微妙な夏休み
-2-



樋渡がいないことを実感しながら、一人でのびのびと部屋を歩き回ってみた。
「いつもは何をしてても樋渡にジャマされるからな」
ソファに寝ていれば「俺も一緒に寝る」とか言って覆いかぶさってくるし。
テレビを見ていれば、無理に自分の方を向かせようとするし。
「……いいんじゃねーか? 快適、快適」
身の危険がないから、どんな格好をしていても全然平気だし。
ゆっくり風呂に入って、タオルだけを腰に巻いてソファでビールを飲んで。
冷房を最強にして、テレビをつけて、新聞を読んで。
「強いて言えば外食とコンビニ弁当に飽きるってことくらいだな」
樋渡がいなくなってから部屋は見事に散らかったが。
「部屋なんて汚れてても全然気にならねーもんな」
困ることなんてなんにもなさそうだった。
「ついでだから、今のうちに夏休みでも取るかな。ジャマされずにゆっくり休めそうだし」
こんな早い時期に休みを取るヤツなんていないから、仕事さえ片付いていれば直前でもOKがもらえるに違いない。
「よし。早めに今月分終わらせて休みにするか」
なんだか非常にいい気分だった。



けど、それも束の間。
俺は見事に風邪を引いた。
世間では熱帯夜と言われる夏の盛り。
ものすごい頭痛と共に目が覚めた。
「うわ……うたた寝したのがマズかったのか??」
エアコンもテレビをつけっぱなし。
朝方まで目を覚ます事もなくソファで死んだように寝てたせいだ。
樋渡がいない安心感から、気が緩んでることも理由の1つかもしれない。
「まあ、いいか」
風邪くらい寝てれば治るだろ。
樋渡のいない生活は自堕落まっしぐらだけど。ただ、ぐーたらしていればいいだけだ。別にどうってこともない。
けど。
「やべ、明日出張だ……」
それも最後の詰めで、夏休みが取れるかどうかも明日にかかってるという案件の取り込みだった。体調不良なんて言ってる場合じゃない。
「さっさと寝ちまえばいいよな」
とりあえずすぐにベッドに移動した。
「こんなに寝てばっかりだとまた目が覚めそうだけどな」
エアコンを消したにもかかわらず、なんだか寒気がした。
嫌な予感はしていたが、そのうちに温まるだろうと思って丸くなって寝てしまった。
たぶん、それも失敗だったんだろう。


翌朝。とてもイヤな感じと共に目を覚ました。
「くっそー……めちゃくちゃダルい……」
寝起きはもちろん、会社についてもまだ思いっきりどんよりしてた。
「けど、今日が正念場だからなぁ……」
この契約が決まるかどうかはうちの課にとっても重要事項。
課長が微笑みを向ける中で気合を入れて出張の準備をした。
「森宮、また出張なの?」
進藤が心配そうに見てたけど。
「ああ。例の病院」
答えながらいっそうダルくなっていく。
「どんな予定なの? 帰りはいつ?」
それでもまあまあ食欲はあって、朝メシはちゃんと食えたんだけど、今になって腹の調子まで……。
「予定が飛び飛びだから……本命の提案は明日の朝で、帰りは昼過ぎかな」
本当は他にもいろいろあったけど、面倒だったから細かい説明は省略した。
「じゃあ、午後は会社に戻るんだよね?」
「うまく行けばな」
これさえ決まれば風邪を引いて一週間寝込んでも全然オッケーだが、コケたら駆けずり回って数字を取り込まないとならない。まさに天国と地獄。実際のところ確率は半々で俺も気楽にはしていられない状態だった。ますます体に負担がかかる。
「じゃ、明日、うまく行ったら打ち上げってことでみんなで飲みに行こうよ」
「ああ、いいけど」
具合が悪かろうが、どうせ外食だからな。一人で食うよりはいいだろう。
まあ、樋渡のことであれこれ言われるのは面倒な気もするが、そんなもん適当に聞き流していればいいし。
「森宮、何食べたい? 店、予約しておくから」
別に美味ければなんでもよかったんだけど。
「んー、やっぱ和食かなぁ……?」
その返事に進藤が笑った。
「森宮って食べ物の話の時だけめちゃくちゃ可愛い返事するんだよね」
「そっかぁ??」
いつもと同じだと思うんだけど。
それよりも、進藤がそんなこと言うのは珍しい。
男に「可愛い」と言われるのはやっぱり違和感ありありだった。
まあ、一年中そんなことばっかり言ってるヤツもいるけど……
あれは病気だからな。
「樋渡みたいなこと言うなよな」
そうでなくてもダルいのに。
「さすが、森宮。分かるんだ? 実は今朝、樋渡に電話したらそう言ってたんだよ」
進藤、ちゃっかり樋渡と連絡を取ってたのか。
ってことは明日の飲み会も当然樋渡が来るんだろうな。
進藤のは純粋に親切心だから、怒っても仕方ない。心の中だけで「ちっ」と舌打ちをした。
俺と樋渡との間に溝ができるたびにこうして進藤があれこれセッティングをしてくれるんだけど。
……んなことしなくていいってハッキリ言った方がいいのかもな。
そうでなくても一人で過ごすのんびり夏休みを目指しているんだから、悪魔を召喚するような真似はしないでもらいたいもんだ。
「樋渡、心配してたよ。森宮がちゃんと食べてるかとか、夜更かししてないかとか」
そんなことを心配する以前に、俺を早朝に叩き起こすのとか部屋の鍵を壊すのをやめるべきだろ。
自分だけは何をしてもいいと思ってるのがムカつくんだよな。
まあ、樋渡もいない所でそんなことに腹を立てても仕方ないんだが。
それよりも、マジでダルい……。
「森宮、大丈夫?」
「へ?……ああ、なんとかな」
ここで気を緩めてはさらに悪化しそうだ。風邪薬を飲んだせいなのか妙に眠いし。
ふあ〜っとあくびをしながら、時計を見る。
なんだかぼんやりしてるんだけど……大丈夫か、俺。
あと少しで出かけるんだ。気を引き締めないと。
と思っていたら。
「あ、あとね、『すご〜くエッチなコトしよう、とか言う話題でも可愛いく"うん"て言って欲しいなぁ』って、樋渡が言ってたよ」
けっ。
死んでもそんなことは言わねーよ。
進藤もそんなほんわかした顔で熱が出そうなことを言うなよな。
「ったく、朝っぱらからのぼせてんじゃねーよ」
ぜんぜん元気そうじゃねーか、樋渡。
心配なんてしてやる必要ねえよ。
「じゃ、森宮、明日ね。出張、がんばって」
「ああ。終わったら電話するから。じゃあな」
ホワイトボードに行き先を書いて会社を出た。
それにしても、頭が痛い。ついでに吐き気がする。
でも、それは風邪のせいじゃないかもしれない。
「ったく、あのヤロー……」
進藤に言われたセリフを樋渡の口調で思い浮かべると、猛毒が一気に体中に広がっていくような錯覚に陥る。
「何が『可愛いく"うん"って言って欲しいなぁ』だよ。ちっ、やってらんねー」
重いカバンを持って、ブチ切れながら東京駅に向かった。
朝からこんなことでエネルギーを使い果たしたせいで、俺の抵抗力は限りなくゼロになった。



今日の提案先は地方で病院を3つ抱えるデカい医療法人だった。
「うわ……すっげーな」
大きな病院にしては対応がいいとかで、診療時間前だというのに受付にはすでにたくさんの人が並んでいた。
「森宮様、理事長と8時半のお約束ですね。しばらくこちらでお待ちください」
看護婦に言われて「はい」と答えたけれど。
急用があったとかで、約束の時間になっても理事長に会うことはできず、ひたすら待ち続けた。
「しっかし、すっげーよな。夏場になんでこんなにカゼ引いてるやつがいるんだよ」
俺も他人のことは言えないが。
「医者って儲かるわけだよな」
目に見えないウィルスが飛び交う待合室で妙な感心をしながら、ぼんやりと小一時間。
その後、ようやく応接に通された。
すでに体調は最悪だったが、心配していた仕事の話は意外なほどうまく進んで、あっさりと提案通りの契約を取りつけることに成功した。
「約款の重要項目は最初にご説明申し上げましたが、その他の項目もご一読くださいますようお願い致します。それと、こちらが提案書と契約書の控えになります」
書類をファイルにセットして理事長に渡した。
ゴージャスな部屋でホッとしながら麦茶を飲み、しばらく世間話。
こんなことをしている時間があるなら、俺の診察をしてくれ……と思っていたら、また急患だとかで理事長は慌しく出て行った。
「では、私もこれで失礼いたします。お忙しいところをありがとうございました」
同席していた経理責任者に礼を言い、カバンを掴んで病院を出た。
「うわっ……暑っ……」
外に出た瞬間、あまりの暑さに顔をしかめ、なのに全身に悪寒が走った。
新幹線に乗った後もそれは消えなくて。
「完璧にヤバイな」
朝からダルかったんだけど、病院の待合室で加速した感じだった。
「あーあ、ったく……でも、まあいいか。これで今月の数字も終りだからな」
あとは休みを取ってダラダラ過ごすだけだ。
今なら休みくらい1週間でも2週間でも貰えるだろう。
それにしても。
「だるー……」
気が緩んで新幹線のシートに沈み込んだら、ダルさが倍増した。
車内は案外寒い。
いつもはそんなこともぜんぜん思わないんだが、今日は妙にそれを実感した。
会社への連絡は後回しにして、東京駅につくまでの時間を寝て過ごした。
けど、それがマズかったのかもしれない。

駅に着いた時にはすでに風邪の諸症状が出はじめていた。
とにかく会社に電話を入れた。
「はい、最初の提案通りです」
課長のうきうきした声を聞き流し、
「なんか待合室で体調崩したようなので、ついでに夏休みをいただきたいんですけど」
課長からのハイテンションな『ゆっくり休めよ』の一言とともに俺の夏休みは成立した。
そのあとすぐに進藤にも電話を入れて事情を話したが、その時にはもう声がかすれていた。
『お大事に。ちゃんとご飯食べて。冷房の温度には気をつけて』
すっかり病人扱いされながら「ああ」を10回くらい言って電話を切った。


ダッシュで家に帰り、シャワーを浴びてさっさとベッドに潜り込んだ。
まだ昼になったばかりで部屋も明るい。なんだか妙な気分だった。
「どうでもいいけど、なんでこんな寒いんだ??」
進藤に言われたとおりエアコンは控えめ。
天気もよくて部屋には日が差し込んでいる。
なのに異常に寒い。
「マジで風邪だな」
ズル休みは何度もしたが、本当に風邪を引いたのは久しぶりだった。
「くっそー……」
提案先が病院なんかじゃなかったら、酷くなったりはしなかったんだろうと思うとちょっと面白くなかったが、仕方ない。
さっさと眠ることにした。
布団を被って数分後。眠りかけた時に夢の中で携帯が鳴った。
着メロを変えてるわけでもなんでもないけど、なんとなく樋渡だってことが判るあたりが嫌な感じだ。
「……ったく、うっせーんだよ」
電話はしつこく鳴り続けていたが、さらっと無視して眠り落ちた。


1時間足らずで目が覚めて、一番最初に思ったこと。
「……昼、食ってねーじゃん」
でも、外に買いに行くのは面倒だったから、食わずにまた寝た。
気持ちよく寝ていたつもりだったけど。
起きたら悪化してた。
「なんだよ、まだ3時前なのか。あんまり眠ってなかったんだな」
でも、腹は減った。仕方ないのでコンビニに行ったら、汗をかいて。
部屋に戻ってまたクーラーを最強にしてたら、もっと悪化した。
「やべ……のど痛くなってきた。熱あるのか??」
そう思って薬箱を探したが体温計が見当たらない。
しかも冷蔵庫を開けたら水がなかった。
もう一度コンビニに行くのも面倒だ。
「会社終わったら来てくれって進藤か中西に頼むか」
中西にメールをしてみたが返事はなかった。
進藤にもメールをしてみたが断られた。
『俺じゃなくて樋渡に頼みなよ。仲直りのチャンスだよ?』
仲直りしたいなんて思ってなかったんだが。
「……仕方ねーな」
でも、全てが面倒くさかったから。
「あ、樋渡。俺」
結局、樋渡に電話してしまった。



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