らいと・ぶらうん
- Light brown eyes -

〜Past Day〜
<3>





「じゃあ、聞かないでおくよ」
最初はもっと浮ついたヤツに見えた。
服装とか、髪とか。
「何か食べるなら、買ってくるが―――」
けれど、吐き出される言葉は穏やかで、やわらかで。
「……構うなよ。そういうの、世間じゃ『偽善』って言うんだろ」

取り繕った気持ちなどすぐにほつれていく。
父親に対しても母親に対しても偽物の気持ちで塗り固めて過ごしたけれど、うまくいかなくなるまでにそれほど時間はかからなかった。
口答えなんてしたことのなかった子供が怒鳴り散らして家を出ていく。
心のどこかにはまだ申し訳ないと思う気持ちが残っていたけれど。
その時、母親が言った言葉は、「だから男の子なんて欲しくなかったのよ」。
それを聞いた時、罪悪感なんてものは捨ててしまった。
本当は俺だけじゃなくて、みんな我慢してた。
それでも親だから、口にしなかったのだと気づいた時にも涙は出なかったのに。

「どうした?」
その声にやや遅れて視線を上げた。
透明のしずくが頬を伝って、また自分が泣いていることに気付いた。
「……別に……なんでもない」
泣き上戸ってヤツかな、と何気なく呟いて。
それから、「酒、あんまり強くないんだ」って言い訳のように付け足した。
顔を洗ってこようとして、立ち上がったけれど。
にじんだ視界と酩酊感のせいで意識がなくなりかけて。
倒れたらどうなるんだろうな、とぼんやり思った時に抱きとめられた。
「無理するな」
そんなありきたりの慰めが気持ちに沁み込んでいく。
それだってきっと酒のせいなんだろうって思いながら、男の首に腕を回した。

やわらかく触れた唇はすぐに呼吸を奪って、眩暈と倦怠感を運んだ。
力の抜けた体を軽々と抱き上げてベッドに横たえ、そのまま熱を持った肌に触れた。
次第に切れ切れになる意識の中で覚えていたのは、男の瞳と温かな手。
「初めてなのか?」
少し困ったような表情で問いかける。
肯定したら、そのまま置き去りにされるように思えて。
「……そんなの、どっちでもいいじゃん」
男の体に腕を回した。
離れなくなかった。
一人になりたくなかった。
だから。

酔ってなお消すことのできない痛みと息苦しさと。
「……う……っ、あ……っ」
ずっとこうしていたいという気持ちの中で、このまま眠り落ちてしまいたいと思った。
遠くなる記憶。
男の最後の言葉は、「一緒に暮らさないか」だった。

大人だから。
抱きたければそんなことくらい簡単に口にする。
そんなことは判っていたけど。

嘘でもいいと思った。
ただ、温かくて、心地よくて。
こんな風に誰かに抱き締められた思い出など、俺の記憶の中には残っていなかったから。
だから、朝になったら、「いいよ」と答えるつもりだった。



目覚めた時、ベッドにはまだ自分のものではない温もりが残っていた。
男はすっかり着替えてソファに座っていたけれど、なんだか険しい顔をしてて、昨夜ほど優しそうには見えなかった。
それでも話しかけようと起き上がった時、体に鈍い痛みが走って一気に目が覚めた。
表情には出さなかったはずなのに、
「ごめん」
男は俺の顔を見るなり、そう言った。
「……ごめんって……何が……?」
暖かだった朝はその一瞬で凍りついた。
沈鬱な溜息と共に立ち上がった男は、どうやって言い訳をしようか考えているように見えた。

酒とか、夜とか、疲れとか。
ただそんなものだけで、人は簡単に錯覚を起せるんだな……と苦い気持ちになった。
「あのさ」
なんだか可笑しくなって、けれど笑う事もできずに。
「俺、今日家に帰らないといけないんだけど、金持ってないんだ。貸してくんない?」
少し驚いた顔をしたけど、そいつはジーンズのポケットから財布を出すと、入っていた札を全部俺に渡した。
二万六千円。
「あんまり持ってなくて」
そう言ってもう一度謝った。
またズキッと心臓に痛みが走って。
だから、黙って金を受け取って財布に入れた。

全部俺に渡して大丈夫なのだろうか。
小銭だけで家まで帰れるのだろうか。
心配だったけれど。
それを口にしたら意味がなくなる。

「……ホテル代は?」
そんなことを尋ねたのだって、本当はまだどこかでこの時間を繋ぎとめようとしていたからなのかもしれなかった。
けれど。
「カードがあるから」
俺の目を見ずに告げた別れの言葉は簡単だった。
「……金、返さなくていいから」
口実がなくなって、名前も住所も聞けなくなって。
それで全部終わり。
だから、少しだけ笑いながら、昨日貰った電話番号を破って捨てた。

――――それで、いいんだろ?

そういう気持ちで。

身体が軋んで、うまく動かない。
油断すると痛みで顔を歪めてしまいそうになる。
それでも、なんとか着替えるとカバンを持って靴を履いた。
「待てよ、背中……もう一度ガーゼを貼りなおして―――」
男が慌てて立ち上がったけれど。
「いいよ。どうせ帰るし。家でやるから」
送っていくから、という声を振り切って部屋を出る。
そのまま廊下を走ってエレベーターに飛び乗った。

家に戻ったところで、手当てをしてくれる人間なんていない。
背中にガーゼなんて自分で貼れるわけないのに。

「―――他人なんて……忘れたら、それで終わりだからな」

雨上がりの濡れた道路を歩きながら、肩越しにホテルを振り返った。
脳裏に浮かんだ男の瞳は、やっぱり優しく見えた。
だから。
心の奥底にぽつんと甘い記憶だけが残された。



家に帰ったら、母親の彼氏という男がリビングで寛いでいた。
まるで自分の家のように。
「東騎君だね? 初めまして。僕は……」
親しげに笑いかけるその人は、どちらかと言わなくても真面目そうで。
少し不器用そうで。
決して嫌な感じではなかったのだけれど。
ぷいっと顔を背け、挨拶もせずに自分の部屋に駆け込むと、金と着替えをバッグに詰め直して家を出た。

今度はどこへ行こう。
途方に暮れながら。

このまま消えてしまえたらいいのに。
誰にも気付かれずに消えてしまえたらいいのに……―――――




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