引っ越した後も俺たちの生活は変わらなかった。
仕事も落ち着き、家に早く帰れるようになったおかげで、樋渡はまた俺にちょっかいを出し始めたけれど。
「おはよ、麻貴ちゃん」
樋渡の手が布団の中に侵入してきて俺を抱き寄せた。
「ん〜……何時だぁ……?」
「10時。朝飯できてるぞ」
薄らと目を開けると、樋渡の顔が視界を覆い尽くしていた。
「……ん」
伸びをしようとした時、樋渡の唇が俺の深呼吸を阻んだ。
朝っぱらから、濃厚なキス。
まったく、なんなんだろうな、こいつは……。
「じゃあ、麻貴、シャワー浴びてきな。素っ裸で歩きまわるなよ」
「……んなこと、するかよ」
下着だけはちゃんとはいていたからそのままリビングを突っ切ろうとした。
で、驚いた。
「……おはよ、森宮……」
進藤と中西が呆然と突っ立っていた。
男同士なんだからトランクス姿ごときで固まることはないだろうと思ったが、どうやらそれが理由ではないらしい。
「おまえら、いつも、こんななの?」
寝室のドアは全開だった。
それを知っていてわざとあんな濃厚なキスをしたんだろう。
樋渡のヤツっ……。
「朝からヤッてるのがフツウだぜ。今日はおまえらがいたから止めただけ」
「なわけねーだろ。嘘つくな、まったく……」
樋渡のニッカリ笑いが腹立たしい。
「知ってる奴のキスシーンて、ナマナマしいもんだな」
中西が感心している横で、進藤は困っていた。
「……それより、森宮、いくつキスマークあるんだよ?」
俺もそこまでは気が回らなかった。
首筋くらいならまだしも、内腿とかにもあるはずだ。
俺は無言で着替えとタオルを掴み、バスルームに入った。
慌てて確認したが、首筋、胸元はもちろん、二の腕、脇腹、内腿にまでべったりキスマークがついている。
絶対、樋渡は面白がっているんだろう。
まったく、どういう神経してるんだ。
まあ、進藤と中西だ。今更、別にいいけど。
シャワーで気分をすっきりさせて、リビングに戻った。
もちろん、ちゃんと服を着て。
よれたTシャツと5分丈のパンツ姿で出ていったら、樋渡に却下された。
「Tシャツはともかく、短パンはダメだ」
「なんでだよ。いつもと一緒だろ?」
「人前なんだぜ?」
「人前って、進藤と中西だろ??」
さっき、トランクス一枚でウロウロしてたのに、今更?
「それでも、駄目だ」
樋渡は頑なだった。
中西が樋渡に頭を引っぱたかれていて、進藤が笑っている。
「さっきさ、中西が『森宮、色っぽいなあ』なんて言ったから、樋渡、機嫌悪くなったんだよ」
「なんでだ??」
「さあ? 自分以外にの男にそう思われたくないんじゃないの? 俺らも例外じゃないってことだ」
「なんだよ、それ」
でも、樋渡の不機嫌は明かだった。
「とにかく着替えて来いよ」
「やだよ、面倒くさい」
「座ると腿まで見えるんだよ」
「だから、何だよ」
樋渡がこそっと俺に耳打ちした。
「……内腿のキスマーク、見えちまうぜ?」
キスマークは、赤面してしまうような位置についている。
つまり、5分丈ショートから見えるような場所にはないはずだった。
けど、万が一にでもそれが見えてしまった時の気まずさを考えて俺は仕方なく席を立った。
「樋渡、いちいちうるさいよ」
チノパンに着替えてくると中西が冷やかした。
「愛されちゃってんだな、森宮」
「じゃねーよ。まったく」
樋渡がちょっとおかしいだけだ。
「麻貴、いいから朝メシ食えよ」
テーブルに並べられた朝食を見て、進藤が目を丸くした。
「へえ、まともだね」
「家事してるってホントだったんだな。意外と世話好きなのか、樋渡って」
長い付き合いだがそんな一面は見たことがないらしい。中西も思いきり驚いていた。
「俺が世話を焼くのは麻貴だけ」
せっせとご飯を盛る。でも、俺と自分の分だけだ。
「森宮だって、自分のことは自分でしそうなのにな」
「ん〜? 俺は休みの日はなんにもしないよ。一人の時は全部外食」
「まあ、俺もそうだけどなぁ」
進藤も中西も一緒に朝飯を食った。ただし、食べたければ自分でやれと言われて、進藤が中西の分まで茶碗を持ってきた。
「森宮ばっかり、特別扱い」
「そりゃあ、特別だからな」
樋渡はしれっとそんなことを言った。
俺は口を挟む気も失せて、黙々と朝飯を食っていた。
そうでなくても赤面しそうだったのに、中西がとんでもないことを真顔で聞いてきた。
「なあ、変なこと聞くけど、どっちが入れてんの?」
後少しで吹き出すところだった。
ったく、食事中にそーゆーことを聞くかな。
進藤は顔を赤くしていた。
「そういうことは考えなくていいんだ」
ちょっと意外だったが、答えたのは樋渡だった。
一緒になって俺をからかうのかと思ったのに。
「ふっふ〜ん、いいよ、別に〜。ベッドで寝てる時、森宮、ちょっと色っぽかったもんね」
中西が樋渡をからかうと、思った通り、樋渡はムキになる。
「余計な想像をするな」
「樋渡が怒ってどーすんだよ」
俺は何て言っていいのかわからず、とりあえず樋渡を宥めた。
それでも樋渡はムッとしたままだ。
「それより、出かけるんだよね?」
進藤が慌てて話を逸らした。
中西の仕事の関係でイベントに付き合うことになっているのだ。
新進のCGデザイナーなんかを集めたコンペテイションらしい。
「じゃあ、さっさと片付けて出かけるか」
食べ終えた食器をキッチンに運び、蛇口をひねる。
樋渡が俺の手を止めた。
「いいよ、麻貴は」
「たまにはやるよ」
「手が荒れる」
「いいって。手なんか荒れても。俺、男なんだぞ?」
樋渡は何故かこういう訳のわからないタイミングで顔を曇らせる。
「……俺が、嫌なんだ」
樋渡が俺の手を掴んで指先にキスをした。
進藤と中西が見ている目の前で、だ。
「あのな、そーゆーこと……」
樋渡は水道を止めて、俺の顔を見ている。
「樋渡、おまえ、すっげー変だぞ??」
いや、いつもと一緒なんだけど。
「自覚はしてるけどな」
樋渡が俺の腕を取ってを強引に引き寄せた。
「自覚してればいいってもんじゃないだろーよ」
「我慢できないんだ……なんでだろう?」
俺に聞くな。
「進藤と中西がいるんだぞ??」
「視界に入らない」
本当に二人だけしか居ないかの如く、俺の腰を抱き寄せる。
「バカッ! いいかげんにしろよっ!!」
どんなに本気で怒ったところで傍目には痴話ゲンカだろう。
案の定、中西に笑われた。
「あのさあ、樋渡。茶碗は俺たちが片づけてやるよ。んで、駅前の本屋で待ってるからさ」
「中西まで、そーゆーことっ……」
進藤は、さすがに困り果てていた。
けど、樋渡はニッカリ笑って「じゃ、頼むな」と言い残して、俺を寝室まで引き摺って行った。
「やめろ、樋渡。ふざけるなっ!!」
「ふざけてないぜ。あんまり待たせるのも悪いから、出来るだけ早く終わらせないとな?」
早く脱げよと言われても従う気になれず。
かといって嫌と言っても聞いてはくれない。
それはわかっているから、ちゃんと説明をする。
「したあと、ダルいんだよ。出かける気にならないからさ。」
「ん、わかった。じゃ、口でな?」
「……樋渡っ!!」
でも、結局、してやった。
樋渡は楽しそうに午後の外出を仕切りまくっていた。
「樋渡の機嫌って、ホント、森宮次第だな。良く覚えておくよ」
中西はしみじみとそんなことを呟いた。
進藤は全体的に口数が少なかった。
まあ、まともな神経なら当然だ。
俺だって昔はそうだったはずなのに……。
中西と進藤と別れたのが二時半。その20分後には家に戻ってきていた。
帰ってきてから、なんにもすることがなかった。
かといってぼんやりしていると樋渡に風呂かベットに連れて行かれるから、買ってきた雑誌を読むフリをしていた。そしたら、中西からメールが来た。彼女に振られてヒマになったから、遊んでくれという内容だった。
俺も買い物に行きたいからと返事をしたら、ついでに夕飯を一緒に食べることになった。
樋渡も誘わないと怒るんだろうな。
まあ、いいか。
たまには怒らせておけば。
そんな気配を感じたのか、樋渡が寄ってきた。
「麻貴ちゃ〜ん」
なんとなくお誘いモードだった。
樋渡はセックスだけが好きなわけじゃない。
話しかければ喜んで答える。ただ、じゃれつくだけの時もある。それでも充分に楽しそうだ。猫なで声だからといって必ずしもそういうことに発展するわけではない。
例えばキスだけしたいと言えば、そうするんだと思う。
まあ、保証がないからそんなことを言ってみる勇気はないが。OKと受け取られて、その先に行かれても困るからな。
今日は全てを牽制して、できるだけ冷たくあしらった。
「百歩譲って名前で呼ぶのは許すけど、ちゃんはつけるなよ」
「なんで? 可愛いのに」
「それが嫌なんだろ」
「じゃあ、呼び捨てにする? まあ、その方が俺のモノって感じでいいけどな」
なんでこう、自分のモノにしたがるんだろう。所有欲が強すぎる。
「それから『俺の』とか付けるのも止めろよ」
「なんで? 俺の、じゃないわけ?」
「じゃねーよ」
まったく、所有格を付けることに何か意味があるのか?
そんなの気持ちの問題なのに。
「マキ、俺の他にも誰かいるのか? 女も含めて答えろよ?」
「バカじゃねーの?? いるわけねーだろ」
ムキになって答えてしまった。
その瞬間に樋渡が嬉しそうな顔をした。
そりゃあ、そうだ。おまえだけって言ってるのと同じだもんな。
大失敗。
「なら、いいか」
テーブルの新聞を取ろうとして手を伸ばしたら、そのまま抱き寄せられた。
樋渡はにまにま笑っている。
「それ以上なんかしたら、怒るぞ」
「しないって」
すりすりと頬ずりされても俺は黙っていた。
良くも悪くも何かしらの反応をすると、更に構いたくなる樋渡の性格を考慮してのことだ。
樋渡に後ろから抱き締められたまま新聞を読む。
樋渡は俺の肩に顎を乗せて新聞を覗き込んでいる。
ただそれだけでも楽しそうだった。本当に変な奴だ。
「麻貴」
『ちゃん』はつけなかったが、声は甘い。中西に「メロメロだな〜」なんて言われるのも頷ける。
「なんだよ」
「おまえ、将来のこととか考える方?」
予想外に真面目そうな話題だったので、俺はおもむろに振り返った。
樋渡が俺の肩に顎を乗せていることを忘れていたので、頬に樋渡の唇が触れた。
「将来?? 俺がそんなこと考えるように見えるか?」
慌てて新聞に向き直った。視界の隅に映った樋渡は存外に真面目な表情だった。
どうやらフザけてはいないらしい。
「そうか。よかった」
そんな、真面目に「よかった」とか言われてもな……。
俺に人生設計がないのがいいことなんだろうか?
「樋渡だって、そんなもんないだろ?」
「俺? あるぜ。麻貴とずっと一緒にいる」
また抱き締めるし。
「それのどこが『将来のこと』なんだよ」
「十分人生設計だろ? 麻貴に彼女が出来たらジャマするし、結婚するって行ったら絶対ぶち壊す」
「ぶち壊されて、俺が幸せになれなくてもか?」
さすがにその一言は樋渡を砕いた。
なんで、そんなに辛そうな顔をするんだろう。
他愛のない話なのに。
けど……
「結婚って、なあ……」
俺は固まってしまった。
将来のことなんて、本当に考えたことがなかった。
だって、面倒くさいだろ?
自分が妻子を養うことも、毎日毎日他人と顔突き合わせて暮らすことも。
……あ、樋渡と同居してたっけ。
樋渡は暑苦しい上に鬱陶しいけど、不思議と邪魔でもなかった。
俺よりデカいから、居ると場所は取る。それでも、一人でいる時より部屋は散らからない。
料理も上手いし、仕事の相談にものってくれる。
ちょっと、ヘンタイでセックスだけ妙にねちっこいのが問題だけど、それはまあ、置いといて。
「奥さんなんかいなくても、樋渡でいいもんな……」
うっかり口に出してしまった。
しまった……と思った時は樋渡の手はすでにTシャツの中に滑り込んでいた。
「樋渡っ……」
「なに、麻貴ちゃん」
もう忘れてやがる。
「ちゃん付け禁止だって」
「二人のときくらいいいだろ?」
コイツには言っても無駄だな。
樋渡の手が俺の胸元を弄る。身体が着実に熱を帯びる。
このままだと樋渡の思うつぼだ。
普通の話をしよう。
「樋渡」
俺は平静を装って新聞に目をやった。
「なに?」
「株、下がったな」
「麻貴も持ってただろ?」
樋渡は頭の切り替えが早い。それまで何をしていようとすぐに普通の会話に入って来られる。
「俺、先週売ったよ」
「おまえ、ちゃっかりしてるな」
手を止めて株価欄を見つめる樋渡。仕事の時と同じ顔だ。
「げ……安値更新」
「樋渡、相場観なさすぎ」
「麻貴は金がなかったから売っただけだろ?」
引越しをしたせいで、びっくりするほど金がなかった。仕方なく、予定より早く持ち株を売ったのだ。
「まあ、そうだけど。結果オーライは日頃の行いの差だな、きっと」
売り抜けたんだからいいじゃねーか。
「あーあ、儲かったら二人で旅行に行こうかと思ったんだけどな」
「ばか、二人で同じ日に休みなんて取れるかよ」
「大丈夫だろ? 部署、違うんだぜ?」
「進藤たちに冷やかされんだよ」
「いいだろ、そんなことくらい。俺はぜんっぜん構わないぜ」
「俺は嫌だ」
「照れ屋」
「じゃねーってっ!!」
ったく……。
「けど、たまにはどこか行こうぜ。海外なら人目も気にしなくていいからな」
「樋渡には人目があるくらいでちょうどいいんだよ」
「それは、麻貴を気遣ってるだけなんだよ。俺は社長室の真ん中でもキスできる」
「バッカじゃねーの??」
……たぶん、バカだ。
今まで気づかなかっただけで。
「麻貴、マジで夏休み取ったら旅行に行こうぜ。俺、貯金あるし」
樋渡は遊んでたくせに金は持ってるんだよな。
給料だって変わらないはずなのに、車も持ってる。
中古だけど……。
「株が上がったらな」
「ちぇ。じゃあ、旅行の代わりにベッドで俺を楽しませてくれる?」
「おまえ、最低。それじゃエロオヤジの下品な冗談だぞ??」
「冗談で言ってるわけじゃないんだけどな」
雲行きが怪しい。樋渡は思い立ったら吉日な性格だ。妙な気を起こさないうちに出かけなくては。
「……俺、そろそろ買い物、行こうっと」
新聞を樋渡に押し付けて、ソファを立った。
急いでクローゼットの前に行き、服を取り出す。
樋渡はソファに胡座をかいたまま、頬杖を付いている。何か企んでいるような顔だった。
その気分を夜まで引き摺られると明日は起き上がれない。
ちょっと気を紛らわせておかないと。
「樋渡も一緒に来るか?」
にっこり笑って誘ってみる。樋渡も微笑み返した。
「肩抱いて歩いていいか?」
俺の笑顔もここが限界だ。
「ダメに決まってるだろ」
「なら、行かない」
いきなり拗ねるし。おとなげない。
「中西も一緒だぞ」
樋渡の眉がぴくっと動いた。
「なんでだよ? さっきアイツらと別れたばっかりじゃないか」
「ヒマなんだってさ」
「なら、俺も行く」
それはそれで、おとなげないけどな。
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