。じゃあ、また今度。改めて」
先輩はごく普通に返事をして、穏やかに笑って手を振った。
俺もぶんぶんと手を振り返して、逃げるように走っていった。

話って??
今度、改めてって??

どうしよう……
パニックのあまり、一人で顔を顰めたり、引きつったりしながら、駅まで走った。
そうだ。
あとで先生に相談してみよう。
そう思ったら、急に気が楽になった。
そうだよ。俺には先生がいるじゃん……って。


その駅で初めて降りるわけじゃないのに、ホームに立った時、すごく緊張していた。
万一、誰かに見つかったら「家の用事で買い物して、それから2駅歩いて帰った」って言えばいいよなって、言い訳まで考えて。
バスターミナルがある方の賑やかな通りは何度も歩いたことがあったけど、先生の地図に書いてあった駅の反対側は来たことがなかった。
「あった。ここだ」
ビルの小脇に細い階段。
外に出ている小さな黒板にチョークで今日のお勧めケーキが書かれている。
ピーチタルト。マスカットムース。パイナップルとオレンジのゼリー。
おいしそうだけど、そんなにお金も持ってないし。
しかも先生との約束まではまだかなりある。
……どこかで時間を潰した方がいいのかな。
アイスティーだけで長居しても大丈夫なんだろうか。
しばらく迷ったけれど、ブルーのマットに誘われるように2階へ続く階段を上ってドアを開けた。
カランコロンという音とともに視界に飛び込んできたのは茶色のテーブルにブルーのクロスが掛けられた品のいい店内。椅子も棚もカーテンも全部こげ茶とブルーで落ち着いた雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
お客さんのほとんどがスーツ姿のサラリーマン。
漫画や雑誌なんか目立たないように置いてあって、先生が遅くなっても退屈しなさそうだった。
……よかった。
「何になさいますか?」
優しそうなおばさんが聞きにきた。
「アイスティーください」
おばさんは笑顔で奥に入っていった後、トレーにいろんな種類のケーキを乗せて戻ってきた。
「どうぞ。好きなの選んでいいわよ」
「あ、でも」
常連さん風のサラリーマンがコーヒーを飲みながら口を挟んだ。
「遠慮しなくていいよ。ママは可愛い男の子に弱いんだ」
おばさんもニコッと笑った。
「甘いもの、嫌いかしら?」
それには思いっきり首を振った。だから、また笑われた。
俺って、多分、こういうところが子供っぽいんだ。
気をつけないと。
「いただきます」
そう言った後もなかなか決められなくて、トレイをみつめたまま固まっていると、
「食べられるなら幾つ取ってもいいわよ」
と言われてしまった。
そんなつもりじゃなかったので、ペコリと頭を下げてピーチタルトを手に取った。
「さっきお兄さんから電話があったのよ」
「俺に?」
兄なんていないのに。だいたい、ここにいることは先生しか……
……あ、先生の事か。
「ちょっと遅くなりそうだからって。あと1時間くらいって言ってたかしらね。研究室の片付けが終わらないんですって。研究室にお勤めなの?」
「学校の先生なんです」
「そう。すごく優しそうな方ね」
おばさんの言葉に俺は満面の笑みで頷いた。
先生は、良く通る落ち着いた声。
水原って俺を呼ぶ時も……
耳元で囁かれた時のことを思い出しそうになって、つい赤くなってしまった。
おばさんに見られてなくてよかったと思った。



ゆっくりタルトを食べて、アイスティーのおかわりをもらっていたら先生が来た。
「悪い、水原、遅くなった」
息を切らして階段を上がってきた先生を見て、おばさんが水を差し出した。
「あ、すみません」
くいっとグラスを空けて、アイスコーヒーを頼んだ。
「お兄さんじゃなくて、本当に学校の先生だったのね」
おばさんがこっそり俺に言った。
俺はちょこっと頷いただけ。
だって、先生と二人で喫茶店で待ち合わせる理由なんて思い浮かばなかったから。
でも、おばさんはそれ以上何も聞かなかった。
「水原、忘れないうちに研究室の鍵、返してくれよ」
アイスコーヒーにストローを差しながら先生が手を出した。
「あ、うん」
ペンケースから鍵を取り出して先生の手のひらに乗せた。
「悪いな、いつも片付け手伝わせて」
「いいよ、俺、化学好きだから」
っていうか、先生が好きだから。
「水原、化学は成績いいもんな」
「化学は、って言わなくてもいいのに。センセ、俺の他の科目の成績知ってるの?」
「知ってるよ。この間、英語の追試受けてたことも」
「なんでぇ??」
「俺の席、井田先生の隣りだから」
井田先生は俺の英語の先生。学校一キビシイことで有名だ。
もう、最悪。
「けど、あれは過去最低点だったんだから〜」
言い訳にはなってないような気もしたけど。
「そうだろうな。英語で一桁なんてなかなか取れないよなぁ」
「ちぇ……」
点数まで知ってるのか。
ぜんぜん勉強してなかったんだから、しょうがないじゃん。
だいたい、井田先生ってスペルが一個でも違ってたら作文全部をバツにするんだもんな。
普通は部分点とかくれるだろ?
あ〜あ。
これからキスするのに、こんないや〜なことを思い出させるなんて。
「先生、意地悪だなぁ」
「水原には頑張って欲しいからな」
先生が優しく笑うから。
「……そっか」
頑張ろうって思った。
同じコトを親に言われたら頭に来るのに、不思議だよな。

店を出る時、先生が「いつも手伝ってくれるお礼だから」と言って全部払ってくれた。
「あれ? 水原、ケーキ食べてなかったか?」
会計の金額を聞いて驚いている先生におばさんが説明した。
「男の子が一人で来るなんて滅多にないでしょ? なんだか可愛くておごっちゃったの」
にっこり笑って俺を見るから、俺も笑い返した。
「ごちそうさまでした〜」
こういう時の子供扱いは嬉しいのに。
「ちゃっかりしてるな、水原は」
「へへ」
先生にじゃれ付く俺をおばさんはニコニコしながら見送った。



喫茶店を出てから、真っ直ぐ先生のマンションに行った。
一歩近づくたびにドキドキが酷くなるような気がして、途中で何を話したかなんて全然覚えていなかった。
「ここ」
オートロックのグレーの建物。オシャレな感じで先生にピッタリだった。
二人きりでエレベーターに乗る。
先生の部屋に行くんだと思ってたから、すっごくドキドキしてたのに、連れていかれたのは屋上だった。
「もう少し後の時間だと夕陽が見えて綺麗なんだけどな」
5時半を過ぎていたけれど、まだ外は明るい。
「部屋に行かないの?」
聞いたら先生は驚いた顔をした。
「ああ、散らかってるからな」
職員室の先生の机は、他のどの先生よりキレイなのに。
ちょっと意外だった。
「見てみたいな。散らかった先生の部屋」
「水原、おまえなぁ……」
先生、苦笑い。
でも連れていってはくれなかった。
屋上で空が薄いピンク色に変わっていくのを見ながら、勉強のこととか部活のこととか、同じクラスの奴のことなんかを話した。
時間がどんどん過ぎていくから、ちょっと心配になってきた。
先生が忘れちゃったんじゃないかと思って。
「あのさ、」
「なんだ、水原?」
「しないの?」
先生が「え?」という顔をした。
やっぱり、忘れてるんだ。
「キスの続き、するんだよね?」
そしたら、先生は急にクスクス笑い出して、俺のおでこを人差し指で押した。
「どうしたんだ、水原。ここで練習しておいて誰かとするつもりか?」
「そんなんじゃないけどさ」
先生としたいだけなんて言っちゃダメだよな。
好きだってこと、バレバレだもんな。
ちょうどそんなことを考えていたから。
「水原の好きな相手、年上なんだもんな?」
ドキッとした。
「……うん」
先生なんだ…って、言おうか迷って。
でも、思い留まった。
そんなことして嫌われたら、もう、こんな風に会えなくなるし。
「じゃあ、もう一回最初からな?」
「うん」
学校にいる時と同じだ。先生って授業も前回の復習からだもんな。
その次は注意事項。
「ちゃんと息しろよ?」
……ほらね。


俺は屋上のフェンスに凭れたまま。
先生の手がそっと俺の腰に回される。
電車の中と同じ。
でも、やっぱり、何か違う。
怖いくらいにドキドキして、息はしてるのに苦しくなる。
「水原? まだキスしてないぞ。息してろよ」
「してるよ」
言われれば言われるほど呼吸ができなくなる。
「してるけど……苦しいよ」
苦しくて、先生の顔がまともに見られなくなった。
そんなに子供扱いしなくてもいいじゃんって思って。
「水原……?」
先生がギュッと俺を抱き締めた。
先生のブルーのシャツに染みが広がって、自分が泣いていることに気付いた。
「……俺、先生のこと、好きなんだ」
やっとそれだけ言った。
先生はしばらく黙り込んだ後、俺の髪を撫でながら答えた。
「……そうじゃないかって思ってたよ」

―――そっか……

だから、キスしたいなんてバカみたいなことを言う俺に付き合ってくれたんだ。
そんなこと全然考えなかった。
けど、「そう思ってた」なんて言われちゃったら、俺、どうすればいいんだろう。
涙はどんどん溢れて酷くなる。
「……水原、」
先生の声を聞くともっと苦しくて。
息を吸うのも吐くのも嫌になってきた。
「頼むから、そんなに泣くなよ」
俺だって泣きたくなんかないのに。
グチャグチャに泣いたままで先生から離れた。
「……俺、もう、帰る、から」
なのに先生は俺の手を離してくれなかった。
「泣き止んで顔洗ってからにしろよ。送ってくから」
「いいよ、ひとりで、帰れる」
それでも、先生が離してくれないから。
ギュッて力が篭ったから。
また涙が溢れて、ポタポタとコンクリートに落ちていった。
先生の指が何度拭っても、ぜんぜん止まらなかった。
まるっきり子供みたいで。
ものすごく悔しくて。
「水原、」
そっと名前を呼ばれて顔を上げると、先生がふっと笑った。
すごく、困った顔だった。
「部屋行って、顔洗おう。な?」
ほんの少しだけ頷くのがやっとだった。


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