パーフェクト・ダイヤモンド





昼近くになって、俺は片嶋に起こされた。
「桐野さん、」
かすかに甘いアルコールの匂いと歯磨き粉の匂い。
「すみません。またソファで寝かせてしまって。次からは俺がソファで寝ますから」
「『次から』って、おまえ、すっかり俺んちを避難所にしようとしてんな」
どうも片嶋の感覚がつかめない。
「あははっ、そんなつもりじゃ……」
酔っていないモードの普通の片嶋。
会社の連中といる時と違って自然に笑う。
「ちなみに昨日のことどこまで覚えてる?」
すっかり忘れていることを確認したくて、俺は片嶋に尋ねた。
片嶋は多少の躊躇とともに笑って答えた。
「全部、覚えてると思いますよ」
………え?
予期していたのと180度違う答えだった。
「ホントかぁ??」
俺はあからさまに疑った。
「じゃあ、記憶をなくしたことにしてもいいですけど」
そう言って、いきなり俺の唇を塞いだ。
そっと唇を離すと、面食らってる俺の唇を指でなぞってからニッコリ笑った。
「そう言えば、今日までに忘れろって言ってましたよね」
こいつ、マジに侮れない。
俺は言葉を失った。
自然と顔が険しくなり、正面に立っていた片嶋がうろたえた。
「桐野さん、もしかして、俺がゲイだって知ってて部屋に誘ったわけじゃないんですか?……あ……そしたら、今の、怒ってます?」
怒っちゃいないけど。
「片嶋に彼氏がいるっていうのは聞いてたよ。そうじゃなくて……」
その会話を受け切る根性が無くて俺は話を逸らせた。
「おまえ、めちゃくちゃ酒臭いよ」
それに、突っ込んだ話をするには、今の片嶋はどこか不安定に見えた。
「やだな。だからリビングで寝直したんですか?」
笑っているのに、そんな言葉も乾いて響く。
俺は無意識に溜息をついた。
片嶋はそういう俺の気分を意図的に無視しているんだろう。
俺の溜息なんて聞こえない振りをしてた。
片嶋が俺に何を求めているのかわからなかった。
だから、深入りはしないように話を逸らせた。
「片嶋って、歳いくつ?」
そんなこと、本当はどうでも良かったが、他には何も思いつかなかった。
だからと言って天気の話や会社の連中の話をするのはあまりに白々しい気がした。
仕事の相手になら、そこそこ気の利いた受け答えもするんだけど。
まだ夕べの酒が残っているのか、なんとなくダルくて、話に気合が入らなかった。
「もうすぐ25です」
先ほどまでの会話を流されたことは承知の上で、片嶋はごく普通に答えを返した。
けど、表面的だった。
気持ちはどこか他のところに行っている。
「なんだ、飯島と同期なのか」
「いえ。俺、入社は一年遅いんです。留学してたので」
浪人とか留年じゃないところが片嶋っぽい。
そう言えば、外国企業の日本支社への提案書は企画室で英文に訳すことになっている。だから、英語が出来ない奴は企画室には配属されないんだ。
「年齢的には桐野さんに丁度いいかなって思ってるんですけど」
ああ、そういうことか。
片嶋は俺を安全だと判断して「連れて帰ってくれ」と言ったわけじゃなくて、俺でもいいと思ったんだ。
―――『俺が』じゃなくて、『俺でも』いいって。
上手く慰めてくれそうな相手なら、それで良かったんだろう。
俺としたことが、今頃気付くなんて。
「おまえ、振られたって言ってなかったか? それって嘘?」
少しだけ、触れてみる。
片嶋の傷。
舐めて欲しいのか抉って欲しいのか、俺にはわからなかったから。
直球だけど、痛かったらごめんなって思いながら。
「ホントです。別に桐野さんの気を引こうとして言ったわけじゃ……」
涼しそうな目ン玉が空を見る。
「……ちょっと、そういうつもりもあったかもしれないですけど」
それは冗談に見せかけた本音。
その言い方なら許されると知ってのことだ。
「あ、そ」
片嶋がそれほど落ち込んでいるように見えないことに安堵しながらも、取って付けたような返事や乾いた笑顔が鈍く虚ろに感じた。
―――……なんか、ダルいなぁ……
今ごろ酒が回ってきた。そんな感じ。
「桐野さん」
「なんだよ」
「俺、桐野さんのこと好きです」
片嶋のニッコリ顔を見れば本気じゃないことは分かるけど。
切り返しが思い浮かばなくて、適当にはぐらかした。
「それは、どうも」
「真面目に聞いてくれませんか?」
自分の嘘は棚に上げて、少しだけ顔を顰める。
それも演技なんだろうけど。
「まじめに聞いてるけどなぁ……振られたばっかの奴が言うセリフじゃねーだろ?」
しかも、初めて会ったのは、一昨日、いや、正確には昨日だ。
俺は緩慢な動きでテーブルから煙草を取った。
シュポッという心地よい音の後、紫煙が揺れた。
なんだか怠い。
片嶋も物憂げな顔で煙草に手を伸ばした。
何も感じていないような曖昧な表情で。
「おまえ、酒臭い上に煙草臭かったら最悪だぞ」
片嶋の考えていることなんて推測しても仕方ない。
そう思うくせに、目が片嶋の反応を追う。
会社と同じ強気な返事が来るのか、それとも……
そんな妙な好奇心が離れない。
「そうですよね。っていうか、桐野さん、煙草やめてください。なんか気持ち悪……」
真っ青な顔が歪んだ。
「吐くならトイレに行けよ」
俺は仕方なく火をつけたばかりの煙草をもみ消した。
「……はぁ……い……」
うっ、という微かな声を押さえながら、片嶋はバタバタとトイレに走っていった。
「単なる二日酔いのヤツがする、ごく普通の反応だよな」
良くわかんねーヤツだ。
昨日の夜からして、よくこれだけ吐けるよなと感心したが。
一回寝てもまだ吐けるんだな。
……まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。


片嶋はしばらくトイレから出てこなかった。


冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注いだ。
一気に2杯を飲み干した時、やっとキッチンに顔を出した。
「水、貰ってもいいですか?」
俺は黙ってグラスに水を注いで差し出した。
「……口移しがいいなあ」
今朝のキスにさえ俺が怒っていないと確信したせいか、そういう冗談を遠慮なく口にした。
「いい加減にしろよ」
「酔ってないとダメってことですか?」
いちいち気にしても仕方ない。
片嶋はきっとこういう冗談を普通に言う奴なんだ。
「シラフだと可愛くないからな、おまえ」
ちょっと不満そうに「ふうん」と言ってから俺に尋ねた。
「どういうのが可愛いんですか? 好みを教えてください。合わせますから」
もちろん、片嶋の悪ふざけだ。
けど、こんな真剣な顔で言われると違う感情が心の隅に巣食いそうだった。
「合わせられてもなあ……」
期待する自分を否定しながら、他愛もない会話になるよう言葉を選んだ。
「とにかく早く酒抜けよ」
俺はベランダのサッシを全開にした。
天気がいい。
風が心地よく吹き込んで、アルコール臭い空気を追い出した。
「んー、気持ちいいな……」
思いきり伸びをする俺の身体を片嶋は後から抱き締めた。
もちろん、そんなヤらしい抱き締め方ではなく、パフっという音がしそうな可愛い抱きつき方だったけど。
それでも俺は真顔で咎めた。
「あのな、いい加減にしないと本当に怒るぞ」
振られて落ち込んで慰めて欲しいんだとしても、甘やかすとどんどんつけ上がりそうだ。
きっとコイツはどこでもちやほやされていて、誰かに拒まれたことなんてないに違いない。
「怖いなぁ、桐野さん。さっきキスした時は怒らなかったじゃないですか」
もう、何と言い返したらいいのか分からなかった。
「おまえ、もしかしてまだ酔ってる?」
必然的に気持ちの篭もらない適当な会話になる。
「二日酔いですけど俺はこれが普通です」
「会社にいる時とずいぶん違うじゃねーか」
「会社は仕事をするところですから」
そりゃあ、そうだが。
「で、普段はそうやって男を口説きまくってるのかぁ? タチ悪いな。ちょっと顔がイイからって何やっても許されると思うなよ」
もちろん冗談だった。けど、言いながら振り返った時、目に飛び込んできた片嶋の無表情にドキッとした。
「……思ってませんよ。顔がいいとも、何しても許されるとも」
ちょっとした冗談だろ?
笑って流せよ。
らしくない。
「……それより、」
片嶋が固まっているから、どうしようもなくなって急に話題を変えた。
「腹減ったな。おまえ、飯食える?」
今日に限って何故か逃げ腰な俺。
起きてから何回話を逸らしただろう。
片嶋はさっきの傷ついた顔を翻して、くすっと笑ってから眩しそうな目で俺を見上げた。
―――ってことは、さっきのも演技だったのか?
「トマトサラダとかなら」
瞬きもせず見つめる瞳。
その意味を測りかねる。
「じゃ、飯食いに行くか」
そのまま会社の片嶋になると思ったのに、また笑いながら俺を試す。
「それより一緒にシャワー浴びませんか?」
本気で俺を口説いてるとも思えないのに。
「おまえ、もうシャワー浴びてるだろ? しかも、俺の歯磨き使っただろ? ん?」
片嶋の周りは妙に不安定な空気が取り巻いていた。
作り笑い。
演技。
冗談。
嘘。
俺が軌道修正するたびに突然話を切り替える。
なのに、片嶋の本気は見えない。
この会話を、片嶋はなんのためにしているんだろう。
「バレてました? 歯ブラシ二本ありましたけど、良く使ってると思われる方をお借りしました」
こんなに普通に話すのに。
「あんまり使ってない方の歯ブラシは、やっぱり彼女のですか?」
その一言で少し方向が変わる。
「二本とも俺のだよ。会社に持っていくつもりで出してそのままになってるだけだ。彼女とは転勤する時に別れた」
そして、いつの間にかそんな話に摩り替わる。
「ついて来いって言わなかったんですか?」
社交辞令だ。
俺に興味があって聞いているわけじゃない。
そう自分に言い聞かせて。
「連れてくる勇気があるくらいなら、とっくに結婚してるよ」
正直に話した。
別に隠す必要もない。
「嫌いになったわけじゃないんだけどな」
それまで彼女に飽きたと思ったことはなかったのに。
別れると決めるまで、それほど迷うこともなかった。
彼女に伝えた時、泣かれたことを思い出して苦い気持ちになる。
自分と結婚が結びつかなかった。それだけの理由で、ここに連れて来ることが出来なかった。
「もう28だって言うのに、往生際が悪いかな」
我知らず苦笑する。
俺の気持ちなど片嶋には関係ないんだろう。
「よかった」
躊躇うことなくそう言った。
「おまえ、そうやって人の不幸を喜ぶなよ」
俺の気持ちの中ではもうすっかり過去になったことだ。
今更、痛くも痒くもなかったが。
「あはっ。すみません。でも、俺、桐野さん、好きになりそうなんです」
妙に爽やかに言われて閉口した。
っつーか。
それってフラれて落ち込んでるヤツの顔じゃねーよなぁ……
振られたのが嘘なのか。
今、目の前の笑顔が嘘なのか。
片嶋と知り合ってまだ2日目の俺に判るはずもなく。
やっぱり冗談で返すしかなかった。
「早めに諦めろよ。俺は男に惚れたことはないからな」
その時の片嶋は、やっぱり爽やかな笑顔で。
ついでに、歯切れのよい口調で「大丈夫です」と答えた。
……何が、大丈夫なんだ??
片嶋に目線で問いかけたが、返事はなかった。


昼食の間、片嶋はずっと仕事の話をしていた。
それが終わると「じゃあ、また」と言い残して帰っていった。




それから、片嶋は時々営業部に顔を出すようになった。
宮野や飯島相手にどうでもいいような世間話をして、取引先の資料を閲覧して戻っていく。
「企画は営業と違ってあまり電話も鳴らないので、静まり返っていて息が詰まるんですよね」
終始笑顔で。
みんなの視線を集めていた。

なのに、エレベーターホールに一人で立っている片嶋は、いつ見ても気怠そうだった。
「かったるい顔してんじゃねーよ」
不意に声をかけたらビクッと身体が跳ねた。
「あは……なんか、寝不足で」
どんなに精巧に笑顔を作って見せても嘘は嘘。
最近、やっと俺にもそれが判るようになった。
―――何、落ち込んでるんだよ?
それだけのことがストレートには聞けなかった。
あの日、振られたと言ったのも嘘じゃないと思ったから。
忘れたいから好きでもない相手にキスをする。
傷を隠すために曖昧な冗談を言う。
片嶋は意外と脆いヤツなんだと思う。
だったら、誰かに相談して吐き出してしまえばいいのに。
それでも片嶋は泣き付かない。
こんな風にひとりでそっと溜息をついてるだけだ。
「そんなことしてても忘れられないと思うけどな」
何気なく呟いた言葉は片嶋の耳にも届いていたはずなのに。
ただ、ふっと顔を背けてエレベーターに消えた。



そんなことの繰り返しで、色々なことが何となく気になり始めていたから。
勢い余って宮野に聞いた。
「……どんなヤツなんだろうな」
「片嶋クンの彼氏ですか?」
宮野は片嶋の話が大好きだから、知っていることを全部話すに違いないという俺の読みは大当たりだった。
「又聞きなんで詳しくはわからないですけど、ちょっとキケンな感じの人らしいですよ」
当然、サラリーマンなどという平凡な職業ではなく。
「水商売?」
「そうなのかなぁ? 年も片嶋クンより随分上で、片嶋クンの他にも恋人がいて、そんでもって新宿に住んでるらしいです」
それだけでも十分ロクなヤツじゃないと思うんだが。
「とにかくカッコいいらしいです」
性格が悪くても顔が良ければいいのか?
だったら、石村主任でも速見でもいいような気がするが。
平凡な会社員じゃ面白味がないってことか?
「桐野さん、気になるんですか?」
「気になるっていうか。なんでいきなり俺に懐いたんだろうと思って」
宮野は少し不満そうだったが、懐いていることについては否定しなかった。
「そりゃあ、桐野さんは面倒見いいですし。泊めてもらっても安全そうだし」
普通、そういう理由だと思うよな。
俺だってそう思った。
でも、未だに本当の理由はわからない。
最初に会ったあの日、俺が押し倒すようなことがあったら、片嶋はどうする気だったんだろう。
「桐野さ〜ん、3番に外線で阿部さんからです〜」
考え込んでいると業務課から大声で呼ばれた。
現実に引き戻されても、まだ片嶋のことが頭の片隅に残っていた。
寝ても覚めてもってこういうことを言うんだろうな、とぼんやり思った。
28にもなればそれがどういうことなのかくらいは分かる。
俺はそっと溜息をつきながら受話器を取った。
無理やり現実に戻るために。
「阿部? うまく行ったのか?」
『それが……』
取引先でのゴタゴタが一人で片付けられない後輩の泣き言を聞きながら、生返事をした。
「わかった。じゃあ、明日一緒に行ってやるから取りあえず帰って来い」
顔見知りの担当者だ。菓子折りでも持って謝りに行けば済むだろう。
もっとも、しばらくはちょっと無理なわがままを聞かなければならないだろうが。
そんなことは日常茶飯事。たいしたことじゃない。
さっさと捌いていくだけだ。
「心配すんな。大丈夫だから」
適当に慰めの言葉をかけて、電話を切った。
無意識の溜息。
「阿部、またやっちゃったんですか?」
飯島が俺の機嫌を伺うように顔を上げた。
「ああ」
「そんなに深刻なんですか?」
「そうでもないけどな」
溜息は、その何倍も厄介なことを抱えてしまったことを自覚したせいだ。


―――俺……どうやら、片嶋に惚れたらしい。



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