微妙な夏休み
-3-



樋渡はすぐに電話に出た。まだ仕事中のはずだから、アホな話ができなくてちょうどいい。間違っても「俺の可愛い麻貴ちゃん」などと連呼したりはしないはず。
そう思ったが。
『樋渡ぃ、ミーティング中だぞぉ?』
誰かの声が聞こえて。
『俺の人生がかかってるんだ』
ついでに樋渡の返事も聞こえて。
その瞬間に俺は電話を切った。
「……バカじゃねーの??」
メールだとアホ全開の返事が来て、さらに熱が上がるだろうという予想の元に電話をかけたんだが。
俺がバカだった。
いや、バカは樋渡なんだけど。
「普通、ミーティング中に電話は取らねーよなぁ……」
樋渡に話しかけてたヤツはたぶん同期の川口だから、たいしたミーティングじゃないとは思うんだけど。
それにしても、まともな神経があれば着信を見て後でかけ直すだろ。
「これで樋渡が帰ってきたりしたら、俺のせいみたいじゃねーかよ」
休み明けにはアホ樋渡の新しい伝説が俺のフロアにも広まっていないことを祈るだけだ。
そんなことになったら、また会社に行きにくくなる。
「あー、最悪」
んなことに人生かけるんじゃねーよ。
脱力のあまりグッタリと潰れていたら、樋渡から電話がかかってきた。
『大丈夫か、麻貴。声かすれてるぜ? 風邪か? メシ食ったのか? 薬は? 熱は? 腹壊してないか?』
……うるせーよ……。
『起きられるのか? トイレは? 着替えは?』
そんなにひどかったらわざわざおまえに電話なんてするかよ。そうでなくても体力を消耗するのに。
けど。
「……たいしたことねーよ」
そう言ってる声もえらく掠れていて、電話の向こうの樋渡がバカみたいに慌てているのがわかった。
『待ってろよ、すぐ帰るからな?』
やっぱ、そうなるのか。
迂闊に電話なんてするんじゃなかった。
「いらねーよ。んなことより、ちゃんと仕事しろって。……ったく」
ホントは夕飯だけ作りにきて欲しかったんだけど、この様子じゃ本当に仕事を放り出して帰ってきそうだ。
いくらなんでもそれはダメだろ。
「じゃあな」
電話の向こうで樋渡が何か叫んでた。
でも、頭がぼーっとして聞き取れなかったから、そのまま電話を放り出した。
「……体…温計……どこだっけ……樋渡に聞いておけばよかったな……」
樋渡を当てにしようとするあたりで、すでに弱ってるんだなと思ったけれど。
「まあ、いいか……」
その先はもう夢だった。

長いような短いような曖昧な夢は、悪夢と言えば悪夢で。
『俺の麻貴ちゃん』『大丈夫か』『愛してる』以外は何も聞こえなかった。



「……暑い……樋渡、エアコンつけて……」
うわごとを言いながら目を覚ました。
窓から見えたのはまだ薄明るい空。
なのに、部屋はちゃんとエアコンがついていて、見慣れぬ箱が置いてあった。
勢いよく蒸気が吹き出している。
「……加湿器なんて、うちにあったか……?」
朦朧としてたが思わず呟いたら、樋渡が顔を出した。
「気がついたか? 麻貴、39度も熱あるぞ? 風邪引いてるのにここまで除湿するヤツがあるかよ」
「……樋渡、会社は……?」
まさかこのために午後半休なんてことは……
時計を見たら6時半過ぎで。
「一応、定時まではいたけどな」
樋渡からはそんな返事があった。そう言うからには5時ピッタリに出てきたんだろう。
……ホントにバカだな。
「薬、買ってきたからな。メシ食ったら飲めよ」
心配そうと言えばそうも見える。けど、どちらかと言えば嬉しそうな樋渡にムカつくんだけど。
「いい……食えねー……」
それにしてもイマイチ気力が足りない。
「駄目だって。ちょっとだけ食えよ。胃が荒れるといけないから」
着替えを用意して、部屋に新しいタオルを積み上げて。看病する気満々って感じだった。ついでに妙なことをされなきゃいいけど。
そうは思いつつ。
「……ん」
逆らう気力なし。
「明日の朝、病院に行くからな? ちゃんと食ってちゃんと寝てろよ?」
にっこり笑って俺の額の汗を拭く。乾いたタオルが気持ちいい。
「……ん」
もはや全ての返事が「うん」だけど、樋渡はニコニコ笑ってて、なんと言うか、ずいぶんと楽しそうだった。
スキップしそうな勢いで部屋を出て、すぐに戻ってきた。
「じゃ、麻貴ちゃん、メシ食おうな? あ〜んして?」
レトルトなどではないちゃんとしたお粥に何種類かのトッピング。
用意して待ってたんだろうな。
俺を抱き起こして背中にリビングから持ってきたクッションを当てて。
ご丁寧にも湯気の立ち上るお粥を自分で吹いて冷ましてから食わせようとした。
「いらねーことすんなよ。自分で食える」
さすがにそれは止めろと思ったが、俺の拒否なんてすっかり無視された。
「ちゃんとお口開こうな、俺の可愛い麻貴ちゃん」
そのセリフの全てが気に入らなかったが、さすがにこの状態ではムダなことにエネルギーを使う気にもなれず。
不本意だったが黙って口を開けた。
「麻貴、」
一口食ったあと樋渡を見たら、なんだか俺よりもボーッとしてた。
「なんだよ」
早くも風邪がうつったのかと思ったが。
「……すっっっげー、可愛い……」
食ってる俺の顔にスリスリと頬を寄せる樋渡の周りにはハートマークが飛び散っていた。
あー…もう。
よけいに熱が出そうだ。


けど。
「ちゃんと食えよ。デザートも買ってきたからな?」
この時間にメシが出来上がってることから考えても、樋渡はダッシュで戻ってきたんだろう。
スーパーで買い物をして。ついでに薬も買って。
「水分取らないとな。ほら、お茶」
キャップにストローがついたペットボトルを渡されて、ガキくさいと思いながらも受け取った。
その間、樋渡はずっとニコニコと笑ってた。
「あのなー……」
食いにくいから、あんまりこっちを見るなよって言いたかったんだけど。
つい進藤の言葉を思い出してしまって、言えなくなった。
『森宮のこと、世界で一番大事なんだよ?』


――――それは分かってるんだけどな……


「美味い?」
家出してたのに。
「ああ」
それでも世話を焼いて。それについてはありがたいと思ってるけど。
「本当は俺がいなくて寂しかったんだろ?」
……なんか、すっかり立ち直ってるのは何故なんだ?
「別に。腹減ってただけだし。美味ければおまえが作ったんじゃなくても全然かまわねーし」
空腹が満たされてムカつく気力が戻ったので、とりあえず正直に答えておいた。



そのあと、薬を飲んでまた横になった。
ゆっくり寝ようと思ったのに。樋渡がぺたぺた触るから、なんだかあんまり休まらない。
「珍しいな、麻貴。冬だって風邪なんて引かないのに」
樋渡のせいでズル休みしたことは腐るほどあるけど、マジに風邪を引いたのは俺の人生が激変したあの日以来だった。
……まあ、あれに比べたら全然たいしたことはないんだけど。
「おまえも寝ろよ。もう、そんな具合悪くないから」
コイツのことだから、放っておいたら一晩中つきっきりなんてこともあるかもしれないと思って予防線を張ったつもりだったんだが。
「じゃあ、遠慮なく」
何を思ったのか、樋渡は俺の布団にもぐりこんできた。
「バカ、なにしてんだ??」
「一緒に寝ていいんだろ?」
……どう考えても、それは違うだろ。
「自分の部屋へ行けよ」
またここで攻防戦を繰り広げなければならないのかと思ってグッタリしたが、樋渡はおとなしくベッドから出て行った。
それから、俺の額に手を当てて、ついでに唇を押し当てた。
「ついててやるから、ぐっすり寝ろよ。何にも心配しなくていいからな」
俺が心配してるのは自分の体調じゃなくて、おまえの言動なんだけど。
頼むから妙な気は起こすなよ。今の俺には抵抗する体力がないんだ。
「ついでに思い切り甘えてくれていいぜ。着替えも風呂も全部俺がやってやるから。のどが渇いたら口移しで……」
これ以上聞いていると熱が酷くなりそうだったので、とりあえず布団を被って耳を塞いでおいた。
「おやすみ、麻貴」
樋渡の戯言もそれが最後で、その後は静かになったから、俺はすぐに眠り落ちた。
昼間は何度も目が覚めたのに、今度は朝まで一度も起きることはなかった。



すっかり明るくなってからカーテンを開ける。
外は快晴。はるか彼方に白い雲。絶好の夏休み日和。
なのに、隣には樋渡。
しかも、朝からせっせと俺の世話をしてた。
「汗かいただろ? 着替えような、麻貴ちゃん」
あまりに楽しそうな樋渡は何度見ても不愉快になる。
「麻貴ちゃん、お返事は?」
なので、無視することにした。
でも、樋渡はそのあとも勝手に話しかけていた。
内容は「麻貴ちゃん」と「大丈夫か」と「愛してる」のみ。
もともと会話になってないんだから、どうでもいいんだけど。
……それって昨日の昼に見た夢と同じだな。
「はい、麻貴ちゃん、パンツ脱いで」
妙なことをする気配はなかったから、とりあえず布団を被ったままごそごそと着替えをした。
そのままもう一度寝ようと思ったんだけど、樋渡が突然おねだりモードに突入した。
「なあ、麻貴。俺、お返しは麻貴のカラダでいいから」
「あ〜〜??」
もちろん看病のお返しってことだ。そんなことは俺だって分かってる。
けどな。
「何寝ぼけてんだ。んなこと言うなら、世話なんか焼かなくていいぞ」
樋渡は俺の言葉をしっかりと聞き流してから、頬をペロンと舐め上げた。
「やめろ。マジで怒るぞ」
メシを食いに行くのが面倒だったからって樋渡に電話したのが失敗だった。
せっかくの平和な夏休みが台無しだ。
「もちろん麻貴ちゃんがすっかり治ってからにするけど……明日には直りそうだよな?」
条件反射で体が硬直した。
「じゃあ、これから麻貴ちゃんとめくるめく甘い一夜の準備でもするかな」
めまいがして、ついでに頭痛も吐き気もした。
この調子なら当分具合は良くならないだろう。
「……どうでもいいから、冷凍庫で頭冷やして来い」
見向きもしないで言い放ったつもりなんだけど、樋渡はメゲてなかった。
「じゃ、ついでに麻貴ちゃんにも氷持ってきてやるな」
走って台所に行き、持ってきた氷を指でつまんで、いきなりパジャマの上から乳首に当てた。
「うわ、バカ、やめろっ。おまえ、実は俺の風邪がひどくなればいいとか思ってんじゃねーだろうな??」
樋渡はそこでふふんと笑って。
「熱はあんまりなくて、でも意識はあって体が動かない状態がベストなんだけどな」
……金縛りじゃねーんだから。
「マジでいっぺん死んで来い」
すっかり治る前に、なんとか樋渡がもう一度家出するような報復を考えたいところだが。
俺の脳はまだすべての活動を拒否していた。
「はい、麻貴ちゃん、口開けて。冷たいお茶飲んで。開けないなら口移し」
家出をしていた間に打たれ強くなったのか、能天気が炸裂してた。
でも、まあ、いいか。
あと少しだけ乗り切れば樋渡は会社に行き、俺は予定通り一人でゆっくり夏休みだ。
「じゃあ、麻貴ちゃん、熱測ろうな?」
楽しそうに体温計を取り出して、
「自分でやるからいちいちベタベタ触るなっ」
思い切り拒否を示した俺の手をつかみ、指先にキスをした挙句、口の中に入れやがった。
「やめろ。変態」
指の間とか舐めるのはよせ……っ!!
ペロペロ舐められているうちに妙な気持ち悪さに襲われた。
「麻貴の熱が37度を下回ったらOKってことで。な?」
樋渡はもうすでに自分の世界に行ってしまったらしい。
「いいから、会社に行く準備をしろよっ!!」
俺が叫んでも。
「何度あるかな? 麻貴ちゃん、今日も可愛いよ」
戻って来ない。
「遅刻するぞ??」
どうでもいいけど、ぜんぜん会話になってねーよ。
お互いかすってもいない。
体温計がピピピッと鳴るまでの間、樋渡は異常に楽しそうだったけれど、どうやら熱は上がっていたらしくていきなりため息とともに落胆した。
へっ、ザマアミロ……って、俺もあんまり嬉しくないけど。
「じゃあ、麻貴、今日は病院行かないとな?」
樋渡が着替え一式をそろえて持ってくるんだけど。
「おまえ、俺のことはどうでもいいから、もう会社に行けよ」
今から準備してもギリギリだと思うんだけど、樋渡は「ふふん」と余裕の笑みをもらした。
「今日は休みだ」
「はああ? 何言ってんだよ??」
今日、金曜日だぞ??
「有給だよ。どうせ余ってるし、ちょうどいいだろ?」
よくねーよ。頼むから出かけてくれ。
「このまま麻貴ちゃんと楽しい週末。楽しみにしてろよ。俺、テク磨いてきたから」
それが妙に自信満々で。
……なんか、また具合が悪くなってきた。



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