ふとした拍子に思い出す、遠い日の記憶。
あの時は自分の回りだけ全てが上手く回っていないような気がしていたけど、最近はそんなこともなくなった。
「なんかさ、平和だよね」
ぼんやりと口にした言葉に佐伯さんが呆れる。
「それなのになんでそんな顔してるの? 幸せな証拠だと思って喜ぶべきなんじゃない?」
お茶のおかわりを入れながら、俺の顔を覗きこんで少しだけ笑った。
「そうなんだけどさ」
以前ほどではないけれど、やっぱり今でもどこかにまだ「こんな日々は長くは続かない」という強迫観念のようなものが残っていて、ときどき意味もなく不安になる。
「仕方ないわよ。子供の頃に植えつけられたものって自分が思ってるより根深いんだから」
そんなの気にすることないわよ……って言いながら、子供にするみたいに俺の髪をなでる。
「でも、今日は特別憂鬱そうね。他に何かあったんじゃないの?」
佐伯さんは本当にいつも鋭くて、隠し事なんてしてもムダだろうなとは思うんだけど。
「ううん、そうじゃないんだけどさ……なんか、最近、雨ばっかり降ってるし……」
「そっか、東騎クン、雨が苦手だったんだよね」
濡れるからとか、傘で片手が塞がるからとか、道路が混むからとか、そんなはっきりとした理由じゃなくて。
「……うん。なんかさ、ダメなんだよね」
窓の外を見るたびにわけもなく不安がこみ上げる。
こんな天気が嫌いだったのも、もう過去のことなのに。
「じゃあ、美味しいおやつを持ってきてあげようかな」
ご飯が食べられなくなるから一個だけよ、と言いながらキッチンへ行く佐伯さんの後ろ姿を見送りながら、ふっと息を抜いた。
落ち込んでた本当の理由は、塾からもらってきた『受験の手引き』。
試験はもう少し先だけど、その前に考えなければならないことがあった。
「……入学金はなんとなく見当がついてたけど……受けるだけでこんなにかかるんだな」
これからはもうバイトを増やす余裕はない。
勉強時間だって足りないくらいなのに。
それを思うと憂鬱になる。
佐伯さんに話しても、きっと「そんなの颯ちゃんに出してもらえばいいじゃない」って言うに決まってる。でも、今だって金は借りたままだし、部屋代だって払ってないし、塾にかかる費用だって――――
「お待たせ。はい、これおいしいのよ」
急に視界に飛び込んできたクッキーに思い切り驚いてしまったら、佐伯さんが「めっ」って顔で俺を見た。
「まだ何か隠してるでしょ?」
本当になんでもバレてしまうから困る。
親身になってくれる佐伯さんに言わずにいるのは俺だって心苦しいし、いつかはちゃんと話すつもりでいたけど。
でも、その前に受験にいくらかかって、入学したらいくら必要で。
それを今までの借金と合わせて毎月いくら返したら何年で完済できるのかをちゃんと計算してみようって思ってただけで。
「……あ……うん……でも、これは自分で考えるから」
それと、もう一つ、頼っていいものかを迷っている相手がいて。
ゆっくり考えて、気持ちにケリがついたら、まずはそっちを当たってみようって思っていたから。
「そう。でも、本当に困ったら相談するのよ?」
東騎クンは遠慮ばっかりしてるんだから、ってまた少し怒られたけど。
「うん」
ありがとうって言ったら、「無理しないのよ」って笑って、またそっと髪をなでた。
子ども扱いだって最初は思ったけど、佐伯さんは颯にも待島さんにも同じことをするから、たぶん普通の愛情表現なんだろう。
いつだって優しくて温かい手。
「いただきます」
クッキーで悩みが消えるわけじゃないけど、でも、気持ちは少し軽くなる。
「おいしいでしょ?」
「うん」
世の中っていうのは、やっぱり金が基本なんだなといつも思う。
ちゃんと働くまでの間だけ借りていればいいって簡単に思えたらもっと気楽なのかもしれないけど。
心のどこかにある不安がそれを許さない。
万が一、別れることになったら、颯はきっともう金を受け取らないだろう。
そんな気がするから。
だから、一日でも早く返したかった。
何にも縛られずに颯とのことを決められるように。
「……でしょ、東騎クン?」
佐伯さんの声で我に返った。
「え? あ、何?」
「やだな、聞いてなかったのね?」
「ごめん」
また顔を覗きこまれて焦ったけど。
「東騎クン、あれから一度もお母さんに電話してないでしょって言ったの」
話の内容もあんまり触れたくないようなことで。
「……え……あ、うん……別に、用とかないしさ」
嫌なわけじゃないんだけど、と半分言い訳みたいなことを言ってごまかそうとしたら、佐伯さんが「仕方ないわね」って肩をすくめた。
それから、
「まあ、僕も颯ちゃんも東騎クンのことなんて言えないんだけどね」
佐伯さんはカミングアウトして以来半分勘当されているような状態らしいから、電話なんてかけられないだろうけど、颯は家族とだって普通に話しているはず。
「だって、父親の会社で働いてるんだろ?」
「そうだけどねぇ……でも、自分の父親のことを『社長』って呼ぶのよ。仕事中はそれが当たり前だろうけど、家にいる時も同じなのよ。それって相当変だと思わない?」
目の当たりにすると笑っちゃうわよ、って佐伯さんが本当におかしそうに言うんだけど。
「ふうん、そうなんだ」
前に佐伯さんから聞いた。
颯の弟が両親の不仲をずっと自分のせいだと気に病んでいたってこと。
そして、離婚の直後に亡くなったことも。
それが事実として残っている以上、颯は永久に父親を「社長」と呼び続けるんだろう。「もう家族ではない」という証に。
颯が誰よりも大切にしていた相手。それをなくしたのが両親のせいだと思っているのなら、この先もきっとそれを忘れることはない。
そんな気がした。
「それでね、東騎クン」
「……何?」
「受験のお金、変なことで調達しないようにって」
「え??」
突然振られた話に平常心が保てなくて、思い切り顔に出してしまった。
「颯ちゃんからの伝言よ。……自分で言えばいいのにねえ。もう、本当にダメなんだから」
塾の手引書を、待島さんが颯にも渡したのかもしれないけど。
「……この家ってさ、隠し事できないよなぁ」
さすがに俺も笑ってしまって。
でも、
「当たり前よ。颯ちゃんなんて仕事のこと以外は東騎クンしか頭にないんだから」
真面目な顔でそんなことを言われると不意にまた現実が重くなる。
俺はずっとここで甘えているばかり。
気がつくと借りたものだけが増えていく。
ぷっつりと笑うのを止めた俺に、佐伯さんが少し困った顔を見せた。
しまった、って思ったから、慌てて言葉を足した。
「やだな、そんな顔しないでよ。別に、颯に言いにくいとか、そういうんじゃなくて」
どんなに気持ちが焦っても、今はとにかく一つずつ片付けるしかない。
「あのさ……ちゃんと決めるまで、颯には言わないでよ」
そう前置きをしてから、母親の手元にある「養育費」を受け取りにいくかもしれないからと話したら、やっとニッコリ笑ってくれた。
「そっか、そうよね。颯ちゃんよりは、まずご実家だよね。それなら、お父さんもお母さんも喜ぶと思うな」
「……そうかな」
「だって東騎クンのために貯めたお金なんだから。東騎クンに使って欲しいと思うわよ?」
そう言われて、「そうだね」って答えたけれど。
今でも鮮明に残っている。
離婚したら家の中にあるものはどっちが持っていくって話のついでに、俺をどうするかで揉めていた親たち。
そんな場面が過ぎって、「俺のため」という言葉が虚ろに響いた。
養育費なんて世間体の一つだったんじゃないかって。
今でも心のどこかで思ってる自分が嫌だった。
その後ずっと、あれこれ悩んで、でも、いい答えが見つからなくて。
結局、親から金を受け取ることを決めたのはその翌週の土曜日。
それだって全然前向きな気持ちじゃなくて、両親が死んだら最低でも預貯金の何十パーセントかは間違いなく俺のところに来るんだから、養育費のことだけ意地を張っても仕方ないよな……という消極的で投げやりな理由だった。
「けど、まあ、そんなもんだよな」
そんな言葉で自分を納得させて、少し憂鬱な気分のまま出かける用意をした。
母親に会うのはこれで三度目。
最初は探偵事務所の人が来て家に帰るように言われた時。二度目は颯がマンションに母親を招待した時。
そのどちらも、思ってたよりはずっと和やかな空気ですごくホッとしたけど。
それでも気持ちの距離は縮まることがなくて、面と向かって「母さん」と呼ぶこともない。
合鍵だってもらっているのに、やっぱりインターフォンを押してしまうのも同じ理由。
金を受け取りにきた今日も、俺はやっぱりどこかで何かを疑っていた。
「大学に行くから」なんて体のいい嘘をついてまで金が欲しいのかと思われたら……と、薄暗い気持ちがつきまとう。
それだって、今でも母親に「いい子」だと思われたいだけなんだろうって、そんなことにも気付いていたけど。
「大丈夫だって……今日は颯も早く帰ってくるし」
もし落ち込むようなことになっても、きっと側にいてくれるはず。
だから平気だと自分に言い聞かせながら、もう一度インターフォンを押した。
静かに開くドアの向こうには、少し困惑した母親の顔。
「自分の家なんだから勝手に入ってきていいのよ」
それ以上は強く言わないのだって、きっと俺と同じような理由なんだろうけど。
「あ……うん。バイトがあるから、すぐ行かなきゃいけないんだけどさ」
予防線なんて張ってる自分をバカだなと思ったけど。
そんな断りをしておかなければ、どんなに時間が経っても「帰る」と言い出せないような気がした。
「そう……残念ね」
キッチンのカウンター越し。
食器棚からティーカップを取り出す母親が、なんだかやけに小さく感じて。
その顔がこちらに向かないうちに話を切り出した。
「あのさ……養育費、もらいたいんだけど」
やっと吐き出して顔を上げると、少し驚いたような視線とぶつかる。
「……東騎のお金なんだから、黙って持っていっていいのよ」
でも、その後、ひどく言いにくそうに「何に使うのか」を尋ねられた。
「もちろん東騎の好きに使っていいんだけど……」
慌てて付け足されたそんな言葉も俺に対する負い目からなんだろう。
普通の家なら、きっともっと堂々と聞くんだろうなと思うことが少し寂しかった。
「俺……大学に行こうと思ってるんだ」
颯の家に来た時に予備校に通ってることは話したから、それほど驚かないだろうと思っていた。
でも、母親は紅茶のポットを持ったまま、「そうなの」という短い言葉を詰まらせた。
それを聞いたら、俺もまともに顔を見られなくて、なんとなくテーブルの上の花を眺めたりしていたけど。
「……うちにも大学に行くような子がいたのね」
不意にそう言われて。
俺の言葉を少しも疑わないんだなって思ったら、泣きたくなった。
信じてなかったのは俺の方だって気付いて。
心の中で「ごめん」って謝りながら。
「うん……でも、それはさ、合格してから言ってよ」
半ばうつむいたまま。
やり場のない気持ちをそんな言葉でごまかした。
そのあと向かい合ってお茶を飲んだけど、その間は話すこともなくて。
颯か相川さんでもいればもうちょっと気楽だったのに……なんて思いながら、紅茶一杯分の時間が過ぎるのを待って席を立った。
帰り際に渡された箱に預金通帳と印鑑とカードが入ってるのを確かめてから、
「じゃあ」
それだけ告げて。
「また来るから」と言うこともできずにペコリと頭だけ下げて家を出た。
見送る母親の寂しそうな顔が気持ちの奥に焼きついていた。
「またね」と言えなかったのは、自分の中に後ろめたい気持ちがひしめいていたせい。もう二度と来ないって思ったからじゃない。
「いつか、ちゃんと……そんなつまらない理由だったってことも話すから」
ドアの向こうでまた泣いてるかもしれない母親の顔を思い浮かべて、もう一度心の中で謝った。
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