別にいいけれど…
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空が白んできた。
それにしてもキレイな顔だと思いながら、うっかり見とれているとヤツが目を覚ました。
「ん……おはよ」
目を擦りながら俺の顔を見上げる。
いつもはミツルにしているだろう挨拶をこんな簡単に他の男とする。
これがあてつけだとすれば、ケンカの原因はあいつの浮気かもしれない。
……まあ、俺には関係ないけど。
「ね、椎原さん」
「なんだよ」
「ゴムとかないの?」
朝っぱらからなんの話だよ。
「んなもんねーよ」
「使わないんだ?」
「部屋でしないってこと」
友達なら泊めてやることもあるが、家に彼女を連れ込んだことはない。
そう言うと枕に乗っている頭が斜めに傾く。
「ふうん」
コイツの見上げ方はちょっとクセがある。
つまり、相手にそういう方向で誤解をさせるような、そんな感じで。
俺は彼氏じゃないってーのと思わずつぶやいてしまいそうになる。
「でもさ、シーツ洗うの大変でしょ?」
実際、昨日の行為のせいでソファベッドのカバーは部分的にバリバリになっていた。
洗い替えなんてないから、洗濯している間はカバーなしだ。
「じゃあ、今度ゴム持ってくるね?」
「……バカ。二度と来るな」
そんな言葉も腕枕をしながらでは説得力がない。
くすっと笑うその瞳を綺麗だと思うのは、 コイツに惚れてしまったせいなんだろうか?


結局、ヤツは最後まで名乗る事もなく帰っていった。
玄関まで見送った俺に「またね」と言って、どぎついキスをした。
弾んだ後姿を見ながら、今度そのへんで会っても絶対家には上げないぞと微弱な理性で固く誓った。

そう。
誓った……はずだった。



それからちょうど一週間後の金曜日。
仕事が終わって会社を出ると思いっきり雨が降っていた。
「かったるいなぁ。椎原、ちょっと飲んでいかないか?」
時刻は9時半。どうせどこかで夕飯を食べなければならないのだからと、軽く飲んで帰った。
マンションに着いたのは11時半で、雨はもうすっかり上がっていた。
一週間分の疲れとともにエレベーターを降りると、ヤツがドアの前に座りこんでいた。
「ったく、何してんだよ。またミツルとケンカでもしたのか?」
また怪しい雰囲気になる前に追い返そうとしたのだが、どうも様子がおかしい。
ずぶ濡れだし、靴からシャツまで泥だらけだ。しかも、膝を抱えたまま俯いた顔を上げようともしない。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
髪に手を当てるとようやくこちらを見上げた。
「ちょっと、そこで絡まれちゃって」
唇は切れ、赤黒く汚れている。顔にもうっすらと痣があった。
雨が止んだのだってもうずいぶん前だ。
こんな格好でずっと待っていたんだろうか。
あれこれ考えているうちに一週間前の決心などすっかり忘れてしまっていた。
「バカ、警察行けよ。なんで俺んちになんか……」
それでも精一杯突き放したつもりだったのに。
「なんか、会いたくてさ」
たったこれだけの言葉に『NO』と言えなくなった。
「……電話くらい、してから来いよ」
最後の抵抗のつもりでできる限り不本意な表情を作りながら、冷えた身体を抱き支えて部屋に入った。
ぐったりしたままのヤツの服を脱がせると、身体にはさらに大きな痣と擦り傷がいくつもあった。
「シャワー浴びんの、無理っぽいな」
仕方なく湯で絞ったタオルで身体を拭き、ベッドに座らせた。
顔色も悪いうえにやけにぐったりしていて、心配するなというほうが無理な状態だった。俺はかなり深刻に受け止めていたが、ヤツはいつもと変わりなく笑って見せた。
「ね、椎原さん。明日、一緒にフロ入ろうよ」
どんなに明るく振舞っても、声は掠れ、唇の傷には血が滲んでいた。
「つまらないこと言ってないでさっさと寝ろ」
無理矢理パジャマを着せて体温を計ると、思った通りひどい熱だった。
「ちょっと出かけてくる。大人しく寝てろよ」
玄関を出ると知り合いの医者に電話をかけた。
仕事上のつきあいでちょっとした貸しがあり、それを持ち出して頼めば多少の無理はきいてくれるはずだった。
案の定、「迎えにきてくれるなら」という条件でOKの返事があり、車を走らせてジジイを連れてきた時には、もうとっくに日付は変わっていた。
「こりゃあ、酷いね」
痣を見たあとの第一声がそれだったが、そのわりには暢気な様子で傷の手当てを始めた。
「レイプじゃないのかね?」
「……じゃねーよ。されそうになったことは否定しないけど」
それだけ答えると少し苦しそうに目を閉じる。声は相変わらずかすれたままだ。時間の経過とともに痣もいっそう濃く浮き上がり、痛々しさを倍増させていた。
「ということは意外とケンカは強いのかな。こんな細い腕でねえ」
普段はどんなによれよれしていてもやはり医者だ。手際よく顔と体の処置を済ませると解熱剤を飲ませた。
「ありがとうございました」
心の底から感謝しながら礼を言うと、俺の顔を見ながらニヤリと笑った。
「椎原君の恋人かね?」
そういう方向に邪推されるのは非常に迷惑だ。
だが、まるっきり外れてもいないので返事に困る。
「ただの知り合いですよ。近くでバイトしてるから、たまに俺んちに来るんです」
明らかに言い訳だった。
たまにったって、まだ二度目だし。しかも一度目でヤッてるし。
けど、少なくともコイツが『恋人』なんかでないことだけは確かなわけで、嘘はついてないよなと一人で頷いてみる。
「いやねえ、こんな夜中に私を呼び出すくらいだから、さぞや大事な相手なんだろうと思ったんだけどね」
ジジイの目はまだ意味ありげな笑いを含んでいた。
俺の言ったことを信用しやがれという抗議の視線を飛ばしてみたが、それを思いっきり無視したあと、ジジイはヤツの右手にせっせと包帯を巻きはじめた。
「一体、何人相手にしたんだね? 内出血してるよ」
「あー……覚えてねー」
ちょっとうつろな返事。
ジジイが言ったとおり、少し腫れた手は青っぽく変色している。
本当に大丈夫なのか?
それより。
「相手はどうしたんだ?」
バイト先から来たのか、駅からなのかは知らないが、どちらにしてもわりと賑やかな場所しか通らないはず。大事になってなければいいが、と思った矢先。
「警察、連れてかれた」
「はあ? おまえは?」
「……逃げてきた」
「なんでだぁ??」
絡まれたというからには、少なくとも被害者なんだろう?
それともおまえがケンカ売ったのか?
「……めんどーだったから」
「そういう問題じゃ、」
ないだろうと言いかけたんだが。
「明日にしてよ。なんか、ダルい」
何の遠慮もなくプイッと横を向きやがった。
「おまえな、こんな遅くに人んち来て、手当てまでさせてそういう態度取るのかよ?」
おもむろに携帯を掴むと俺はミツルの番号を探しはじめる。
だが、その瞬間ヤツが素早く反応した。
「どこ電話するの?」
「ミツルに決まってるだろ。迎えにこさせる」
「待……っ……」
いきなり起き上がろうとして痛みが走ったのか、顔を歪めながらまたベッドに沈んだ。
すぐ隣りにいた医者が「無理はいかんよ」と言いながら布団を掛けなおしたが、ヤツは何も答えず、ただ不安そうな顔でじっと俺を見ているだけだった。
明らかに電話はやめて欲しいと訴えてる目だったが、俺はお構いなしに作業を続けた。
だが、携帯はすぐにシワクチャの手に取り上げられた。
「ケチケチせんと一晩くらい泊めてあげなさい」
もちろんジジイだ。
「けど、コイツの同居人が心配しますから」
『家族』ではなく『同居人』というあたりにコイツの怪しさが溢れているが、まあ、それは仕方ない。
さりげなく携帯を取り返そうと試みたが、ジジイはさっさとそれをベッドに横になっている男に渡してしまった。
しかも、そのあとはやけにしおらしい懇願が。
「……ここ、泊めてよ。ミツルにはトモダチのとこ泊るって言ってきた」
誰が『トモダチ』だって?
「嘘つきヤロウ」
まあまあ、と笑いながらジジイが俺たちの会話を遮った。
「熱が引くまでは安静にな。じゃ、椎原君、家まで送って」
正直、『若いっていいねえ』的なジジイのニヤニヤ笑いは滅茶苦茶気に入らなかったが、ヤツがあまりにも熱っぽく苦しそうな顔をしていたので今夜のところは泊めてやることにした。


その日、俺はソファで寝た。
もちろんヤツに手を出したりはしなかった。
ただ、夜中にときどき様子を見にいった。
薬が効いたのか思ったよりぐっすりと眠っていて、それを確認するたび俺は心の底から安堵した。
ただ、汗だけはかなりひどくて、途中で一度着替えさせなければならなかったが。
こりゃあ、洗濯が大変だなと思いながら、パジャマの代わりに俺のTシャツを着せると、ヤツがぼんやりと目を開けた。
まだ痛むのかを聞こうとしたら、「ごめん」と苦しそうに謝られてしまった。
言い方もなんだかいつもと違って素直だし、焦点も合ってないから、もしかしてミツルと間違えてるんじゃないかと思ったが、その疑念はすぐに消えた。
「……椎原さん、って……名前、なんていうの?」
当たり前と言えば当たり前だが、ちゃんと俺だって分かっているってことが、なんだかやけに嬉しかった。
「友彦。椎原友彦」
ふうん、という中途半端な返事の後、いきなりパッチリと目を開けて俺を見た。
「のど渇いたなー。ビールとかないの?」
まったく、ちょっと調子がよくなるとつけあがりやがって。
「あるけど、おまえには飲ませない」
思いっきり冷たく言い放ったが、それでもちゃんと水を持ってきてやった。
「ほら、飲めよ」
滴が伝う大き目のグラスを差し出すと、少し困ったように笑った。
「椎原さん、俺の名前、聞かないね」
コクコクと水を飲み干して、グラスを返す。
「おまえが名乗らないだけだろ」
中身が空なのを確認してから受け取ると、突然ヤツに手を握られ、そのままベッドに引き寄せられた。
バランスを崩したが、グラスを手放すわけにもいかず、そのままの格好で倒れこむ。まさにヤツの思うツボだった。
ミネラルウォーターに冷やされた唇が俺の舌を吸った。
間近で長いまつげが揺れて、キスの合間に吐息が漏れる。
俺は無意識のうちにグラスを床に置いていた。
そして、自由になった手でヤツの頬に触れた。
まだ熱っぽい首筋は細く滑らかで、うっかり気を抜くと理性が飛びそうだった。
「……んっ……椎原さ……」
半ば喘ぎのようなヤツの呼びかけを遮って長い長いキスをしたが、その後ではたと我に返った。
「おまえ、俺に風邪をうつそうとしてないか?」
俺が言いたいのはそういうことではないんだが、こんな時でさえ素直に言葉にできない。
「うつったら俺が看病するよ」
「二度と来るなっつってるだろ」
冷たい言葉を返したくせに、心臓はムダに大きな音で鼓動を刻む。
なんだか眩しそうな目で微笑みかけるコイツが悪いのだ、などとわけの分からない責任転嫁をしながら、俺は理性のすべてを使い切る勢いでベッドから離れた。
ドキドキどころか、下半身はドクドクしてはちきれそうだったけど。
とりあえずキッチンでグラスを片付けて深呼吸。
なんだかやけに疲れた。汗までかいていた。
こんなことしていると本当にカゼを引くと思い、速攻でソファに戻って寝直した。
……『二度と来るな』なんて、言わなきゃよかった。
複雑な夢の中で、俺は多分そんなことを思っていた。



翌朝、目覚めた時にはもうヤツはいなかった。
『お世話になりました』という短いメモがあり、淋しい気持ちになった。
けど、そのあとで裏側の一番下に極小文字で書かれた『一万円借りました』という追記を発見し、なんだか笑いがこみ上げた。


結局、カゼはうつらなかった。
俺はあの後ずっと心のどこかでそれを残念に思っていたかもしれない。



それからしばらくヤツは現れなかった。
と思っていたら、きっかり二週間後にやってきた。
「金を返しにきました」と可愛い事を言って俺の部屋に上がりこみ、散々飲み食いした挙句、泊っていった。
「じゃあ、またね〜」
翌朝、まだ半眠り状態の俺に当たり前のようにチュッとキスをして帰っていった。



それからは何度もやってきた。
何回かは頼みごとで、あとは暇つぶし。
電話番号だってちゃんと知っているくせに、一度だって事前に俺の予定など確かめたことはなく、いつも唐突に押しかけてくる。
ヤツが来る日に限って予定が何も入っていなかったから、俺も大概ヒマな奴と思われているようだった。


そして。
今日もヤツは不意に現れた。
そんでもっていきなり言った言葉がこれだった。
「椎原さんってカノジョいないの?」
今更なんだっていうんだ。まったく。
そういうことは最初に確認しろ、と心の底から思う。
「大きなお世話だ。追い出すぞ」
俺はソファに座ってテレビのリモコンに手を伸ばした。
「ふうん」
とか言いながら、ヤツがリモコンを取り上げる。
その時、なぜか口元がちょこっとほころんだのを俺は見逃さなかった。
「なんだ、『ふうん』っていうのは?」
俺の声は明かに不機嫌だったが、ヤツはまったく気にしていない様子で、ニコッと笑うとささっと俺の目の前に座った。
「じゃあ、『よかった』!」
カーペットに座って俺を見上げる。笑っているけど、ふざけているのとはちょっと違うようにも見えた。
「……なんだ、その『よかった』ってのは?」
一層分からないぞと言ったら、またクスッと笑った。
「それじゃあ――」
別の言葉を探した後、ヤツは一呼吸置いて真顔になった。
そして。
「俺と付き合って?」
一転してやけに無邪気な顔になると、今度はそんな問いを投げた。
「ふ、二股かける気か?」
こちらを見ている目が一瞬疑問の色を含んだ。
だが、すぐに「ああ、そうか」と口の中でつぶやいて頷いた。
「ミツルのことなら、ずっと前に別れたよ」
「はあ? いつだよ?」
「椎原さんにライター届けた次の日」
あまりの衝撃に視界がチカチカしている気がした。
「あ……あのな、おまえの言ってることが、わかんないんだけど」
俺のうろたえ方といったら尋常じゃなかっただろう。
でも、ヤツは笑わなかった。
「あの日、椎原さんを好きになったから別れた」
その言葉で俺は完璧な思考回路停止状態に陥ってしまった。
なのに、ヤツの話はまだ続いていた。
「俺と、付き合ってください」
じっとこちらを見ている瞳はいつになく真剣だ。
冗談でないことを確認してもなお返す言葉は浮かばなかった。
「あのな……」
「俺が嫌い?」
「じゃなくてな……」
「身体だけしか興味ない?」
「じゃないって」
「じゃあ、なんでNOなわけ?」
なんて答えればいいのか迷っている間に口だけが勝手に動いていた。
「……誰が『NO』って言ったよ?」
目の前の整った顔がパッと明るくなり、次の瞬間、俺はヤツの身体の下敷きになった。
押し倒されるのも、もう慣れた。
そのくらいじゃ驚かない。
けど。
「……おまえ、あとで名前教えろよ」


夜更けまで抱き合った後、やっと名前を教えてもらった。
知り合ってから4ヶ月とちょっと。
すぐ目の前でかすかに微笑むコイツを見ながら、本当は一目惚れだったんだとやっと気付いた。


                                          end


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