『構うな』ってことは『早く帰れ』って意味なのに。
颯は俺の言うことなんかちっとも聞いていなかった。
「おまえ、苗字はなんて言うんだ？」
また唐突な質問。そんなことばっかりだ。
「変なことばっかり聞くよな。なんか、あんの？」
颯がまた黙り込んだ。
「理由教えてくれたら、苗字、答えてもいいけど」
本当は答えなんてわかっていた。
けど、颯の口から聞きたかった。
きっぱりと諦めるために。
俺なんか、側にいられるはずないってことを思い知るために。
「人を探してる。おまえくらいの歳で、おまえみたいな茶色い目の……」
答えは予想した通り。
俺はまたあの日と同じ気持ちを噛み締める。
「それは俺をいくつだと思ってるってこと？」
「せいぜい１６、７ってところだろう？」
……当たってる。
誰からもそんなにガキに見られたことはないのに。
「そいつ、俺に似てんの？」
「そうだな。しゃべり方がよく似てる」
写真は子供の頃のものだったから、てっきり最近のことは知らないのかと思ってたけど。
最後に会ったのは、いつなんだろう。
どんな話をしたんだろう。
写真でしか知らない少年に、俺は嫉妬していた。
また胸が苦しくなる。
「……ナツハラだよ。俺の苗字」
とりあえず答えた。約束した通り。
「トーキも本名。フルネームは、夏原東騎」
「……そうか」
颯は真後ろで俺の身体を支えていたから表情までわからなかった。でも、すごく落胆しているんだろう。
背中越しに深い溜息が伝わってきた。
「そんなに大事なんだ、そいつ？」
もう何年も経つのに。
はっきり違うと分かるまではなかなか諦められないものかな……
俺を一生懸命看病してくれた颯の気持ちを考えると切なくなった。
少しだけ身体を捻って後に向けた。
何か言葉をかけたくて。
なのに。
人違いと判ったはずなのに、颯は俺の顔をじっと見つめた。
「……なに？」
俺の問いに答える代わりにキツく抱き締めた。
苦しいほどにギュッと。
首筋に颯の呼吸を感じた。
「……最初に見た時、絶対そうだと思ったんだがな……」
店のロッカー室で会った時、颯は驚いたような顔をしていた。
それで年齢を聞いたんだ。

１６、７の男……
しかも、はっきりと顔も知らないような相手。
一晩のナントカってやつ、かな。
それにしては、あの写真……子供だったよな……
ってことは、子供のとき別れてそれっきりだった相手に偶然会って、一晩を過ごして…みたいな感じなんだろうか。
嫉妬することさえ、身のほど知らずだって。
バカだよな、俺。
「……あんた、苗字、なんて言うの？」
今度は俺が颯に尋ねた。
「タカツキだ。高槻颯」
「じゃあ、高槻さん。探してるのってコイビト？」
そうだと言われれば、仕方ないと諦められるかもしれないのに。
俺が一番知りたいことは答えてくれなかった。
「店の連中みたいに名前で呼べよ」
「苗字が嫌いなんだ？」
その質問にも颯は答えなかった。
「名前を呼べって言われてもさ」
俺は、いかにもゲイバーのホストっぽい「颯さま」という呼び方に抵抗があった。
「呼び捨てでもいい？」
「そうだな。その方がいい」
颯は抱き締めていた腕を緩め、俺を布団に寝かせた。
「もう少し休めよ」
「……颯は？」
コイビトを呼んでいるみたいだと思った。
呼び捨てでいいかなんて聞かなきゃよかった。
どんどん苦しくなる。
呼吸さえままならないほどに。
「一緒に寝ようよ。なんにもしないから」
颯は昨日も一昨日もあまり寝てないはずだ。
「当たり前だろう？ そんな酷い熱で何を言ってるんだ」
叱られているのに、俺は颯の腕を引っ張った。
だって、布団は一組しかないし、ソファもないんだ。
「カーペットの上に寝るよりは格段にマシだろ？　それとも家に帰るつもり？」
そんな言い方をする気はなかった。言ってから、キュッと口をつぐんだ。
絶対、そんな素振りは見せないと心に固く誓っていたのに。
これじゃあ帰って欲しくないと言ってるのとおんなじだ。
それでも颯は横になろうとしなかった。
……やっぱ、帰んのかな……
俺が元気なフリをすれば颯も帰りやすいかもしれない。
そう思って身体を起こした。
けれど、颯は起き上がる俺の身体をすかさず後ろから支えた。
これじゃあ何の意味もないと思いながら、薄いＴシャツ越しに感じる颯の指先に意識が集中してしまう。
「……な、一緒に寝てよ」
結局、自分の気持ちを抑え切れずに、熱で痛む身体を捻って颯の首に抱きついた。
颯の匂い。
あの時と同じ気持ちにさせる。
大きく息を吸い込んだ。
颯は何も言わなかった。
抱き締めてもくれなかった。
けれど、気持ちを止めることができなかった。
熱のせいだ。
俺は自分に言い訳をした。
熱と気怠さに勝てず、全体重を預けてそのまま眠り落ちた。
夢うつつの中で、颯の腕が俺の身体を抱き締めるのを感じた。
懐かしい匂いが、忘れると決めたはずの過去を鮮やかにした。

最初に会った日のことを、颯はもう忘れている。
いいや、忘れているんじゃなくて、最初から覚えてなんかいないんだろう。
俺がこんなに苦しいのは、熱のせいじゃない。
早く忘れたい。
でも、忘れたくない。

――――こんな風に会わなければ、良かったのに……





俺がすっかり復活した日から数えて３日後に颯は一人で店に来た。
さすがにその時はフェイドアウトしなかったが、相変わらず店では颯の近くに寄らなかった。
「避けられている理由が分からないんだが？」
すれ違いざまに颯はいきなり俺の腕を掴んだ。
周囲の視線が集中する。
そんなことされたら、まるでもう俺は颯のモノみたいに見えるのに。
「避けてなんていませんけど」
わざと素っ気なく答えた。
そういう間柄ではありませんと言わなくても分かるように。
「なら、ここに座って話し相手をしてくれないか？」
「かしこまりました。何かお飲みになりますか？」
「普通に話せよ」
他のホストに対しては丁寧語なのに、どーゆーことだよ。
店では文句を言うこともできないけど。
「分かったよ。なんか飲む？」
家にいる時みたいに話してたら怒られるのは目に見えてるんだけど。
「なんで避けてる？」
「避けてなんかねーって。颯、ちやほやされてっから、近寄るのヤなんだよ」
そう言った瞬間。
「トーキくん、お客様を呼び捨てにしてはいけませんよ」
やっぱり店長に怒られた。
「はいはい。じゃ、颯さま」
「様は付けるな」
今度は颯がムッとした。
「って、言われてもさ、俺、怒られるし」
チラリと視線を移してお伺いを立てたが、さすがに店長もそれ以上は咎めなかった。
でも、他のホストからは非難ごうごうだった。
颯が電話をかけるために席を立った時、ほぼ全員から文句をつけられた。
「馴れ馴れしいよ、トーキ。お客様なのに」
「そうだよ、トーキの客でもないのに」
「マコトっちだって、本間さん、呼び捨てじゃん」
「彼氏なんだからいいの。トーキ君とは違うんだから」
「あ、そ」
言い争う気力もなくて、無理やり話を終わらせた。
けど、俺が颯を呼び捨てにするたびにみんなが快く思ってないってことがヒシヒシと伝わってきた。
なんか、憂鬱だ。
「東騎」
考え事をしていたから、呼ばれた時にドキッとした。
颯に名前を呼ばれるのは、多分これが初めてだった。
「なに？」
お客様にその口の利き方はなんだと咎める視線に囲まれて、うんざりする。
なのに颯は構わず話し続ける。
「帰りは何時だ？」
「今日は早い日だから１時３０分。なんで？」
また冷たい視線。
けど、丁寧口調に戻ったら、颯の機嫌が悪くなるんだぞ？
店長に視線で助けを求めたのに、知らないフリをされた。
「話がある。送っていくから終わるまで待ってるよ」
「今、話せば？」
送っていかせるよりは、タメ口の方がお咎めは少ないはずだし。
颯は一瞬ためらったが、口を開いた。
「おまえ、２年くらい前に横浜に住んでいなかったか？」
２年前、横浜……―――
思い当たることがあった。
また、その話かと思った後、音を立てて血の気が引いた。
ちょっと、待て。
俺がそいつじゃないってコトは、この間確認したはずだ。
って、ことは……――――もしかして、気付いた……？
「俺は、生まれてからずっと東京都民です」
「そうか」
風邪は全快していた。気持ちさえ弱っていなければ隠し事なんてお手のものだ。
本当はめちゃめちゃ動揺していて心臓が飛び出そうだったけど。


颯と初めて会ったのは横浜だった。あの写真を持ってアイツを探している時のことだ。
俺と同じくらいの歳で、茶色い目をしている例の少年。
颯は今みたく金持ちそうにも見えなかった。それに、今よりもずっと軽薄そうで遊び人ぽく見えた。
俺はまだ中学生だった。ちょうど家を飛び出して遊び呆けていた頃で、酔っ払って派手なケンカをした後だった。
おかげで、その時の記憶はあんまり確かではない。
あの時、颯は俺に「大学生か？」と聞いたんだ。
だから、歳がバレないよう「大学には行ってない」と答えた。
ってことは、最低でも１８くらいだと思ってたはずなのに。
なんか、つじつまが合わないような……
ってことは、別に俺に気付いたわけじゃないのか。
あー、もう、ぜんぜん、分からない。
もともと曖昧な記憶だから、考えても分かるはずはないんだけど。
油断すると溜め息が出る。
客商売なのに、それってマズイよな。
でも、「あ〜あ」って感じが体から抜けなかった。



話は済んだはずなのに、颯は俺の仕事が終わるまで待っていた。
いつもならある程度の後片付けをしてからあがるのだが、今日は店長に早く帰りなさいと促された。
普段着に着替えてロッカー室を出ると、颯が待っていた。
「送ってくれんの？」
「ああ」
そんな素っ気ない返事に心臓がキュッとなる。
「じゃあ遠慮なく」
屈託ないフリって言うのも、なかなか大変だ。
特に今回は悟られたくなかったから必死だった。
颯が車の前で颯は足を止め、俺の顔を見下ろす。
何かと思ったら、また質問だ。
「本当に横浜に住んでなかったか？」
「またその話？ くどいよ。なんかあるわけ？」
「大事なことなんだ」
横浜にいたのは家出をしていた半月の間だけだった。
家に帰りたくなくて卒業した先輩のアパートに転がり込んでいた。
嘘にはならない。
颯は諦め切れないのか、じっと俺の顔を見ている。
それから、俺の顎に手をかけた。
俺が振り払う前にまた質問。
「この傷、どこでつけたんだ？」
俺の頬から耳にかけての３、４センチの傷。
子供の時、父親と母親のケンカに巻き込まれてガラスで切ったものだった。
たいしたケガじゃなかったのに、まだ傷が残っている。
「……さあ？ あんまりよく覚えていないよ」
２年前、俺は颯にこの傷の理由を話したんだろうか？
それを覚えていなかったから、適当にごまかした。
「でもさ、人間そんな急には変わんないだろ？ そんなに一生懸命探してるヤツなら顔見てわかんないわけ？」
わからないから何度も聞いているんだろうけど、俺ははぐらかすためにわざとそう言った。
思った通り、颯はまた黙り込んだ。
沈黙のまま、アパートの前で車は止まった。