約束の8時。ロールキャベツが程よく煮込まれた頃、麻貴はちゃんと帰ってきた。
「お帰り、俺の可愛い麻貴ちゃん」
少し疲れた顔で靴を脱ぐ麻貴の首筋を見下ろして、噛み付きたい衝動に駆られたが、かろうじて普通に出迎えた。
「……ったく、使えねーヤツばっか。課長もぼーっとしてないで、なんかやれよな」
なんだかんだと言っても、こういうところは恋人扱い。さすがに会社では言わない愚痴も俺にはこぼしたりする。
だから、『何でも言えよ、俺の麻貴ちゃん。できることは何でもしてやるからな』という気分になってしまう。
「すぐメシにするから、待ってろよ」
精一杯労いながら、気だるく視線を動かす麻貴の頬を押さえて唇を合わせる。
いつもなら速攻で抵抗されるところだが、よほど疲れているのか今日は避けることさえしなかった。
だが、それをいいことに思い切り舌を入れると、容赦のない拳が腹に入った。
今更なのだが、俺の可愛い麻貴ちゃんは口が悪い上に手が早い。少しでも緩んでいるとほんの少しだけ痛い目に遭う。
「着替えてくる」
麻貴はそのままダルそうに自分の部屋に行った。でも、すぐにルームウェア姿でキッチンに顔を出した。
「……なんか手伝うけど」
仕事の時とは違って、ややグズついた口調。
料理なんてまったくできないくせに、毎回ちゃんと「手伝う」と言って顔を出す麻貴はやっぱり可愛い。
「いいから。ゆっくり風呂に入ってこいよ」
麻貴だって決して不器用な方ではない。だが、興味のないことには全く関心を示さないこの性格からすると、料理ができるようになる日は永久に来ないだろう。
そんなわけで。
多分、俺は一生麻貴の傍にいられると思うのだ。
「麻貴ちゃん、簡単に食い物で釣れるからな」
幸い麻貴が好きなものと俺が得意な料理は一致している。おかげで、飲み会さえなければ麻貴はいつでもちゃんとまっすぐに家に帰ってくる。
「……問題は、俺よりも料理の得意な女がそれで麻貴を釣ろうとした時だな」
俺が全人生をかけて麻貴の世話をしても、同じサービスを提供できる奴にならあっさりと取られてしまうかもしれない。
もちろん今のところ麻貴に女の気配はないが、心配なものは心配だ。
そんな事情から、いろいろ考えた末に、女の子には絶対にできないことで繋ぎとめることにした。
つまり、カラダだ。
そう思った俺は日夜情報収集をし、アレコレ試してテクを磨き、少しでも麻貴の体に染み込ませておこうとしているのだが、麻貴は日常生活と同じように寝る時もかなり素っ気ない。
一度そういう状況になってしまえば後は流されてくれるのだが、とにかくそこに辿り着くまでが長いのだ。
「とにかく早くメシ食って、麻貴とゆっくりベッドで……」
達くときの麻貴の可愛い顔を思い出しながら、楽しく夕飯の準備を続けた。
やっぱり金曜日は楽しい。
料理が整い、皿を並べていたら、バスルームからそそる水音が聞こえてきた。
「覗きたい……けどな」
思わず浴室の前まで行ったものの、やはり思いとどまった。
そんなことで機嫌を損ねたら、せっかくの楽しい週末が台無しになる。
「麻貴、そこにパジャマ用意してあるからな」
ドア越しに声をかける。
返事はなかったが、まあ、聞こえてはいるだろう。
至れり尽くせりと中西たちには言われるが、それも下心あってのこと。
麻貴が自分で用意したら、着替えはTシャツとハーフパンツ。
それで寝られた日には脱がせるのが面倒なのだ。その点、パジャマならボタンを外せば胸は全開。全体的に緩いから脱がせるのは簡単だ。
もちろん麻貴はそんな俺の意図に気づくこともない。
用意してあったものを着て風呂から出てくる。しかも、下着が用意されていなければ、ノーパンでパジャマだけを身に着けてくる素直な性格なのだ。
しかも、風呂上りで暑いせいなのか、パジャマのボタンもろくに留めてないことが多い。おかげで俺は食事に集中できないのだが、麻貴本人は全く気にしていない。
普通なら誘ってると思われても仕方ない状況だと思う。
「本当なら、飯を食ったあとでテレビでも見て、その後二人でゆっくりと風呂に入って、体の中まで指で洗ってやって……」
パジャマなどという色気のない服装ではなく、バスローブ1枚だけをまとって、風呂上りにはソファで冷たいビールを飲みながら、まったりと深いキス。そのままなし崩し的に身体を合わせて……というのが俺の理想なんだが。
「……それを許してくれる性格じゃないんだよな」
妄想を広げまくっていたら不意にシャワーの音が途切れ、そこでやっと食卓の準備に戻った。
何にしても。
お楽しみはこれからだ。
タオルで髪を拭きながら出てきた麻貴は、ほどよく力が抜けた表情をしていて何とも言えず色っぽかった。
しかも、素肌にパジャマのみという格好だ。
「ほら、麻貴」
ビールを手渡すと「サンキュ」と言う言葉と共に食卓についたが、麻貴はすでにぽわ〜んというあくびを連発していた。
「メシ食ったら寝ろよ。シーツ替えてあるから」
一週間の疲れが溜まっている上に風呂で体を解してきたばかり。眠気もピークだ。
まあ、会社であれだけアレコレ言われては疲れて当然だが。
この分だと眠っている間に全裸にされても、きっとスヤスヤと健やかな寝息を立てているに違いない。そして、もちろん明日は休み。
俺の楽しい夜は約束されたも同然だった。
だが。
「……とか言って、寝てるところを起こすなよ」
ロールキャベツを口に入れながらも、麻貴は冷たい視線を飛ばしてきた。
どうやら俺の魂胆はミエミエらしいが、まあ、いいだろう。
事前に俺の行動が予測できていたとしても、やることは一緒なのだ。
しかも、睨んでるつもりの目はあくびのせいで少し潤んでたりする。
「麻貴ちゃん、ホントに可愛いよな」
俺のニッカリ笑いの意味を正確に把握した麻貴は露骨に嫌な顔をしたが、
「うまいか?」
話をロールキャベツにすり替えると、すぐに今までの会話は忘れてしまって、
「うん、うまいよ」
少し子供っぽい表情を返した。
麻貴は、外食中に同じことを聞いても「まあまあ」とか「それなり」とか適当な返事しかしない。でも、俺の作った物を「うまい」と言わなかったことは過去に一度もなかった。
本人はそんなことには全く気づいていないのだが、そういうところがまた妙に可愛い。
中西が二言目には「餌付けは卑怯だ。攻略法として男らしくない」と非難するのだが、それで麻貴が俺のものになるなら、何と言われても全く平気だ。
実際、麻貴を引き止めるためならどんな卑怯な手でも使うと思う。
「麻貴ちゃん、あーんして」
面倒くさがり屋な麻貴は、皮があったり、殻がついてたり、手を伸ばしても微妙に届かない位置にあるものは食おうとしない。なので、麻貴の好きなものを手の届かない遠い場所に置いたりして、「あ〜ん」を余儀なくさせるのもそれが理由だったりする。
麻貴も最初は文句を言ったり激しく抵抗したりしていたが、ここ最近は何も言わずに口を開けるようになった。
どうやら「あ〜ん」を言われるたびにいちいちゴネるのが面倒になったらしい。
本当に分かりやすくて可愛い奴だ。
パクンと俺の箸からグラッセを食べて、テレビを見る。
麻貴の生活空間に、俺は当たり前のようにいるんだなと思うとやはり嬉しかったりする。
二人だけで過ごす甘い時間。
そして、この後は……
「何、笑ってんだよ。気持ち悪ぃな」
口に入れたものを飲み込みながら俺を罵倒する麻貴に笑いながらお茶を差し出して、それをゴクゴク飲んだのを確認してから、そっと抱き寄せる。
それから深くて長いキス。
「だからっ!! 食ってる時にすんなって言ってんだろーよ??」
麻貴がブチ切れても。
困ったことに、ムッとしたまま俺を見つめているその顔が可愛くて仕方ない。
メシを食い終わった後、麻貴は眠そうに瞬きを繰り返していたが、とうとう耐え切れなくなってソファに突っ伏してしまった。
「自分の部屋で寝てろよ」
せっかくシーツを替えて、枕元に新しいローションとコンドームを用意したのだから、ここで寝られても困る。
「ん……まだ、起きてる」
むずかる麻貴の頬にキスをして、とりあえず上に毛布をかけてやってから、俺はキッチンで後片付け。
再びリビングに戻ってくると、麻貴は本格的に居眠りを始めてしまっていた。
テレビはつけっぱなし。新聞も開きっぱなし。リモコンも投げ出して、雑誌も床の上。
一人暮らしの頃、麻貴の部屋はとてもキチンと片付いていた。
「片付けるのが面倒だから散らかさない」
そう言っていたのに。
「なんで俺といる時は散らかすのかな、麻貴ちゃん」
眠っている唇にそっとキスをする。
それでもピクリとも動かない身体を抱き起こして部屋に連れて行った。
ベッドに横たえた身体は見るからにしなやかで、俺の理性はもう消えかかっていたけれど。
唇と首筋、それから、胸元にキスだけして、俺はリビングに戻った。
部屋を片付けて、テレビを消して。
「麻貴、疲れてたからな……」
仕方がないので一人で2回抜いてから寝室に戻ろうとしたら、中西から電話がかかってきた。
『やっほ〜、樋渡君。今から愛の巣へ遊びに行ってい〜い?』
どうせそんな用事だろうとは思っていたが。
「駄目だ」
毎度思うが、進藤はなぜ止めてくれないんだろう。
そんな疑問が過ぎった時、
『ね、中西。樋渡、なんだって〜?』
すっかり酔っ払いの進藤の声も背後から聞こえてきた。
なんだかんだと言いながら、いつもかなり遅い時間まで二人だけで飲んでいる。
そして、決まって俺と麻貴の部屋に遊びに来たがる。
『なんでだよ〜。冷たいなぁ、樋渡く〜ん。あ、じゃあ、麻貴ちゃんにかわって。麻貴ちゃんならいいって言ってくれるはず〜』
「麻貴を名前で呼ぶなと言っただろ」
飲むだけなら中西の部屋に行けばいいんだ。どうせ突然女が来たりすることもない。多少散らかってても進藤なら気にしないだろう。それに、うまく行けば進藤が部屋を片付けてくれるかもしれない。
……進藤が几帳面なのかはやや疑わしいが。
『はいは〜い、じゃあ〜、森宮に、か・わ・っ・て〜』
こいつとは10年来の付き合いだが、未だに空気が読めないので困る。
いや、実は承知の上でわざとやってるのかもしれないが、とにかくはっきり言うしかない。
「麻貴はもう寝た。絶対、邪魔しにくるな」
押しかけて来たところでドアは開けてやらないが。
『あ〜、それでダメなんだあ?』
こんな会話をしている間も麻貴はベッドですやすや眠っている。
「疲れてるみたいなんだ。可哀想だから起こすようなことはしたくない」
俺だって我慢してるのに、中西に麻貴の安眠を妨害されてたまるか。
『ふうううん。樋渡君ってば、相変わらず麻貴ちゃん好き好きなのね〜』
「まあな」
『イッちゃってるよな〜。脳みそヤラれ過ぎ〜』
それは大きな世話だ。
「とにかく、来るなよ。あ、進藤と電話を替われ」
酔っ払いの中西が同じく酔っ払いの進藤に携帯を渡す間にガッと大きな音がした。どうやら携帯を落としたらしい。
『こんばんは〜、樋渡』
ほのぼのと『調子どう?』などと言いながら出た進藤は中西ほど酔ってはいないのか、少なくともいつもとあまり変わりなかった。だから、「中西がこちらに向かおうとしたら阻止してくれ」と普通に頼むことができた。
「じゃあ、よろしくな」
『うん。任せて。じゃあ、中西、もう1軒行く? それとも俺んちで飲む?』
この分ならちゃんと中西を止めてくれそうだ。
電話を切って、安堵しながら麻貴の部屋に戻った。
「麻貴、俺もここで寝ていいか?」
ベッドの真ん中で手足を投げ出している麻貴は、もうすっかり夢の中。
問いかけても、唇を塞いでも身動き一つしなかった。それはもう、ヤバイくらい無防備で。
「抜いてなかったら、キレて押し倒すところだよな」
眠っていると、その整った顔が少しだけ幼く見える。
薄く開いた唇は見るからに柔らかそうで、あまりカールしていない長いまつげが色っぽい。
「……あーあ、可愛い顔しちゃって」
何時間こうしていても飽きないほど、眠っている顔を見ているのが好きだ。
深呼吸して体の熱を逃がしつつ、気持ち良さそうに毛布に包まっている麻貴の隣りに滑り込んだ。
しなやかな体を抱き締めて一緒に眠る。
何よりも、大切な時間。
明日もあさっても、その先も。
ずっと、こうしていられたらいい。
今、この時間があの日から繋がっているように。
この先も途切れることなく続いていけばいい。
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