-なんの代わり映えもしない日々-



-3-

「……んー……」
まだ寝ぼけていたけど、少しだけ意識が戻って時間を確かめようとしたら樋渡と目が合った。
っつーか、凝視されていた。
「穴が開くほど」という形容の通り、見られて穴が開くことがあるなら、俺の体はきっと今頃は蜂の巣状態だろう。
いつも中西と進藤に『この状態でよく寝られるな』と言われるが、樋渡の不審行動と俺の眠気は関係ない。
眠い時は寝るに決まってる。
そんなわけで。
「おはよう、麻貴」
満面の笑みで朝の挨拶などされたところで、起きられるはずもない。
怠い。眠い。まぶたが重い。
「……うっせー。だりい。話しかけんな」
思い切り拒否したつもりだが、樋渡がこの言葉を理解するかどうかは疑わしい。
案の定、次に降ってきた言葉は。
「じゃあ、麻貴は寝ててもいいから、俺に任せて」

……ってか、おまえ、俺の話聞いてるか?

俺の言葉は樋渡の脳に届くまでの間に歪曲されて違う言葉に変換されてるに違いない。
とにかく、まともに相手にしてはいかんのだ。
無視を決め込んだその瞬間、
「麻貴ちゃん、俺と結婚しない?」
また、ありえねー冗談が……。しかも、耳元で繰り返される。
「まーきちゃん。今度来る時は指輪買ってくるから」
いや、きっとこれは空耳だ。幻聴だ。
そうに違いない。
……と、しばらく自分に言い聞かせた。
「麻貴、聞こえてるか?」
聞こえてはいたが。
「……ねみー……」
あっというまに睡魔が再来。
もう何を言われても気にならなくなった。
というか、樋渡が隣りにいると脳が全てをシャットアウトしようとするのか、条件反射で眠くなる。
まあ、最近の樋渡は俺を起してまでアレコレすることはないし。
ということは、寝てしまえばこっちのもんだ。

そんなわけで。
何も聞こえなかったことにして、もう一度安らかな眠りについた。




再び目覚めたのはもうすっかり昼を過ぎた時間。
不覚にも昼飯の匂いにつられてしまった。
しかも、食卓に並べられたのは最近口にしたことがないような家庭的なものばかりで、食った瞬間に「やっぱり美味いよな」と思ったが、調子に乗ると厄介なのでそれは死んでも口に出さなかった。
それに俺が言わなくても、どうせ樋渡から聞いてくるだろう。
と思っていたら。
「うまい?」
やっぱりすぐ隣でニコニコしながら返事を待つ。
「……うん」
樋渡自身はそれほど食べていなくて、その上、先に食い終わったかと思うとその後もせっせと働いてた。
しかも、やけに楽しそうだ。
「つーか、樋渡、せっかくの休みに何してんだよ?」
遊ぶか休むかどっちかにしろよって思ったんだけど。
樋渡はとても真剣に答えた。
「せっかくの休みだから、好きなことしないとな」
そりゃあ、そうだろうけど。
「ひとんちでメシ作るのが楽しいのかよ?」
俺なら死んでも嫌だ。
けど、樋渡は異常に楽しそうだった。
「麻貴と二人で普通に過ごそうって思ってさ」
そんなことを真顔で言われて。
「……なんだよ、それ」
そう返して、コイツは本当にバカだったんだなと心底思った。
けど、不覚にも少しだけツキンと心臓が音を立てた。
なんでそんなどうでもいい会話に反応しているのか、俺自身にもわからなかったけど。
「まあ、そういうことだから、麻貴もいつもと同じようにしてればいいからな」
そんなこと言われたら、食って、寝て、新聞読んで、テレビ見て、また寝るだけなんだけど。
「そんでいいわけ?」
でも、樋渡は満面の笑みで「いいよ」と答えた。
樋渡のクセに、なんだか二ヶ月の間に大人になったじゃねーかと思っていたが、その直後、背後に悪寒が通り過ぎて。
「もちろんちゃんと『イイコト』もするけどな」
結局全く進歩していないことを確認してしまい、耳元で囁かれるふざけた言葉を無言で聞き流した。
「麻貴、怒った顔もやっぱり可愛いよな」
その後、また「うちゅ〜っ」と吸い付かれそうになったのをグーパンチで撃退して、少し距離を保った上でベッドに座り直した。
よく考えたら、今までの家と違ってソファなどという気の利いたものがないので、生活圏のほとんどはベッドの上になるという、あまり思わしくいない状況だったが、樋渡も昼間からどうこうしようとは思わなかったらしく、ごく普通にコーヒーを入れてくると当然のように隣りに座った。
だが。
「……おまえ、飲まないわけ?」
コーヒーカップは俺に手渡された一つだけ。
いつもなら「麻貴ちゃんと一緒に食後のコーヒー」とか言いつつ並んで飲むのに、腹でもこわしたのかと思っていたら。
「マグカップ、一つしか出てなかったからな」
そんな厭味を。
「……ああ、そうだっけか」
すっかり忘れていたが、確かに意図的にそうした記憶が残ってた。
「麻貴はちゃんと俺が来るって思ってたんだろ?」
「……まあな」
来るとわかってる相手のものを出してないってーのは、明かに歓迎してないってことで。だから、樋渡が拗ねたとしても仕方ないんだが。
「だったら、自分で出してこいよ」
今更機嫌をとっても仕方ないと思ったから、そんな返事をしたんだけど。
それでも樋渡はなぜかえらく上機嫌で。
「麻貴ちゃんと同じカップで食後のコーヒー。いつもの三倍は美味いよな」
緩んだ顔でそんなことを言いつつカップを取り上げて、わざわざ俺が口をつけたところから飲む。
ある意味、非常に前向きだが。

……この性格はありえねーよ。


それから後も万事そのノリで。
「愛してる」と言われること数十回。
そのたびに抱きしめられて、グーパンチで撃退して。
「ったく。おまえといると疲れるんだよな」
何度もベッドの上から排除しようと試みたが、そんな努力も無駄に終わった。
どうしても押し倒したいらしい樋渡を「明日も仕事だからダメだ」の一言で思い留まらせて、とりあえず寝られる時間を目いっぱい寝て過ごした。
まあ、何事もなかっただけいつもより数段マシだが、それでもやっぱり疲れることに変わりはない。
一日のほとんどを寝てすごしたが、いくら寝ても寝足りないような気がした。



「あー、だりィ……」
翌日は予定通りの日曜出勤。まだ街が静まり返っている時間に目を擦りながら支店のドアを開けた。
樋渡だって月曜は仕事だから、今日のうちに帰るだろうと思っていたんだが。
「ああ、大丈夫。明日の朝こっちを出ても間に合うんだ」
そんなことを言いつつ、やっぱり当然のように支店までついてきた。
「あ、樋渡さん。おはようございます」
「わー、本当に森宮さんが言ってた通りですねー」
もちろん「仕事を手伝うため」という名目だったから、支店の連中には歓迎されたけど。
その30分後。
「樋渡さーん、離れてて心配じゃないですか?」
多田がまた遠距離恋愛相談室を始めて。
「んー、心配だよ。ちゃんとしたもん食ってるかとか」
しかも、樋渡が楽しそうに答えるもんだから、仕事の合間の話題がずっとそれだった。
「おまえら、仕事中に無駄な話をするな。っていうか、樋渡はもう東京に帰れ」
俺がどんなに激怒したところで誰も聞いてない。
「えー、そうじゃなくって、他に好きな人ができたらとか、そういうことですぅ」
多田がまたノンアルコール酔っ払い状態になっていたので、そんな会話が延々と続く。
「ああ、それは大丈夫。俺と麻貴の間に割って入れるヤツなんていないから」
そんなことを恥ずかしげもなく言い切る樋渡も樋渡だ。
まあ、ヤツの場合はマジで脳がイッてるから仕方ないんだけど。
「おまえなぁ……日曜とはいえ、ここは会社だぞ? バカは大概にしろって。そういうところが相変わらず過ぎて、ぜんっぜんついていけねーんだよ」
ってか、ついていく気もないし、ついてきて欲しくもないんだが。
「麻貴ちゃん、照れ屋さんだからな」
「……アホか」
今すぐコイツを頭からゴミ箱につっこんでフタをしてしまいたい衝動に駆られたが。
「麻貴ちゃん、ずっと二人で楽しく暮らそうな?」
なぜかそれ以上怒る気にはなれなかった。
「……いいから、仕事しろ」
きっとコイツは一生このままなんだろう。
離れていてもいなくても、勝手に側にきて、勝手に世話を焼いて、勝手にのろけて。
マジでアホ全開だよなと思うけど。
多田はやっぱり今日も「いいですよねー」なんてうらやましそうに呟いていた。
「本気で言ってんのか?」
「当然ですぅー」
どうやら多田は思考回路が微妙に樋渡と似ているらしく、注意などしたところで全てが無駄だった。
「桑山も黙ってないで何か言えよ。『バカ言ってないで帰れ』とか、『邪魔だから来るな』とか。後輩だからって遠慮することないんだぞ」
せめて残りの一人だけでも味方につけて、なんとか全体を仕事モードに戻そうとしたんだけど。
桑山は少し離れた席から温かくこちらを見守っているだけで。
しかも。
「なんか息がピッタリって感じでいいですよね」
そんなよけいなことまで言うもんだから、多田がまた悪乗りして。
「ですよねー」
状況はさらに悪化してしまった。
「どこが『ピッタリ』なんだか俺に分かるように説明してみろ」
まったく勘違いも甚だしいと思うんだが。
「だって、毎日一緒にいるんだなーって感じですよー」
「でも、俺なら他人と毎日一緒にいたら疲れそうですけどね」
桑山の意見については俺も思いっきり同意したかったが。
その時、目の前に座っていた樋渡が突然にっこり笑って。
「そうだよな。それに、麻貴は人一倍マイペースだからな」
そんな返事をしやがった。
「んなことねーだろ」
というか、たとえそれが事実だったとしても、おまえにだけは言われたくない。



結局、意気投合してしまった多田と樋渡は置き去りにして。
「じゃあ、桑山。残りの申請今日中にメールしといて。リターン分のチェック、5時までな」
「わかりました」
俺と桑山だけで仕事を再開した。
小一時間ほど顔さえ上げずに黙々と申請書類を作っていたら、
「麻貴、先に費用を回しておけよ。企画絡みにしておけば絶対に通るし。それと……」
樋渡もやっと仕事モードに切り替えてくれたんだけど。
全部言い終わった後に毎回「愛してるよ」とか付け足したりするもんで。
「ジャマすんなら家に帰れ」
俺もブチ切れた。だが。
それくらいのことで怯む樋渡でもなく。
「人手足りないんだろ?」
それは確かにその通りだけど。
「……だったら、普通に仕事してくれ。仕事以外の話は禁止」
それに対して樋渡は普通に頷いた。
けど。
「早く終わらせて早く帰ろうな。愛してるよ、俺の麻貴ちゃん」
コイツの脳はやっぱり末期だ。
陰ながら見守っていた桑山にも樋渡の現実はしっかりと見えたのか、もはや曖昧な笑みを浮かべているだけだ。
「……まあ、なんつーか……今のは全部聞かなかったことにしてくれ」
樋渡がおかしいだけなんだから、おまえが固まることはない。
そう言ったら、「そうですね」と静かに頷いていた。



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