さらに一ヶ月が過ぎても俺は何の変わりもなく生活していた。
一時の絶望的な状況を考えたら、ここの生活は天国だったけど。
「あら、東騎クン、バイト始めたの?」
「うん。やっと怪我も治ったし」
普通のダイニングバーのウェイターだった。
颯は店に下調べに行った挙句、客層やらバイトの様子やらを確認した上で、やっと保証人になってくれた。
時給なんか安くてもいいから昼間の仕事にしろとか、もっと早く終わる店にしろとか、もっと賑やかな通り沿いにしろとか、とにかく色々文句を言ったけど、マンションから近い事もあって渋々承知したのだ。
俺の親だってそんなに細かい事は言わないと思うのに。
案外うるさいヤツだと思った。
人には散々文句をつけていたが、颯は相変わらずバカみたいに忙しくて帰ってくるのは夜中の1時か2時だった。
「颯ちゃん、仕事が早く終わった時は自宅に帰るのよ」
「ここって颯の自宅じゃないわけ?」
そう言えば『別宅』って言ってたような気もした。
「実家の近くにマンション持ってるのよ。ここほど広くないけど」
どうやら俺が思っているよりずっと金持ちらしい。
このマンションだけでも一財産だと思うのに。
「……それにしても、帰ってくるの遅すぎるよな」
体、壊したりしないんだろうか。
「いつものことよ。特にこの時期は毎年忙しいから」
今にして思えば、俺の看病をしてた時だって仕事は忙しかったんだろう。
なのにさ。
―――期待させるなよなぁ……
その日も颯は一時過ぎに帰ってきた。
飲んで帰ってくることは珍しくなかったが、酔っ払って帰ってきたのは初めてだった。
帰ってくるなり、俺のベッドに入ってきた。
けど、何かするわけでもない。
「颯、酒くさいよ」
「ガマンしろ、居候」
それを言われると返す言葉はない。
バイトは始めたものの時給は安く、自分の食費や生活費で精一杯。家賃もほんの少しだけ払える程度だった。
借りてる金などいつになったら返せるかわからない。
颯は眠そうな顔で俺を抱き寄せた。
もちろん俺は思いっきり期待していた。
だけど、そこまでだった。
そのままグーグー眠ってしまった。
降り出した雨の音。
甘ったるい酒と颯の匂い。
まるっきり、あの時と同じだった。
女の子がよく「キュンとした」なんていうけど、そういうのって本当に「キュン」って感じなんだな。
心臓が痛い。
颯の腕が俺の背中に回されている。
大きな手が赤ん坊を抱く時みたいに俺の頭を支えている。
颯の指が無意識に俺の髪を絡め取る。
俺は気付かれない様にそっと颯のシャツのボタンを外し、胸に唇を押し当てた。
素肌の匂いを嗅ぐと、抑えられなくなって息苦しくなる。
「……颯、俺、もうダメ」
硬くなったものから全てを吐き出したい欲求に駆られて思わず呟いた。
颯は目を覚ましそうにないし、自分でイッてしまおうかと思ったが、あまりにもしっかりと抱きすくめられていて身動きが取れない。
颯の温かい呼吸が俺の髪をくすぐる。
もがいてなんとか抜け出ようとしたら、逆にもっと強く抱き締められてしまった。
思い切り反応したモノが颯に当たる。
もう中途ハンパな勃ち方じゃなかった。
颯はもう、酔った勢いで誰かを抱くことなんてないんだろうか?
つい、ヨコシマなことを考える。
「颯……」
顔を上に向けて唇を奪おうと思っても、頭を抑えられているのでそれもできない。
こんなにしっかり抱き締めているけど、相手が俺だってわかっているんだろうか?
それとも探している茶色い目のヤツを抱いている夢でも見てるんだろうか。
佐伯さん達は口を揃えて「颯ちゃんは手が早い」とか「鬼畜だ」とか言うけれど、俺は相変わらず対象外らしかった。
いくら俺が二十歳未満でも、それはあんまりなんじゃないか?
考え始めると、また同じところを巡ってしまう。
空しくなって、つい、声に出してため息をついた。
「くさってないで早く寝ろよ」
頭上で声がして、俺は思い切り驚いて顔を上げた。
颯はぜんぜんシラフな目で俺を見ている。
「酔っ払ってねーじゃん……」
「誰が酔ってるって言った?」
そう言うと俺の頭を自分の胸に押し付けた。
「いいから、寝ろ」
そう言われても眠れるはずはない。なのに、颯はすぐにまたくーくー寝はじめた。
必死で他のことを考えようとしたが、何を考えていても颯に結びついてしまう。
結局、欲求不満のままで夜を明かす羽目になった。
我慢し過ぎるのは身体に良くないってコトを実感した。
朝方、俺はついにガマンできなくなって颯を起こした。
「なんだよ、まだ5時じゃないか……」
「……もう、ガマンできないよ」
「なんだ……?」
颯はまだ寝ぼけている。ホントにわからないみたいだった。
「抱いてくれって言ってんの」
「……俺は眠いんだ。起こすなよ」
颯は面倒くさそうに背を向けた。
そうだよな。帰ってきてからまだ4時間くらいしか経ってない。
仕方なくベッドを出てシャワーを浴びにいった。
俺に関心がないことはこれで十分証明された。
フテ腐れて颯の部屋で抜いた。
でも、普通、期待するよな。
同じベッドに入ってきて抱き締められたら。
晴れない気持ちのままバイトに行った。
朝の件がまだ俺を憂鬱にしていたので、少し早めに出て、気を紛らわすためにのらりくらりと繁華街を歩いていた。
そこでジュンジに会った。
「よお、東騎じゃん。久しぶり」
「ジュンジ……」
家を出てすぐの頃、少しの間だけコイツの家に転がり込んでいた。
けど、ジュンジに新しい相手ができるとすぐに追い出された。
「しばらく見ねえうちに色っぽくなったな、おまえ。」
ジュンジが舐めるような目で俺を見る。嫌な感じだった。
……俺、なんでこんなヤツのとこにいたんだろう。
「ちょっと、話せねえか?」
「バイトあるから」
「バイト? どんな店で働いてんだ? いくら貰ってる?」
「普通のダイニングバーだよ」
俺はさっさと歩き出した。ジュンジはまるで恋人のような顔で俺の肩を抱く。
「いいかげんにしろよ」
さすがに俺もイライラした。
「いいじゃねえかよぉ、そういう仲だったんだし」
ジュンジはそのままバイト先までついてきて、店内を一周してから帰っていった。
そして、翌日も店を訪ねてきた。
その翌日も。
「やなヤツにつきまとわれるせいでヤな夢見ちゃったなぁ……」
ふと目を覚まして水を飲みに行こうと起き上がった。
そっとドアを開けると真夜中だと言うのに、佐伯さんと颯がリビングで話をしていた。
なんとなく気になって、俺はこっそり立ち聞きをした。
「颯ちゃん、気を付けた方がいいよ。東騎クン、変な男に言い寄られてたから」
佐伯さんが切り出すと、颯は眉を顰めた。
待島さんと二人で仕事の帰りに俺のバイト先に立ち寄ったらしい。
ニヤニヤしながら俺にまとわりついているジュンジを見て佐伯さんはすぐにどう言う種類の男か判ったと言った。見るからに薄っぺらくて狡猾そうなヤツだから、まあ、当然だけど。
「元彼らしいけど、あの子に客をとらないかって持ちかけてたのよ」
ジュンジがしつこく『いい店を紹介するから』と俺を誘っているところは傍目に見ても嫌な雰囲気だっただろう。
『おまえなら、いい客がつく。一回寝れば何万って金になるんだぜ?』
そんな言葉を何回も言うジュンジにうんざりしながら仕事をしていた。
こんなことが続いてクビにでもなったら大変だ。けど、ジュンジも一応は客だから怒らせない程度に聞き流していた。
「他のウェイターに聞いたら、ここんとこ毎日店に押し掛けてきてるらしいのよ。支配人が嫌な顔してたっていうから、下手するとあの子クビになるよ」
金に困れば承諾すると思ってのことだろう。
それを聞いても颯は何も言わなかった。
俺が颯の説教臭い話などまともに聞くはずなどないって思ってるから。
颯はまだ覚えているんだろう。
バイト先には来るなと最初に言ってあったこと。
だって、仕事が忙しいはずの颯があまりにも頻繁に店に来るから。
5回目に嫌だって言った。
『何故?』
颯は驚いて聞き返した。
『だって、監視されているみたいだろ?』
『そういうつもりで来るわけじゃない』
颯の落ち着いた声が俺を苛立たせた。
『だいたいさ、普通の店なんだから颯に心配される覚えはねーよ』
帰りが遅いことを颯に咎められた時も、思い切り不服そうな顔でそう吐き捨てた。
『保護者面すんなよ』
『保証人になっているんだ。心配して当然だろう?』
颯のいうことはいちいちもっともで。
『囲ってるんだから、偽善者ぶるのはやめて、さっさとやりゃあいいじゃねーか』
よりによってそんなことまで言ったんだ。
子供扱いするなよ。
俺に関心がないなら、心配なんてするなよ。
そんな風に思うこと自体、子供っぽいとは思うんだけど。
「最初は僕から言い聞かせようかと思ったんだけど」
佐伯さんも言いにくそうだった。
けど、やっぱり颯に隠しておくことができなかったんだろう。
颯はずっと黙ったままだ。
いつものことだけど、何を考えてるのかわからない。
颯はいつだって少しも自分の気持ちを見せてくれないから。
それが俺には拒否に感じられた。
「もう、颯ちゃんったらっ! 呑気なこと言ってると、あの子ホントに売り飛ばされちゃうよ。ウリやらないかって言われてんのに、ふうん、って顔で聞いてるんだもん」
さすがの佐伯さんも真面目な顔でキレていた。
颯はあさっての方向を見たまま呆れたように溜め息をついた。
「……あいつはそういうところがズレているんだ」
佐伯さんもつられて溜め息をついた。
「でもね、颯ちゃん。あのコ、颯ちゃんのことが本気で好きだよ」
佐伯さんがそこまで言って初めて、颯はまともに佐伯さんを見た。佐伯さんもようやく微笑んだ。
「……時間があったら寄ってみる。それでいいだろう?」
それだけ告げて颯は自分の部屋に消えた。
薄暗いわりには賑やかなバー。会社帰りのサラリーマンや大学生で賑わうフロアとやや落ち着いた客層の中二階。階段の下辺りの席に男たちはたむろしていた。
「だからさ、客はちゃんとした勤め人ばっかりのクラブだから、アブないことなんてないって」
まとわりつくニヤけた男の他にも数人、スカウトマンらしき男がいた。
男たちは舐めるように、酒を出す俺の手つきや首筋を見ている。
なんの返事もせずに酒を置いて立ち去ろうとすると腕を掴まれた。
「金、困ってるんだろ? ずいぶん借金あるって聞いてるぜ」
前の店に勤めているヤツにでも聞いたのだろう。他にもいろいろ調べてきているようだった。
「そうだよ、ボウヤ。こんな仕事じゃ食べてくだけで精一杯だろう?」
高そうだが品のないスーツを着た男が俺の腰に手を回した。
「とりあえず食べていかれればいいですから」
俺は軽く手を退けて、テーブルの空いた皿を片付け始めた。
「まとまった金なんだろ? 返さなきゃ訴えられるぜ」
「何年かかってもちゃんと返すよ」
「アマちゃんだな。どんなオヤジか知らねえが、一生クイモノにされるぜ。今でもキツイご奉仕してるんだろ?
やることは同じなんだから高い金貰ってやった方がいいじゃねえか?」
支配人が遠くからキツい目で睨んでいた。
「……帰れよ。仕事のジャマだ」
せっかく見つけたバイトなのに。こんなことで首になりたくなかった。
「つれねえな。おまえのことが心配なんだよ。一生その日暮らしでいいと思ってるわけじゃねえんだろ?
カラダで稼げるうちに金持ちから巻き上げて貯めておかないと、あと何年かしたらそんなこともできなくなるぜ。わかってんのか?」
ジュンジのニヤニヤ笑いが不愉快だった。
言われるまでもなく自分の現状は自分が一番よくわかっている。
「わかってるよ」
そういつまでも居候できるわけじゃないことも。
こんな生活をしてたら金なんて返せないことも。
颯の顔がチラついた。
「……わかってるよ」
もう一度呟いた時、ジュンジがニヤリと笑った。
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