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あれから中西は本当に俺一人の時は家に入れてもらえなくなった。
真面目な話、今度そんなことがあったら、樋渡に殴られるくらいじゃ済まないかもしれないから、その方がいいとは思うんだけど。

そして、樋渡は相変わらず恐いくらいに甘かった。
俺がどんなに素っ気なくしても。
「麻貴」
「ん?」
振り向いたと同時にキスされた。
「なんだよ」
「いや、可愛いなと思ってさ」
これだもんな。慣れたとは言え、ちょっとうんざり。
「可愛くねーよ」
「つい、見とれちまうから、会議の時とか大変なんだよな」
そう言えばやけに目が合うと思ったんだよな。
「おかしいよ、おまえ」
このセリフも言い飽きた。
「可愛いと見ていたいだろう?」
だから、可愛くなんかないっつーのに。
「俺は顔にはこだわらないけど」
そりゃあ、樋渡だって、顔はいい方だけど。
女の子たちはカッコイイって大騒ぎだ。本社では一番人気。
まあ、進藤も彼女がいなければもっとモテるんだろうけどな。
衝撃の「ずっと一緒にいてくれ」発言以来、俺と樋渡のことは部内ではそこそこ有名だ。
けど、女の子たちは諦めてない。
まあ、相手が俺じゃ、樋渡を奪うのなんて簡単そうだからな。
何しろ、なんで俺なのか、俺自身がわからないんだから……。
「麻貴」
「だから、なんだって言ってるだろ?」
「昼寝しようぜ」
「寝て来いよ。俺、テレビ見てるから」
別に見たいテレビがあるわけじゃないけど。
樋渡と昼寝なんてしたら、大変なことになるのは分かってる。
ただグーグー寝られるはずなどないんだから。
している時は良くても、あとがダルいだろ。
とか思ってたら。
「な、麻貴、やろうって」
単刀直入に言いやがった。
けど、いつもならさっさと押し倒すくせに、なんで今日に限って俺の許可を取る?
「麻貴は、俺とヤルの嫌なのか?」
嫌じゃないけど、『いいよ』なんて言えるか??
黙っていたら、樋渡が拗ねた。
「じゃあ、いい。麻貴ちゃんがヤリタイって言うまで、誘わない」
っつーか、おとなげない。
俺は、しなくてもそれほど困らない自信があった。
だから、うん、と簡単に頷いたのだ。



樋渡は宣言した通り、その日から俺を誘うこともしなかったし、キスもしなかった。
なんとなく一緒に食事をして、普通に話して、テレビを見てそれぞれの部屋で寝た。
本当にただの友達で、ただの同居人のようだった。



2週間が過ぎた。
金曜に、正確には土曜の明け方に、樋渡は首筋にキスマークを付けてふらふら帰ってきた。
その上、唇にはピンクの口紅。
もちろん俺はぐっすり寝ていたから、翌朝、樋渡が酔いつぶれてスーツを着たままソファで寝ているのを見るまでそんなことには気がつかなかった。
もちろん、それを発見した時は俺に対する嫌がらせだろうと解釈して、ちょっとムッとしたけど。
俺がセックスしたいって言わないからってこれはないんじゃないのか??
「樋渡、服、脱いで寝ろよ」
泥酔している樋渡のジャケットとズボンと靴下とワイシャツを脱がせた。
それからソファに毛布を持って来て掛けてやった。
樋渡は昼過ぎまで爆睡していた。
いったい、昨日は何をしていたんだろう。
さすがに気になった。
けど、聞けない。
……俺もおとなげないな。

ぼんやりと目覚めた樋渡は、のそっとシャワーを浴びて、いくらかすっきりした顔で出てきた。
「麻貴、飯食った?」
「夕飯? これから」
3時半。その質問にはかなり中途半端な時間だった。
「昼は?」
「食ったよ」
って言っても菓子パンだったけど。
「ふうん、そうか……麻貴は俺がいなくても別に困らないんだな」
そりゃあ、おまえもだろ??
って思ったが、口には出さなかった。
なんだか樋渡らしくない。
首筋にはまだくっきりとキスマークが残っていた。
それが視界に入るとなんとなく嫌な気分になるので、気分転換に出かけることにした。
「俺、本屋行くから帰りになんか食ってくるよ。樋渡も一緒に行く?」
「……いや、俺、また、出かけるよ」
メールを見ていた樋渡がつぶやいた。
なんだか、憂鬱そうだった。
お楽しみだったくせに。
二日酔いか?


樋渡はぼんやりしたまま出かけて行ったきり、なかなか帰ってこなかった。
時計を見たら11時過ぎで、さすがに俺も心配になった。
電話をかけようとしたとき、メールが入った。
樋渡の携帯からだった。
メッセージのない空メール。樋渡がそんなことをするはずはない。
誰かが悪戯したんだろう。
とすると、女だろうな……
男だったらかなり不気味だ。
無視するつもりだったが、結局、5分後に電話をしてしまった。
『なんだよ』会社と同じ、樋渡の声。
「帰って来るまで起きて待ってるからな」
なんか、自分で言っておきながら淋しくなった。
『ああ。今日中には帰るよ』
いつもなら何を置いても帰って来てくれるのに。
どんどん心細くなるのは、樋渡がどんな顔で電話をしているのかわからないからだ。
どんな顔でどころか、女の家で、ベッドの中かもしれないのに。
俺はぼーっとテレビを見ながら樋渡の帰りを待った。
ソファに毛布を持って来て、ぐるぐるに包まってゴロゴロしていた。
30分経ったところまでは覚えていたが、いつの間にか眠っていた。
「起きて待ってるんじゃんなかったのか?」
帰ってきた樋渡に起こされた。
「……おかえり」
電話をかけてから、一時間。
それでも急いで帰ってきたのだろう。
「なんだ、いきなり電話なんかして」
「無言メールが来て、頭にきたから……」
「メール?」
携帯に手を伸ばし、樋渡に渡した。
「なんだ、これ?」
樋渡は本当に驚いていたが、すぐに状況を察したようだった。
「悪い……」
言い訳はしなかった。
説明もしなかった。
「なんか、言ってくれないと、俺、どんどん色んなこと疑いそうなんだけど」
樋渡の返事はたった一言。
「ごめん」だった。
バカ正直な奴だ。
こんな時くらい気の利いた嘘をつけばいいのに。
やっと、好きだって言われたことを信じ始めていたのに。

これで終わりだと思った。


樋渡がシャワーを浴びている間に、進藤に電話した。
けど、彼女と一緒だと言うので適当な話をして切った。
靴を履いて外に出た。
その辺をふらふら歩いた後、中西に電話した。
『なんだ、森宮か? どうした、こんな夜中に?』
「ごめん、なんでもないんだけどさ」
『元気ないな』
そりゃあ、バレバレだよな。こんな時間に中西に電話したことなんてないんだから。
「中西。酔ってる?」
『ぜんぜん飲んでねーよ』
「今日、泊めてくんない?」
『いいけどさ。ホント、どうしたんだ? さっき樋渡からも電話かかってきたぞ。ケンカでもしたのか?』
「まあ、そんなところ」
『仕方ないな。いいよ。部屋、汚いけど』
「悪いな」
『いいってことよ』
樋渡には連絡しないでくれと頼んだら、中西は「どうせまたかかってくるだろ」と笑った。

中西は駅まで迎えに来てくれた。
ほどほどに散らかった部屋で中西と二人。
別に話すこともなくて、落ち込み気味な俺にシャワーを浴びるように言った。
中西の服を着て出てくると、ベッドの下に布団が敷いてあった。
「俺は一緒に寝ても良かったんだけど、樋渡に殺されそうだからな」
中西はぜんぜん世話好きじゃないのに、俺が落ち込んでいるせいか、いろいろと世話を焼いてくれた。
「ほら、ちゃんと髪拭いて」
「……うん」
中西はテレビの音をうるさいくらいに大きめにしていた。
沈黙が流れないことは少しありがたかった。
けど、おかげで電話が鳴っている事にはぜんぜん気付かなかった。


日曜も中西の家で過ごした。携帯はずっと電源を落としていた。
樋渡から何回か着信とメールがあったけど、どっちも無視した。
中西のところにかかってきた電話にもいないと嘘をついてもらった。
「いいのか、森宮」
「いいよ。しばらく放って置かれたい心境なんだ」
月曜から出張だから、会社で樋渡に会うこともない。
週の後半は樋渡が研修所に泊まり込みだから、水曜に顔を合わせなければ一週間まるまる会わないで居られるはずだ。
「月曜、ここから会社行っていいか?」
「ああ、俺は別にいいけどさ」
樋渡が会社に行ってから、一旦部屋に戻って、着替えて出張先に直行すればいい。
「水曜にここに帰って来てもいいか?」
「いいけど……そんな長期戦決めてんのか?」
「とりあえずな」
こんなに長く樋渡の顔を見ないなんて、この半年間ではなかったことだ。


一人になってゆっくり考えようと思った。
それでもダメだと思った場合、また引っ越さないとならないのはかなり面倒だったけど。
……それよりも、金がないな。



計画通り、樋渡の顔を見ずに水曜の夜を迎えた。
東京駅から中西の家に向かう途中で、見知らぬ番号から着信があった。
乗り換え駅で電話をかけた。
「森宮と申しますが」
名乗った途端、女の笑い声が聞こえた。
『マキちゃんって、男の人だったのね』
女の声に聞き覚えはなかった。
「どなたですか?」
『ちょっと話せないかしら?……リュウイチのことで』
思わせぶりな態度がムカつく女だった。
「どんなことです?」
丁寧な口調で答えたが、女は高飛車だった。
『今から、会って、お話しない? マリオンの時計の下にいるから』
「生憎ですが、まだ仕事の……」
『嘘。マキちゃんは今日は出張先から直帰ってリュウイチが言ってたけど?』
厭味な女だと思った。けど、『時間は取らせないから』と言われて「10分くらいなら」と答えた。
別にどうでもよかったけど。
でも、樋渡がどんな女と寝たのか少しだけ知りたい気持ちがあったから。



電話で言われた待ち合わせ場所に行った。
着いてからもう一度電話すると、『マキちゃん、みつけたわ』と笑い声が返ってきた。
ほっそりとした髪の長い女が電話をしながらこっちに向かって歩いてきた。
目の前で微笑む女を見て溜息をついた。
確かに、目の醒めるような美人だった。
けど、それだけで簡単にひっかかる樋渡もどうかと思った。
容姿に自信がある女だってことがパッと見でわかる。
俺の嫌いなタイプだった。
「こんにちは、森宮さん」
「で、話って?」
女の顔を見るという目的を果たした以上、もう用はない。
「お茶でも、って言ってくれないの?」
「早く帰りたいんだけど」
「リュウイチなら、今夜は戻らないわよ」
「それはどうでもいいけどな」
俺の電話番号だって樋渡の携帯からこっそり盗んだんだろう。
まったく面倒だなと思ったけど、しぶしぶ近くの店でバカ樋渡の趣味を疑いながらコーヒーを飲んだ。
呆れて怒る気にもなれなかった。
「で?」
短い質問をまったく無視して、女はシンナリ笑いやがった。
「森宮さん、本当にお綺麗なのね」
それもバカ樋渡が吹き込んだのだろうか。それとも樋渡のアホメールを読んだんだろうか。
「顔の話をしに来たわけじゃないんだけど」
「恐いわね。リュウイチを取られたのが、そんなに悔しい?」
「悪いけど、ぜんぜん」
もっと、いい女だったら悔しかったかもしれない。総務の木原さんの時は、ちょっと心配したもんな。
「で? 話って? 樋渡の、何?」
「素敵な人よね、リュウイチって」
「あ、そう。それで?」
グダグダ言ってないで、さっさと用件を言えよ。
「抱く時も、優しいし」
「だから?」
要するに、寝取ったってことを言いたいだけか?
今更そんなこと、どうでもいいんだよ。もう、分かってるんだから。
「リュウイチ、頂いても、いいかしら?」
「俺に聞いてどうすんだよ。付き合いたいなら、樋渡に言いなって」
イライラさせる女だな。
「森宮さんは、リュウイチのこと、好きじゃないの?」
おまえに聞かれたくねーよ、そんなこと。
「別に」
「じゃあ、いいのかしら? 本当に?」
「とにかく、その話は樋渡としてくれよ。じゃあ」
レシートを持って立ち上がったら、後ろに樋渡が立っていた。
「……麻貴」
女が呼びつけたんだろうな。鞄も持ってないってことは、会社を抜けてきたんだろう。
俺と樋渡がすっかり壊れるのを見たかったんだろうか。
悪趣味な女だ。
「……ごちそうさま、樋渡」
俺はレシートを樋渡の胸ポケットに突っ込んで、店のドアを開けた。
「待てよ。おまえ、どこに泊まってるんだ? ホテルか? それとも……」
背中に降って来る樋渡の声に余裕はなかった。
バカだよな、ほんと。
クルリと振り返ると女が笑っていた。
樋渡の肩に手を掛けて、襟ぐりの開いた服で胸を押し当てて。
樋渡もその手を振り払いもしないで、されるままになっている。
ダメだな、男ってヤツは。
ちょっとは反省しやがれ。
「……中西の家にいるよ」
「嘘つけ。電話かけた時は、いないって……」
「居留守に決まってるだろ」
言い捨てて、店を出た。

樋渡は追って来なかった。



けれど。
真夜中にものすごい勢いでインターホンが鳴り響いた。
中西も俺も、もう眠っていた。
「なんだよ……」
中西がしぶしぶ起き上がり、受話器を上げた。
「はい」
『森宮、来てるんだろ?』
中西は返事をせずに俺を振り返った。
ドンドンとドアを叩く音がした。
「……ったくぅぅ……近所迷惑だろう?」
ドアを開けると同時に樋渡が駆け込んで来た。まだスーツ姿だった。
「樋渡、靴、脱げっ!!」
中西の声を無視して樋渡は靴を履いたまま俺が寝てる布団の脇に来て、いきなり俺の腕を掴んだ。
「さっきも電話したんだぞ?」
言われて反対側の手で携帯を取り上げる。着信10件。全部樋渡から。
「電源、切ってたからな」
「中西の携帯にもかけたんだぜ?」
樋渡は息を切らしていた。
「テレビの音、大きくしていたから聞こえなかったんだな。寝る前は切るし」
中西が自分の携帯を見ながら苦笑した。
中西のところにも着信10件。
「麻貴、……帰るぞ」
「やだよ」
「怒ってるのか?」
「少しね」
「少しで家出するのか?」
「悪い?」
「……いや。俺が悪いんだからな……」
俺の返事一つ一つに、樋渡が振り回されているのがわかった。
つくづく、バカなヤツ。
「何やったんだよ、樋渡。ただの痴話ゲンカじゃなかったわけ??」
中西は相変わらず楽しそうだ。
「誘われてメシ食いに行った相手がいたずらして、俺の携帯から麻貴に空メールを送りつけたんだ」
「その前の日に唇にピンクの口紅つけて帰ってきたし」
俺の一言に、樋渡が顔色を変えた。
「……酔っ払ったって言うから送ってったら『おやすみ』って……」
「首にもキスマークついてたし」
「酔っ払って抱きつかれた時に……」
「キスマークって、ただキスしただけじゃつかないだろ?」
「キスされただけだ。服は脱いでない」
―――抱く時も優しいし……
女のセリフが頭を掠めた。
それを樋渡に突き付けたら、これで終わりだな。
だから、言わなかった。
もう、『ごめん』なんて言葉は聞きたくなかったから。
「キチンとワイシャツ着てたら、そういう場所にはつかないよな」
それでも中西は逃げ道を塞ごうとしていた。
「ボタンを外してただけだ」
「そんなの信用できないよな〜。なんてったって樋渡だし。な、森宮?」
中西に煽られて、俺は弾みで頷いた。
樋渡はもう一度謝った後、真剣な顔で信じてくれと懇願した。
「彼女には、さっきちゃんと話してきた。もう食事に行くこともないから」
俺は曖昧にそれを聞き流した。


その日は樋渡も中西の家に泊まった。俺と樋渡の気まずい空気など物ともせずに、中西はぐーぐー眠っていた。



木曜日に会社に行くと、俺が家出したことは職場のほとんどの奴が知っていた。
「電話かかってきましたから。土曜も日曜も」
後輩が着信を見せてくれた。連続三回。
「ちょうど友達と飲んでたんだけどな」
先輩のところにもかけたらしい。
いったい樋渡は何人に電話したんだろう。
「いいですね」
「何が?」
「痴話喧嘩」
よくねーって……
まったく、どいつもこいつも。
「俺なんて相手がいないからしたくてもできないし、めっちゃ羨ましいけどなあ」
モノは考えようだな。
けれど、樋渡が必死で電話を掛けたのだということを知って、気持ちが少し揺らいだ。
「そうですよ。こんなに思われてるのに、何が不満なんです?」
とりあえず、キスマークをつけて朝帰りしたことは伏せておいた。
「樋渡が、もてること」
言った瞬間、そこにいた全員に爆笑された。
「今頃、なに言ってるんですかぁぁ??」
後輩にまで笑われたけど、ホントに今頃だよなと自分でも思った。



俺はいつもより早く帰った。
久しぶりの自分の部屋でごろんと横になる。
今日、樋渡は研修所に宿泊するから、帰って来ない。
ゆっくり考える時間があった。

一度くらい、なかったことにしてやってもいいような気がした。
もう、あの女とは食事にも行かないって言ったし。
……それでも俺は、いい顔をしなかったんだけれど。
「浮気するにしても、相手は選べよなぁ……」
やりたかっただけなんだろうな。
そう言えば樋渡、昔はえらいメンクイだったんだ。
俺と進藤に『顔さえ良ければなんでもいい』って言い放ってたもんな。


バカなヤツ。



金曜日までずっと考えに考えて、俺にしては珍しく結論を出した。
今日帰ってくる樋渡に、今回はなかったことにしてやると言うつもりだった。

許したわけじゃない。
あんな女に引っ掛かるようなバカな樋渡には正直言って少し幻滅した。
呆れ果てたけど、あんなに必死に謝られたら、仕方ないって言うしかないように思えた。
今でも思い出すとムカつくから、我慢してやってるんだってことだけはちゃんと意思表示するつもりだけど。
それに、今度、あんな顔だけの女に引っ掛かったら、友達の縁も切ってやるってこともだ。
言うべき言葉をあれこれ考えて、さらっと言えるように練習までしたが、樋渡は0時を回っても帰って来なかった。
「研修の後の打ち上げかな……」
まあ、いいか……明日、言えば。
そのまま、樋渡の帰りを待たずに寝てしまった。



目が覚めたのは三時だった。
真っ暗な部屋を電気もつけずに歩いて、リビングを横切り、樋渡の部屋をノックした。
だが、返事はなかった。
寝たのだろうかと思ってそっとドアを開けたが、樋渡はいなかった。
飲み会が長引いて、朝帰りするのかもしれない。
明日は土曜だから、それもあり得る。
けど……そうじゃなかったら……?
もう戻らないつもりだったら……?
そう思うと一気に不安が押し寄せてきた。
いつもなら、必ず電話をしてくるのに。
前々から遅くなるって分かっている日でさえ、メールくらいはして来たって言うのに。
『かけないと麻貴が心配するだろ?』
そんな樋渡のメールにも、
『しねーよ。寝てる時にかけてくんな』
俺はいつでもそんな風に文句ばっかり言ってたけど……
樋渡はそれでも毎回連絡してきた。

真っ暗なリビングでソファに腰を下ろした。
不安に駆られて電話をかけたが、留守番電話になっていた。
メッセージを入れずに電話を切った。
圏外だったとしても、いつもの樋渡なら席を立ったついでに電話をかけて来ると思った。
けれど、一時間待っても電話はかかってこなかった。
もう一度電話をかけたが同じことだった。
空が白んできていた。


気持ちに嘘をついても、もっと早く許すと言えば良かったんだろうか。
それとも、本当はもうとっくに俺から気持ちが移っていたんだろうか……
携帯の黒い画面を見つめながら、呆然とした。
信じてくれと言われた時に、『うん』と言えなかったことを後悔し始めていた。
たったひとこと。
なのに……
俺はいつでも、自分の気持ちとやっていることが噛み合ってないんだな……


帰って来ないつもりでもいいから、少しだけ話せないかと言うために、もう一度電話をかけた。
どうせ出てはくれないだろうけど、メッセージだけ残しておこうと……
呼び出し音が響く。
と同時に、俺の部屋で何かがガタガタと音を立てているのに気づいた。
立ち上がって、ドアを開けた。

真っ暗だった部屋には薄明かりが差し込んでいた。
留守番電話のメッセージが脳に届いた時、俺はゆっくりと電話を切った。
「……なんで、こんなとこで寝てるんだよ」
壁に横付けされているベッドとクローゼットの間で樋渡が丸くなって眠っていた。
放り出された樋渡の上着の胸ポケットから携帯を取り出し、着信履歴を削除した。
……俺、バカかもしれないな……
脱力感に襲われて、床に座りこんだ。
樋渡はそんなことにも気付かずにすーすーと寝息を立てていた。
さっきまでの気持ちは一瞬で消えてなくなり、なんだか腹が立ってきた。
「樋渡、ちゃんとベッドで寝ろよ」
気持ち良さそうに寝ている樋渡を俺は無理やり起こした。
「……ん……麻貴……何?」
「ベッドで寝ろって」
のっそりと上半身を起こした樋渡の首からネクタイを外した。
上着をハンガーにかけ、ワイシャツのボタンを外した。
「よくそんなところで寝られるな」
「麻貴だって、ソファから転げ落ちても寝てるだろ」
「ソファーの下でも、一応、カーペットの上だ。ここ、フローリングだぞ??」
「んんっ……まあ、そうだけど」
伸びをして立ち上がるとおもむろにズボンに手をかけた。
「自分の部屋で寝ろよ。」
「床の上でもいいって言ったら、ここに居てもいいのか?」
マジメな顔で樋渡が聞く。
俺の眉間にしわが寄った。
なんでこう、俺は素直じゃないかな……
俺の複雑な気持ちを知らずに、樋渡は苦い笑みと共に溜息をついた。
「……分かったよ。自分の部屋で寝るから。……悪かったな」
妙にしおらしい樋渡の背中が、さっきの不安を蘇らせた。
なんとなく冷たい空気が流れているように感じて、無意識のうちに呼び止めていた。
「……樋渡」
「なんだ?」
振り向いた顔は疲れていた。
仕事の疲れとは少し違う、言うなれば、俺のこんな態度にうんざりしているみたいな―――
「……俺、どうしても、許せないよ」
こんなことを言いたいんじゃないのに上手く言えなくて、ますます気まずい状況を作る。
「……うん、わかってる。ごめんな」
樋渡は諦めたような微笑を残して背を向けた。
引き止めなければと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。
支離滅裂な言葉だけが口を突いて出てきた。
「……おまえ、一度だって、俺を、不安にさせたことなんてなかったじゃねーか」
声が震えていた。
そんなつもりはぜんぜんなかったのに、涙が込み上げて目の奥が痛くなった。
「……麻貴」
床に座りこんだままベッドにもたれかかっている俺の前に、樋渡が屈み込んだ。
「……ごめんな。でも、本当に、なんでもないんだ」
樋渡がメチャクチャうろたえているのがわかった。
それを見て俺は急に強気になった。
「口紅のついたキスマーク見て、信用できるかよ」
「おまえが嫌なら、もう誰ともメシ食いにいかないから」
「そんなことできるわけないだろ?」
「それで麻貴が一緒に居てくれるなら、なんでもする」
樋渡の手がそっと俺の頬に触れた。
床で寝ていても、こいつの手は温かいんだな……
俺はこのシリアスな状況とはまったく関係ない事を考えながら、樋渡のキスを受け入れた。
樋渡は神妙な顔で俺を抱き上げて、ベッドに横たえた。
そのまま部屋を出ていこうする樋渡の腕を掴んだ。
「……ここで、寝ろよ」
樋渡はズボンをはいたまま俺の隣に横になった。
長い指が遠慮がちに俺の髪を弄んだ。
「惚れてる相手を泣かすなんて、最低だよな」
樋渡が溜息と共に呟いた。
俺はもう、その話を蒸し返す気はなかった。俺の中ではすっかり片付いてしまっていたから。
「……泣いてねーよ」
今ここにあるのは、ふかふかのベッドと樋渡の体温。
太陽が高く昇っても、なんの罪悪感もなく寝坊できるのが休日の醍醐味だよな、なんて、どうでもいい事を考えながら眠る幸せ。
今ごろ樋渡は、ぱっちりと目を開けて俺の寝顔を見ているに違いない。
けど、それも、どうでもいいことだ。ゆっくり眠って、腹が減った頃にはきっと樋渡が昼飯を作って起こしてくれるだろう。


幸せな夢の中で、そう思った。


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