微妙な夏休み
-4-



病院が開くまでの時間、樋渡は腰を揉んだりしてくれたんだけど。
「あ、麻貴、ちょっと待て。電話するから」
9時少し前におもむろに携帯を取り出すと会社に電話を入れた。
課長を呼び出した挙句、
「はい。人生がかかってるので、今日は休ませてください」
それだけ言い放ってにこやかに電話を切った。
「おまえなー……」
コイツはこういうところがダメだと思うんだけど。言っても聞かないからどうしようもない。


脱力してパッタリとベッドに倒れ込んだ俺を見て、具合が悪いと勘違いした樋渡は妙にベタベタしながら病院までついてきた。
もちろん一人で行くと言い張ったんだけど、キレてしまっている樋渡にそんな普通の会話が聞こえるはずはない。
病院についても診察が終わるまでずっと待っていた。
そうでなくても怪しく見えるって言うのに。
「はい。じゃあ、聴診器当てますから、上だけ脱いでください」
言われた通りにTシャツを脱いでから、嫌なことに気がついた。
「アレルギーですか?」
若い医者の視線は昨日樋渡がつけた無数の赤い斑点に注がれていた。
「……違います」
一応、その一言で察してくれたけど。
なんとなく笑いを堪えている口元に見えたのは気のせいなんかじゃないだろう。
「はい、お薬です。お大事に」
受付で薬をもらう間も樋渡はすぐ隣に立ってそわそわしていた。
たかが風邪くらいで。
「おまえ、いい加減にしろよな」
文句を言いながら家に帰り、妙な疲れを感じてリビングでぐったりしていたら、樋渡の部屋に連れて行かれた。
「掃除するから、終わるまで俺の部屋で寝てろよ」
掃除機と布団乾燥機と新しいシーツ類。
まったくもって至れり尽くせり。
まあ、自分じゃ絶対にやらないことだから、こういう時は便利でいいけど。
「んー……」
なんとなく樋渡の匂いがするけど、サラッとしたシーツが気持ちよかった。
「けど、寝てばっかしだと逆に疲れるんだよなぁ……」
だからといって少しでも元気な素振りを見せると、いきなりヤラれそうだから、ここはおとなしくしていることにした。
「麻貴、水、ここに置いておくからな」
樋渡は掃除の合間にも時々様子を見にきて。
「……さんきゅー」
俺は本当に寝ているだけだ。
ものすごく鬱陶しいけど、何にもしなくていい。
「……樋渡が帰ってきたって感じだよなぁ……」
そんなことで実感するのもどうかとは思うけど。
「麻貴ちゃん、具合はどう?」
用もないのに部屋に来てはキスをして出て行く。
「風邪治ったら、もっといいことしような?」

……ホントに鬱陶しいんだけど。


うとうとしかけた時に樋渡が携帯を持って入ってきた。
「麻貴、進藤から」
こんな時間になんだろうって思ったけど。
『おはよ、森宮。調子どう?』
いつも通りの暢気な声が聞こえて。
「……まあまあ」
適当な返事をしたら、すぐに後輩と電話を代わった。
どうやら何かあったらしくて、その後は仕事の話だった。
『すみません、森宮さん』
第一声が詫びっていう辺りで聞かなくても趣旨はわかる。
『課長が出張なんです。でも、役職者に会わせて欲しいっていう契約者がくるんです』
「部長は?」
一番ヒマなヤツに頼めよって思ったんだけど。
『今日は月初めの金曜なので……』
「部店長会議か。役に立たねーな。客って何時に来るんだよ?」
今から用意して出かけたとしても、昼前には着きそうもない。
『1時です。経理部長が提案書の詳細で確認したいことがあるって……』
「そんなもん、誰でも説明できるだろ??」
そんなことでわざわざ役職者に会う必要はないはすだし。
ってことは、コイツが頼りなさ過ぎて心配になったんだろうな。
『でも、上の方と話したいっておっしゃるので……森宮さん、主任だし……』
まあ、こんな様子じゃ俺が契約者だったとしても心配になるけど。
だいたい主任は平社員だぞ?
わかってるのか??
『お願いします。何かと細かい先なんです』
アホくさいとは思ったが、仕方がないので出かけることにした。
「なんで麻貴が行くんだよ。進藤にでも頼めばいいだろ?」
まあ、そうなんだけど。
「バカ、進藤は隣の課だ」
トラブルになったら、巻き込むことになるし。だいたいこの時期に数字の取り込みが終わってなかったら、進藤だって目が回るほど忙しいに違いない。
どう考えても一番ヒマなのは俺だ。
「まあ、とにかく行ってみる」
客と話すだけならすぐに終わるはずだ。寝てるのにも飽きてきたからちょうどいい。
そう思って、シャワーを浴びてスーツに着替えた。
「麻貴って、後輩と事務の女の子に甘すぎるよな」
樋渡がぶちぶち文句を言うんだけど。
「みんなそうだろ」
救いようのないトラブルになってから後処理を頼まれるくらいなら、さっさと片付けておいた方がいいと思うのが普通だ。
「んじゃな」
出て行こうとしたら、樋渡が。
「麻貴、忘れ物」
って言うから、振り向いたんだけど。
「んっ、んんんっっっ」
……いきなり、どぎついキスをされてしまった。
それを引き剥がして、なんとかドアを閉めてエレベーターまでダッシュした。
「あー、危ねー……」
グズグズしてるとついて来られそうだ。
気をつけないと……



会社についたら、なんだかザワザワしていた。
よりによって係長以上は全員いなくて、年次の浅いヤツらがオロオロしてた。
「どうしたんだよ」
事務の子に声をかけたら、泣きそうな顔で振り返った。
「森宮さん、来てくれたんですね」
それよりさっさと事情を話してくれって。
進藤が外出していたから、手短に説明してくれるヤツもいない。
「お客様、もうお見えになってて……」
予定よりも1時間も早く来た契約者に担当の後輩が慌ててしまって、何かをやらかしたらしいってことだけは判明した。
「もうトラブってるわけ?」
「はい」
出社早々脱力。
「……とりあえず状況はわかったから。悪いけどなんか手土産買ってきてもらえる? 5000円くらいで。領収証もらって。交際費申請は接客が終わってから回すから、よろしくな」
仕方がないので資料の控えにざっと目を通してから、すっかり謝る態勢で応接室に入った。
「遅くなって申し訳ありません」
名刺を渡して、相手の様子を伺った。
細かい先だとは聞いていたが、イヤミを連発するタイプでもなさそうだった。
話の途中で客の電話が鳴って、「ちょっと失礼します」と席を外した隙に後輩から事情を聞いた。
「すみません、慌ててしまって」
よくよく話を聞いたら、後輩が違う契約者の提案書で説明したとかで。
「……救いようのないアホだな」
思わず頭を抱えた。
他の契約の情報を漏らすなんてうちの会社の管理体制を疑われる。慌てていたなんて言い訳にもならない。
客が戻ってきてから、一つ一つゆっくりと説明をした。まず、コイツがアホなだけだということを遠回しに話して、それから案件管理のシステムまで延々と説明して。
もちろん何度も謝って、さらに契約内容の詳細、経理処理の方法、その他諸々を説明しなおした。
やっと「わかりました」の返事をもらったのが2時間後。
「ご足労頂いて申し訳ありませんでした」
後日課長が挨拶に伺う旨を伝えて、菓子折りを持たせて見送った。
「……すみません」
客を乗せたエレベーターのドアが閉まった時、何度も後輩に謝られたけど。
「俺、今日はダルいから、説教はあとで課長にしてもらえよ」
さらに脱力しながら交際費申請書を書いて課長のデスクに回した。
帰ろうかと思っていたら、
「森宮主任、あの……」
課長に言えずにいたゴタゴタをここぞとばかりに出してくるヤツがいて、どう考えても夕方まで帰れそうになかった。
「森宮さん、大変ですね」
女の子は同情してくれるんだけど。
「まあ、忙しい時にやられなくて良かったけどな」
あまりの惨状にめまいがしそうだった。立ち上がる気力もなくて椅子と一体化したまま黙々と後処理の説明をした。
それも終わって、ふうっと一息ついた時、絶妙のタイミングで樋渡から電話がかかってきて。
「ああ、今終わったところ。課長が戻ってくるのを待って報告だけしたら帰る」
それだけ言って切ったんだけど。
不意に後ろから、女の子の「こんにちは」と言う声が聞こえて、振り返ったらTシャツ姿の樋渡が立ってた。
「おまえ、何してるわけ??」
今、電話切ったばっかりだろ??
「んー、麻貴ちゃんのお迎え」
実はこっそりと様子を見ていたらしいことが判って、俺はさらに脱力した。


それから間もなく戻ってきた課長に詳細を報告して、仕事を切り上げた。
「休みなのにいろいろ悪かったな、森宮」
とか言いながら、課長は俺じゃなくて樋渡を見て笑ってた。
ついでに。
「樋渡、相変わらず人生かけてるんだってな」
昨日のミーティング中の電話のせいなのか、今朝のズル休み電話のせいなのかわからないが、とにかくもう課長の耳にまで入っていた。
ニッカリ笑って「はい」と答える樋渡を横目に、
「……じゃ、お先に失礼します」
俺は一人でフロアを出た。
どうでもいいけど。
ってことは、部長も知ってんのかよ……


樋渡はすぐに追いかけてきて、結局一緒に帰ることになった。
樋渡が「たまには外で飯を食って帰ろう」と言うので、家の近くの店に入った。
時間もまだ5時で、客はまばら。
しかもまともなイタリアンの店に男二人は違和感ありありだった。
その上、店に入ってカウンター席に座ったとたんに樋渡が。
「麻貴、」
「あー?」
「愛してる」
またムダな会話を始めた。
「……外では言うな」
「じゃあ、家に帰ってからな?」
もう言い返す気にもなれなくて、運ばれてきたものを口に押し込んだ。
「麻貴、」
「なんだよ」
今度浮ついたセリフを吐いたらマジで帰るぞ、と思ったが。
「うまい?」
普通の会話だった。
「……まあまあ」
俺も普通に言葉を返したのに、樋渡が傍目にもわかるほど思いっきり緩んだ。
「なに笑ってんだよ?? 気持ち悪いヤツだな」
それでも樋渡は緩んだまま、もう一度「愛してる」と呟いた。
「おまえの反応、ぜんっぜん分からないんだけど」
うまいかと聞かれて「まあまあ」と答えただけなのに、なんで「愛してる」になるんだよ??
「いいんだよ。麻貴には分からなくても」
そう言われたから、その先は食うことだけに集中した。
そんな俺の横で、樋渡のハイテンションは持続していた。
「たまにはこうやって二人でメシ食うのもいいもんだよな?」
外で食うのがよほど嬉しかったのか、それとも『二人で夕飯=デート』だと思い込んでいるのか。樋渡は本当にゆるゆるになっていた。
「メシなんて3食一緒に食ってるだろ」
呆れ果てながらも極めて現実的な返事をしたつもりだったんだけど。
「麻貴、やっぱ可愛いよな」
なぜか樋渡を30%増しに溶けさせてしまったようだった。
「……わけわかんねー……」
疲れたので、それ以上の会話はせずに食うだけ食ってさっさと家に帰った。



シャワーを浴びて出てきたら、樋渡は楽しそうに冷蔵庫の中味をチェックしてた。
あまりにもご機嫌な様子に身の危険を感じ始めた時、進藤から電話がかかってきた。
『あ、森宮? 樋渡、会社まで迎えにきたんだって? じゃあ樋渡、立ち直ったんだね?』
進藤は仕事が大変だったことよりも、風邪を引いたことよりも、樋渡とのことを心配しているらしい。
「樋渡は……相変わらずだけど」
それを聞いた進藤はいつものほのぼのした声で『そう、よかった』と答えた。
相変わらずの樋渡が「よかった」なんて言える状態でないことは、俺にしか分からない。
『じゃあ、見舞いに行くよ。今、中西と夕飯食べてるから』
それを聞いてちょっと安心した。進藤だけならすぐに帰るかもしれないが、中西も一緒なら間違いなく朝までいるだろう。
どうやら、今夜は樋渡と二人で過ごさなくて済むらしい。
「ああ、じゃあ、後で……あ、ビールはあるけど、つまみは持って来いよ」
自分が酒を飲める状態なのかはイマイチわからなかったが、酒でも飲んでさっさと寝てしまうに限る。
『うん、わかった。何時くらいがいい?』
別にいつでもいいんだけど。
「樋渡と二人だと間がもたないから、できれば早い方がいいけどな」
その返事に進藤が笑ったから、意図は分かってくれたのだろうと思ったが。
『やっぱり、仲直りしたあとって照れくさいよね』
そんな普通の関係だったら、俺も苦労はしてないんだけど。そんなことを進藤に説明しても仕方ない。
「とにかく、頼む。じゃあな」
とりあえず、これで安心だ。後は二人が来るまで時間を潰せばいい。
「麻貴、梨むいたから来いよ」
ノックもなく開いたドアから樋渡が覗き込んだから、電話を切ってリビングに行った。
「はい、麻貴はそこに座って」
促されてソファに座って、その後は当然のように「あ〜ん」な状態が待っていたんだが、それは丁重にお断りした。
「ナシを食わせるだけだろ? なんでダメなんだよ? 理由を話してみろ」
それを真顔で質問する樋渡の神経を疑うんだけど。
「理由なんてねーよ。嫌なもんは嫌だ」
まったく。なんで毎回こんな会話をしてるんだろう。
「それより、麻貴。電話、誰から? また仕事の話なのか?」
会社に行って少し熱が上がったこともあって、樋渡は必要以上に心配してたけど。
「いや。進藤から。中西と一緒に見舞いにくるって」
見舞いって言うか、飲みにくるだけだろうけど。
「何時に帰るって?」
「んなことまで聞いてねーよ」
答えながらあくびが出た。薬を飲んだせいなのか、少しぼんやりしてるなとは思ってたけどなんだかものすごく眠くなって、そのままソファに潰れてしまった。
「麻貴、ベッドで寝ろよ」
樋渡が抱き起こそうとしてたけど。
「……ん……ここでいい……進藤たちが来たら起こして……」
最後の意識でそれだけ言い放って、あとはくーくー寝てしまった。
テレビの音が小さくなって。
あとはエアコンの音と、ときどき聞こえる樋渡の「愛してる」。

いいヤツだとは思うけど。
……ちょっと鬱陶しいんだよな。

そんなことを考えながら、気持ちよく眠った。
その後、一度、樋渡に起こされたような気がしたけど、目は覚めなかった。



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