「コーヒーとか、飲んでく?」
礼儀として誘ってみた。颯は明日も仕事だから断るだろうと思って。
けれど、黙って車を降りてキーロックした。
予想外のことだったから、ちょっと焦った。
……俺んち、コーヒーなんてあったっけ?
わたわたしながら階段を上がる。
鍵のかかっていない部屋。無造作にドアを引き、颯を迎え入れた。
靴を脱ぐのに手間取っている俺を尻目に、颯はさっさと中に入る。
俺んちなんだけど、もう何回も一人で出入りしているせいか遠慮もない。
勝手にキッチンでコーヒーを入れ始めた。
「颯、俺やるから……」
「座ってろ」
「……俺んちなんだけど……」
「分かってる」
なんでこうなるんだよ。
腑に落ちない気もしたが、俺は大人しく座って待つことにした。
湿気たようなインスタントコーヒーなのに、颯が入れるといい香りがした。
颯が無愛想に差し出したカップを両手で受け取り、口に運ぶ。
それを見届けてから、颯もカップに口をつけた。
「うまいか?」
「うん。うまいよ」
颯の安堵した顔が妙に胸を締め付けた。
店で会ったのが最初なら、俺は手放しで颯に惚れたに違いない。
颯が他の誰かを探していても、気にせずに一生懸命誘っただろう。
けれど。
もう、颯にはフラれたくなかった。
あの後、どんなに辛かったかを忘れたわけじゃない。
家族はバラバラで、愛情を与えてくれる人もいなかった。
相談に乗ってくれる相手も、泣き言を聞いてくれる相手も、俺には何もなかった。
気を紛らわすために遊び歩いた。
抱かれれば好きになるかもしれないと思って、いろんな奴と寝た。
けれど、颯のことを忘れられなかった。
歳も名前も知らない男なのに。
酒のせいでカッコ良く見えただけ。あんなの幻と同じだ。
何度も自分にそう言い聞かせた。
それでも、忘れられなかった。
「どうした? まだ、具合悪いのか?」
「そんなことないよ」
目の前でコーヒーを飲む颯は、俺の記憶よりもずっと優しくていいヤツだった。
「……あのさ、」
見とれてるだけだと、あと少しで言ってしまいそうになるほど。
「俺……もう、颯に会いたくないよ」
「何故?」
「なんとなく」
微笑むことができなかった。
目を見ることも、顔を上げることも。
そのあと颯はなんにも言わずに部屋を出ていった。
飲みかけのコーヒーを置いて。
あれから店にも来なくなった。
清水さんに聞いても「忙しいらしいよ」と言うだけ。
けど、本当の理由はわかってた。
「トーキ、なんか失礼なことしたんじゃないの? まあ、平気で人の客取るような性格だから、何かやってたとしてもぜんぜん不思議じゃないけど」
ロッカー室で髪を整えていると、ナンバーワンのミサトさんに詰め寄られた。
一目瞭然、メチャクチャ機嫌が悪い顔だった。
さっきミサトさんの得意客からケータイの番号を渡された。それを見られたんだろう。
颯のことを考えなくて済むように仕事に没頭していただけで、相手に気に入られようなんて少しも思ってなかったのに。
世の中って本当にうまくいかない。
ますます気が滅入った。
「……俺、颯には何もしてないよ」
『会いたくない』って言っただけだ。
そんなの何かしたうちに入らないだろう。
「絶対に嘘。店に来なくなったの、トーキのせいだっ!」
本気だったのにとミサトさんは泣きじゃくっている。
「その上、常連客まで取るってどういうつもり?!」
泣きながらも俺に突っかかってくる。
みんな真剣なんだよな。
大変なのは俺だけじゃない。
「ごめん。でも、ミサトさんなら他にいくらでもいるじゃない」
ケータイ番号の書かれた紙は目の前で破いて捨てた。
「金のためだけにゲイバーで働いてるヤツには分かんないよっ!!」
店長も他のホストたちもみんなミサトさんの味方だ。
まあ、当たり前か。
颯が探している人に似ていることを利用して俺がつけ込んだようにしか見えないんだろう。
―――……俺も本気だったんだけどな
言っても誰も信用しないだろうけど。
別に分かってもらいたいとも思わなかった。
その日はどうしても荒れたムードが漂ってしまい、早めに店を閉めることになった。
客のいなくなったフロアで、ミサトさんはまだ俺に当たり続けていた。
化粧がグチャグチャになるくらい泣いて、手当たり次第にモノを投げつける。
「ちょ、っと、ミサトさん、やめてよ。店、壊れるよ」
「うるさいっ」
なんとか止めようと思って近づくともっと暴れ出して、もう手がつけられない状態だった。
ガッシャン―――
大き目の灰皿が壁に当たって砕ける。
辛うじてそれは避けたものの、次に飛んできた小さな花瓶は俺の後頭部を直撃した。
あっという間に目の前が暗くなった。
病院のベッドで俺は店をクビになったことを知った。
今朝店長が解雇の連絡と店の修理代の請求書を持ってきたことを話すと、見舞いに来てくれたヨシトは苦笑いした。
「それで東騎はなんて返事したの?」
「分かりましたって言ったよ」
素っ気無い返事にヨシトが肩をすくめる。
「東騎らしいけど……ムリしない方がいいよ」
「わかってる」
頭のケガはたいしたことなかったが、どんな倒れ方をしたのか右腕にヒビが入っていて、右足は捻挫していた。
ミサトさんも顔に軽い怪我をして店を休んでいるらしい。
「店長はミサトさんのご機嫌取り。毎日マンションに見舞いに行ってるよ」
俺のところには一度顔を出したきり。
しかも、そのとき渡された請求書には法外な金額が書かれていた。
「君が払えるとは思っていないけどね。まあ、最悪の場合は君の実家に請求させてもらうよ」
苦々しい表情で吐き捨ててさっさと帰っていった。それきりだ。
ナンバーワンに辞められては店は大打撃だし、俺のせいにして片付けたんだろう。
俺がやったんなら、きっとオーナーは怒らないだろうって予想の元に。
ヨシトとそんな話をした翌日、オーナーが見舞いに来た。
店の奴らが絶対顔を出さない朝早い時間だった。
「東騎がもう少し甘えてくれるなら考えてもいいよ。どう?」
つまり、俺が自分のペットになるなら金は何とかしようって話なんだろう。
偽善ぶった笑いに寒気がした。
ふざけるな、と言いたかった。
でも、返事は保留にした。
どうしても金の目処がつかなければそれも仕方ない。
親にだけはどうしても知られたくなかった。
父親とも母親とも一年以上会っていない。電話もしていない。
いきなり請求書なんか突き付けられたらどう思う?
二人ともそれぞれ新しい生活を始めているだろう。
今更、俺の事で振り回す気にはなれなかった。
「なんとかならないかなぁ……」
何度考えてみてもオーナーの出した条件は不愉快だった。
けど、断わったら即座に路頭に迷う。
朝から目いっぱい憂鬱になったところに、常連の竹元さんが花を持って訪ねてきた。
「近くまで来たから」なんて前置きで、最初は普通に世間話をしていたのに、不意に言葉を切って俺を見た。
「うちにおいでよ」
話を聞く限り、結構いいマンションに住んでいるらしい。
30代半ばで独身。嫌なヤツでもない。
別にキライじゃないけれど、特別な感情もない。
だが、一緒に暮らすことになればそれなりの関係になるだろう。
「ちょっと考えさせて」
結局、この体を差し出すしかないってことだ。
他に何も持ってないんだから仕方ないんだろうけど。
「もしかして別の人からも声がかかってるの?」
「……まあね」
「トーキくん、可愛いからね」
そんな言葉とともに「いい返事を待ってる」からというプレッシャーを残して竹元さんは帰っていった。
「どうしようかな……」
利き腕にひびが入ってるから退院してもしばらくは働けない。一緒に住むということを同居と受け取っても、家賃など収められるはずもなかった。
それでは囲われているのと同じだ。拒むことはできないだろう。
絶体絶命。そういう感じだった。
「俺のどこが可愛いんだよ。まったく……」
しばらく考えてみたがすぐに結論は出ず、とりあえず友人のヨシトに頼んで、アパートの荷物を預かってもらうことにした。
「明日引き払うの?」
「どうせもうすぐ退院だし。だったら、早いほうがいいから」
まずはオーナーに対するささやかな拒否宣告。
竹元さんの所に転がり込んだ方がずっとマシだ。
荷物といっても衣類のほかは少しの雑貨と数冊の本だけ。
ダンボール一個程度とは言え、ワンルーム暮らしにはかなり迷惑だろう。
「いいよ、そんなの気にしなくても。一也さんも友達思いの僕が好きだって言ってくれるし」
快く引き受けて帰っていった。
「いいよなぁ、頼れる相手がいて」
こんな選択肢しかない自分の生活がほとほと嫌になった。
「……なんか滅入ってきた」
本当は竹元さんの家にも行きたくない。
けど、このケガでホームレスっていうのもなぁ、とまた溜め息。
昔の男とか、友人とか転がり込む先をいろいろ考えてみたけど、どこもけっこう煩わしく思えた。
「恋人どころか転がり込める先もないんだからなぁ……」
もちろん父親のところも母親のところも論外だった。
いよいよ退院という日、俺は今だかつてないくらい暗い気分で屋上の手すりに突っ伏していた。
「東騎、手続き済んだ?」
最後の見舞いにきてくれたヨシトが俺の頭に手を置いたけど、どうしても顔を上げられなかった。
そんな状態で優しい言葉なんか掛けられたら、泣き出してしまいそうだったからだ。
「ヨシト、しばらく荷物置いといてもらっていいかな」
顔も目も伏せたまま。
もう、いつもの能天気を装う気力もなかった。
「いいけど、東騎、ホントに竹元さんのお世話になるの?」
「……断った」
昨夜、返事を聞きにきた竹元さんに、ただ「すみません」とだけ言った。
住む所なんてなくてもなんとかなると思いたかった。
「まさかオーナーに囲われるつもりじゃないよね? もしかして、もう『うん』って言っちゃった?」
俺は突っ伏したまま首を振った。
「けど、店の修理代の件とかあるし、一度エロオヤジのところには行ってこねーとな……」
自分でも驚くくらい憂鬱な声だった。
ヨシトだってびっくりしただろうって思ったけど。
返ってきた言葉はいくぶん弾んでいた。
「それだけど……東騎に話すことがあるんだ。怒らないで聞いて」
どんなに明るく言われても前向きな気持ちで聞くことはできなかったけど。
「怒らねーから、さっさと言えよ。どうせロクなことじゃねーんだろ?」
今さら不幸が一つ増えてもたいして変わらない。
何を言われても平気だと思った。
けど。
「修理代、高槻さんに立て替えてもらったんだ」
三回反芻しても飲み込めず、ようやく理解したと思ったらその瞬間に眩暈がした。
「……タカツキって誰だよ。まさか、颯のこと言ってんじゃ……」
「他にいないでしょう?」
当然のように答えられてキレてしまった。
「なんで関係ねーヤツにそういうこと頼むんだよ!」
怒りまくって顔を上げたのと同時に颯と目が合った。
「っていうか、お見舞いに来てるんだけど」
――――それを……先に言えよ……
颯は相変わらず涼しい顔で俺を見ていた。
何を考えているのかよくわからない表情で。
ただじっと俺を見てた。
なんだか息苦しくて、どう答えたらいいのか考えられなくなった。
「あ、……あの……すぐには無理かもしれないけど、必ず返すから。住むところとか、決まったら連絡するし……」
その場凌ぎでそんなことを言ってみたけど。
当然、金を返す当てなんかなくて、罪悪感のようなものがチクリと胸を刺した。
颯は俺の言葉の信憑性には触れなかった。
ただ、「携帯はどうしたんだ?」と尋ねてきた。
多分、何度か俺に電話をかけたんだろう。
そして、「現在使われておりません」ってメッセージを聞いたんだ。
「……解約した」
金が払えないから。
それだけのことだ。
別に何かから逃げようとしたわけじゃない。
「店はクビになったんだろう? 他にもバイトをしているのか?」
事実を述べているだけなのにグサグサと突き刺さる。
「これから探すんだよ」
偉そうに言ったところで右手右足が不自由な状態では働き口など見つかるはずもない。ただでさえ保証人も住むところもなくて身元不明の状態だっていうのに。
「だが、怪我が治るまでは仕事にならないだろう?」
返す言葉がなかった。そんなことは俺が一番よく分かっているし、嫌と言うほど感じていた。
「親元には帰らないのか?」
さらりと痛いところばかり突かれて、言葉に詰まった。
「……もう、俺の家族じゃないから……」
不覚にも涙がこぼれそうになった。
分かってはいても、こんな時に頼るものがないのはやっぱり堪える。
全ての感情をぐっと飲み込んで次の言葉を探した。
同情なんてされたくなかった。
「……あの、ホントに、必ず、住所決まったら連絡するから」
颯は何も言わなかった。
ただじっとこちらを見下ろしている。
何か言いたそうなのに口は開かない。
「信用できないなら夕方まで待ってよ。金、作ってくるから」
「どうやって?」
問われたことに答えることができなかった。
どんなに頑張っても半日で用意できる額ではない。
言葉に詰まる俺に颯は厳しい顔で領収証を差し出した。
「言われていたよりは少ないはずだ」
店長から突きつけられた額の十分の一以下だった。
それでも俺がすぐに払えるわけではなかったけど。
「弁護士を通して話をつけた。どんな手を使ってもこれ以上の請求はできないはずだ」
領収証の宛名は夏原東騎。
「法的にはこれでおまえに責任はない。俺に金を返そうが踏み倒そうがおまえの勝手だ。妙なことをして金を工面する必要はない」
聞かなくてもどうやって金を調達する気なのか想像がついたんだろう。
「……でも、返すよ」
踏み倒す気でいるとは思われたくなかった。
けど、颯はどうでもいいって顔でその話を終わらせた。
「当てがないなら一緒に来い。住むところを提供してやる」
俺の現状はヨシトが全部話してしまったのだろう。
心配そうな目でこちらを窺っていた。
「ごめんね。荷物、もう高槻さんのところに運ぶ手配しちゃった」
どうやって連絡を取っていたのかわからないが、二人の間ではもう話がついているのだろう。
「けど……」
「部屋代は請求するからちゃんと払えよ。俺の別宅だが、おまえの他にも居候がいる。それでも良ければ来い」
相変わらずの命令口調。
でも、俺のためにしてくれてるんだってことはよくわかったし、何よりも借りた金だけはキチンと返したかった。
だから、その申し出に甘えることにした。
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