翌日、俺たちは一緒に出社した。
本当は、何と言われようと俺は一人で会社に行くつもりだった。
けど、とても満員電車で足を踏ん張って立てる状態ではなかったから仕方ないと諦めた。
隣で樋渡が俺を支えながらニコニコしているのはメチャクチャ気に入らなかったけど。
「おはよ、森宮。風邪、もういいのか?」
席につくと進藤が横長のフロアの隅から走ってやってきた。
「ああ、大丈夫」
けど、声はかすれていた。もしかしたら昨日より酷いかもしれない。
「大丈夫ってその声で言われてもなぁ……早く帰れよ?」
進藤の心配そうな顔がとても普通に見えた。
樋渡なんて「大丈夫か」とか言いながら、笑ってるんだもんな。俺がダルいのだってアイツのせいなのに。
……ムカつく。
「なあ、それよか、朝、樋渡と一緒だった?」
一瞬、呼吸が止まった。心臓が飛び出るかと思った。
「あ……ああ、あの、駅で会って……」
聞かれることくらい予測できたはずなのに、答えを用意しておかなかったから口ごもってしまった。
けど、進藤は勘ぐったりしなかった。
「よかった。仲直りできたんだね」
本当に嬉しそうに微笑む進藤を見て、チクリと胸が痛んだ。
だから、進藤には本当のことを話そうと思った。
進藤なら客観的にまともな意見を言ってくれるんじゃないかと思ったから。
けど。
進藤があまりにも呑気な声で、「またみんなで飲みに行こうな〜」なんて屈託なく笑うから、言えなくなってしまった。
こんなことを話すには進藤はまとも過ぎた。
軽蔑するようなヤツじゃないってことは分かっているけど、話せば俺以上に困惑するだろう。
「……そうだよな」
しばらくはまた一人で悶々と悩まなければいけないのか……
考えただけで憂鬱になる。
おかげで一日中、イマイチ仕事に集中できなかった。課長まで心配そうに俺を見ていた。
「森宮、大丈夫か?」
「あ……はい。すみません」
「無理するなよ」
こんな会話を三、四回繰り返した。
一時の過ちとして流せればよかったのに、昨日のことでそれはもう手遅れになった。
寝言を聞かれなければ、普通に朝を迎えて、「じゃあな」と言って別れられた。
仲直りも出来て、きれいさっぱり普通の同期に戻れたはずなのに。
ってことは、俺の夢のせいなんだな。
ってことは、俺の潜在意識のせい……??
「……なんだよ、それ」
滅入りそうだから、考えるのを止めた。
身体もダルくて、全てが億劫に思えた。
「あ〜あ……」
声に出してから、しまったと思った。周囲は静まり返っていて、背中に課長と進藤の視線を感じた。
「森宮、本当に無理するなよ。具合悪かったら帰っていいぞ」
「だ……大丈夫です。すみません」
笑って答えたが、声はまだ掠れていた。
「季節外れの風邪は長引くかもしれないから、無理するな」
課長は俺に指示していた仕事の半分を進藤に渡した。
進藤は「俺、全部やるから」と言って、ファイルごと資料を持って行ってしまった。
仕事に追われている方がいいんだけどな……
結局、逃げている。
こういうことを考えるのが一番苦手なんだよ、俺。
俺とは対照的に樋渡は異常に楽しそうだった。
昼過ぎにうちのフロアに降りて来たヤツを見て、進藤が微笑んだ。
樋渡もニッカリ微笑み返して手を振ってた。
もう、どうでもいいと思った。
けど、腹が立った。
「二度と、あんなことするなよ」
当然のように俺の部屋に帰ってきた樋渡の顔を見るなりそう言った。
自分で言うのもナンだが、結構マジで怒っていた。
「あんなことって?」
「昨日みたいな……」
俺の視線が泳いだのを見て、樋渡が「ああ」と言って頷いた。
「何回までならしていいんだ?」
ふざけてるとしか思えないその一言で完全にブチ切れて、樋渡の鞄を廊下に放り投げた。
「出て行けよ。もう、来るな」
頭の中でブチブチと何かがキレたのが分かった。
「冗談だ。分かったから怒るなよ」
俺はまだムッとしてたけど、樋渡が酷く真面目な顔で謝るから、少しだけ気持ちは収まった。
「まだ慣れてないから、麻貴がホントに嫌なのかどうかが分からなくてな」
俺の態度にも問題があるってことは分かっていた。
これだって半分はヤツ当たりだ。イライラしてるのは、グズグズ考えている自分が嫌だからで、全部が樋渡のせいじゃない。けど。
「もう昨日みたいな無理なことはしないから。な?」
俺はムッとしたままソファに腰掛けて、何の返事もせずにテレビのスイッチを入れた。
もうその話はしたくない。
気分を変えるためにチャンネルをいつも見ているニュースに合わせた。
樋渡の存在なんてこの際無視してやろうと思ってたんだが。
「あ、キャスター変わったんだなぁ。俺、前の人が好きだったんだけど」
ネクタイを緩めながら呑気な声で呟いて、当たり前のように俺の隣にぴったりくっついて座った。
「ったく。座る前に着替えて来いよ」
そんな返事にもイライラが出る。
っつーか、くっつくな。
自分ちみたいな顔で座るな。
「ああ。いいけど……着替えてからじゃないと落ち着かないか?」
そうじゃない。ここに座るなという意志表示だ。鬱陶しい。
いや……
ぴったりくっついてなくても、二人でいたら鬱陶しいはずなんだ。1Kの狭い部屋に男が二人。
なのに。
無意識のうちにスーツを掛けている樋渡の背中を目で追っていた。
「なに、麻貴ちゃん?」
鬱陶しいのとは別になんか気になった。
「……なんでもねーよ。それよりいい加減、下の名前で呼ぶの止めろって」
「考えとくよ」
ニッコリ笑う樋渡から視線を外してテレビ画面に戻す。
思っていたよりは鬱陶しくないものの……
これでいいのかもう一度考えてみた。けど、やっぱり俺には判断する脳がなかった。
「あのさ、樋渡」
着替え終わった樋渡がまた俺の隣に座る。
「おまえ、俺のプライド挫いて楽しいか?」
そう聞いたら樋渡が困ったような顔を見せた。
「……挫いてるつもりじゃないんだけどな」
「じゃあ、なんであんなことするんだよ」
『あんなこと』というのは、もちろん樋渡の数々のヘンタイ行為を指している。
「なんでって言われてもな……」
樋渡はしばらく真面目に答えを探していた。
「……『他のヤツには見せない部分を自分のものにしたいから』なんだろうな」
樋渡はどうやらすごく真面目に答えているらしかったが、俺にその気持ちが理解できるはずもなく。
意味不明の言葉みたいで、混乱に拍車がかかった。
「俺、独占欲が強いんだ」
愛情なんだってことを言うつもりなんだろうが、ヘンタイ行為だってことに変わりはない。
「おかしいよ、おまえ」
どう考えても。絶対。
けど、樋渡は堂々と否定した。
「俺は普通の恋愛のつもりだけどな。たまたま同じ会社に入って同じ部署に配属された同期を好きになった。それだけだろ?」
相手が女の子なら、「それだけ」という言葉は間違ってない。
「けど、俺、男だ」
「分かってるよ、そんなこと。……それでも俺のものにしたいと思った」
「おまえのモノになんてなる気は―――」
「それも分かってる。けど」
話を振ったのは俺なんだけど。
樋渡の溜息を聞くのは嫌だった。
あまりにも、らしくない。いつも自信満々でちょっと不敵な樋渡が、なんでこんなしょうもないことで溜息をつくのか。
「抑えられなかったんだ。最初の日も、昨日も。後で自己嫌悪に陥った。……ほんと、ごめんな」
怒られた仔犬状態で俺を見るんだけど。
騙されちゃいけない。
「謝って済むことじゃ……っていうか、今日なんて上機嫌だったじゃんかよ」
あれが自己嫌悪に陥ったヤツの顔か?
「俺のこと、許してくれたんだろ?」
ニッカリ笑われて言い返す言葉がなかった。
当然の如く俺の部屋に帰って来た樋渡と普通に話してるんだから、許したのと同じことだ。
「俺のこと、好きになってくれた?」
「ぜんっぜん」
それだけは間髪入れず、きっぱり言い捨てた。
キライじゃないとは思うけど、好きになったかと聞かれたら、『うん』と答える気分じゃない。
「ふうん。じゃあ、なんで抵抗しないんだ?」
自分でも疑問に思っていることを聞くなよ。
心の中で悪態をつきながら、適当な言葉を捜した。嘘にならない言葉なら何でも良かった。
「……強いて言うなら、わりと巧いから」
比較対象がないから本当は巧いかどうかの判断なんて出来ないんだけど。
「残酷なヤツだな」
さすがの樋渡も苦笑いした。
「樋渡が強引だからいけないんだろ?」
「そうなんだけどな。……そういう理由なら、ヤル時だけ居ればいいんだろ? なんで俺を追い出さないんだ?」
それも、俺には良く分からなかった。
「……まあ、でも……料理も上手かったし、部屋片付けてくれるし」
とりあえずは樋渡がいていいなと思ったことを並べてみた。
こうして考えると、結構便利だよな。
「……おまえ、案外嫌なヤツだな」
辛うじて笑っていたけど、樋渡はちょっと呆れていたみたいだった。
「そうかな」
結局、俺は現状をすんなり受け入れられない自分のイライラを、樋渡を傷つけることで誤魔化そうとしているのかもしれない。
そう考えると、樋渡が言う通り、俺は相当嫌なヤツなんだろう。
「―――まあ、いいか。拒否されていない部分があるって言うのはいいことだからな。料理ができて良かったよ、俺」
樋渡のちょっと自虐的な独り言を聞き流して、ソファにもたれた。樋渡は口の端で笑ったままキッチンへ行き、ウーロン茶を注いで持って来た。
当然ように二人分。
それがまた俺の罪悪感を煽る。
「サンキュ」と言ってグラスを受け取った。
けど、気持ちが押しつぶされた。
「……あのさ、樋渡」
「なんだ?」
できるだけヤツの方を見ないようにしていたのに、樋渡は返事と同時に俺の目の前に顔を出した。
目を見たら、言えなくなりそうだったから、慌てて視線だけ外した。
「あのさ……今からでも、他のヤツ、好きになれないか?」
できることなら、流してしまった方がいい。
全部忘れて。何もなかったように。
前のようにただの同期に戻れるなら、そうしたいと思った。
樋渡なら、みんながうらやむような可愛い彼女ができるはずだ。
「……あのな、麻貴ちゃん」
一旦、言葉を切ったのは溜息を飲み込むためなんだろう。
キュッと結ばれた口元が少し歪んだ。
「……なん……だよ」
つかえながら吐き出した言葉が口の中に苦く広がった。
「おまえ、ホントに冷たいな」
樋渡も一度飲み込んだ溜息をゆっくりと呼吸に変えながら、肩を落とした。
気まずい空気が間に流れていく。
「……そうかな」
お互いのことを考えて言ったつもりなのに。
「寝た後で『好きになれないから、他のヤツを好きになってくれ』なんてさ。実際に言われると心臓を抉られるぜ?」
「……ふうん」
ウーロン茶をなんとか飲み込んで、できるだけ素っ気なく答えた。
本当はそれ以上長い返事ができなかっただけなんだが。
「ふうん、ってさあ……そりゃあ、俺だって好きじゃない女と寝たこともあるけどな……」
複雑な表情で口元をゆがめながら、ソファに沈み込んで天井を見上げて。
今度はまともに溜息をついた。
深呼吸かと思うくらい深い溜息だった。
俺に振られたくらいで、なんでそうなるんだよ。
こっちまで憂鬱になる。
真面目な話、俺はどうすればいいんだろう。
この言葉を押し切って、樋渡を追い出せばいいのか?
『おまえのことなんて何とも思ってないんだ』って言って?
けど、本当になんとも思ってないのかというと、それも自信がない。
また溜息が出る。
たとえば樋渡が女の子だったなら、断る理由なんてなかったのに。
男だから。
世間に受け入れられないから。
将来がないから。
なんか、そうなんだけど。そうじゃないような……
だいたい将来の事なんて一度だって真面目に考えた事があったかよ?
なんだか、考えること全てが『違う』という気がした。
このまま保留にしようか。
そう思ったけど。
俺の気持ちがない状態でずっと一緒にいることの方が酷いことなんじゃないだろうか。
第一、答えを引き伸ばした所で、その後はどうする?
このままずっと身体だけの関係でもよければ、ってことか?
けど、今の樋渡なら『それでもいい』って言いそうだよな……。
「あー、もう、面倒くさいなー……」
思わず声に出してしまった。
樋渡がクルリと真隣の俺に顔を向けて、また溜息をついた。
「面倒くさいってなぁ。おまえ、ホントに……」
「なんだよ?」
「……まあ、いいけどな」
樋渡はあっさりと『いいけどな』なんて言うし。
俺は、どうすればいいんだろう?
ぐるぐる巡りすぎてオーバーヒート気味。もうこれ以上は何も考えられそうにない。
「麻貴、身体、痛むか?」
拒否する間もなく、樋渡の手が腰を抱く。
「……そりゃあな」
ムッとした表情を崩さずに答える。
「そっか」
でも、樋渡の手は止まらなかった。当然のようにスルリとシャツの中に滑り込む。
「じゃあ、今日は挿れないから」
そんな言葉と一緒に抱きすくめられても抵抗しない自分に疑問を持ちながら、またしても答えは保留にした。
どうせ好きな相手もいないし、誰かに知られなきゃいいことだ。
そんな風に安易に流して、樋渡に身体を預けた。
このままでいいなんて少しも思ってはいないくせに。
樋渡の手があまりにも気持ちよくて、つい。
……その先は、明日、考えることにした。
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