時間が流れるのは早い。
片嶋と知り合ってから半月が経ったが、あの後、片嶋が泊まりにくることはなかった。
たまにみんなで飲みに行くことがあっても一人で早めに帰っていく。
だが、店を出て向かう先は駅じゃなかった。
駅まで一緒に帰ろうとして後を追いかけた宮野がうなだれて帰って来て、俺にそう報告した。
それがわかっても片嶋を黙って見送ることが出来ない程は俺も煮詰まっていなかった。
片嶋は今日も無表情で社内を歩いていた。
「片嶋クン、昨日はまた彼氏のとこにお泊りだったのかなぁ。桐野さんとこに泊まったことは内緒にしてるんですかね?」
朝っぱらからそんな話をしながら、宮野が満足そうに笑う。
俺の部屋に泊まるくらいなら、彼氏の家の方がまだ許せるらしい。
「別に隠すようなことじゃないだろ。会社の先輩って言えば済むんだから」
今でも片嶋は飲みに行くたびに俺の隣りに座るけど。
結局、それだけだった。
「それより土曜からの研修、楽しみですね。名古屋って何がおいしいんでしたっけ?」
遊びに行くようなウキウキ気分の宮野に呆れ果てながら、俺は別のことを考えていた。
―――振られたって言ってたのに。よりを戻したのか……
そのわりにはかったるそうで、少なくとも全てが上手くいってるという顔ではない。
「桐野さん、憂鬱そうですよね。研修嫌いなんですか?」
不意に返事を求められて我に返る。
「ああ、面白くねーもん」
名前でも呼ばれなければ聞き流しているところだ。
「そっか。でも、桐野さんは人前で話すの苦手じゃないからいいですよね。ロープレなんて言われたら、俺、緊張しまくりですよ」
「ふうん」
気のない返事をしてから、また溜息。
最近はずっとこんな調子だ。
さすがに自分でもマズいなとは思うけど。
「……けど、なんでわざわざ名古屋で研修なんだ?」
溜息を途中で飲み込んで世間話に参加する。
片嶋が付き合ってた男とどうなったかなんて、考えても仕方ないことだ。
「大阪、名古屋の営業部と合同なんですよ」
「真ん中辺りでってことか。安直だな」
どうやら東京と大阪・名古屋の営業部の主任以下をごちゃ混ぜにして10グループに小分けするらしい。
俺に言わせれば、経費の無駄遣い以外の何物でもないと思うんだが。
「お互い刺激になるだろうっていうことらしいですよ」
それも安易。うちの研修課が考えそうなことだ。
「そんなんで刺激になるかよ。どこも似たようなのんびりしたヤツしかいないのに」
同期もいれば、地方で一緒だったヤツもいる。前に東京で同じ部署だったヤツや出張先で一緒に仕事をしたヤツまで入れたら大抵顔見知りだ。交ぜたところで変わらないことくらい分かってる。
「業務に支障がないように土日月で行われるが、くれぐれも仕事に穴は開けるなよ」
部長が真面目な顔で言うんだけど。
子供じゃないんだから、わざわざそんなこと言わなくてもな。
だいたい穴なんか開けたら後で苦労するのは自分なんだ。
「名古屋支社の事務の子、可愛いらしいっすよ」
「楽しみだなぁ。名古屋に土産買っていかなきゃな〜」
……まあ、部長の気持ちもわからなくはないが。
「次の日が休みなら遊んで来れるのになぁ〜」
仕事が出来ない奴ほど研修も遊び気分なんだよな。
「じゃあ、振替休日は営業部内で重ならないように決めろよ。あ、桐野は木曜から例の案件の取り込み。頼むな」
必然的に俺は研修の翌日の火曜と翌々日の水曜を休みにされた。
まあ、そんなもんはいつだっていいんだけどな。
研修当日は研修センターに現地集合。
早く着いたのでコーヒーでも飲もうと思って休憩室に行ったら片嶋がいた。
「こんなところで何してんだ?」
てっきり企画室作成の営業ツールの説明かなんかに来たのかと思ったのに。
「本社管理部門の希望者も参加可能ってことだったので。俺、営業に出たことがないのでいい経験になるかと思って」
片嶋はうちの生え抜きだ。
よほどのヘマでもやらなければ企画室が手放すことはないだろう。つまり、営業に出ることなんてないはずなんだけど。
「それに、たまには変わった事をしてみたいじゃないですか。ずっと会社にいるのも飽きてきました」
ありきたりの研修に違いないのに、片嶋は随分楽しそうだった。
朝からニコニコしてるんだもんな。俺なんかダルくて仕方ないのに。
「研修なんて面倒なだけだけどな」
「トップ営業の桐野さんには必要ないでしょうけどね」
「周りがのんびりしすぎなんだよ」
俺が言うまでもないことだが、うちの会社はお気楽ムードが漂っている。
年功序列。
よほどのことをしない限り、35までに主任になって45までに課長になれる。
そういう奴が上でのんびりしてるから、部下に伝染するんだろう。
「でも、桐野さんの異動と同時に東京2課はいきなりトップで数字をクリアですからね。きっと次の昇格人事で主任ですよ」
片嶋がそんなことを話題にするなんて思いもしなかった。
「おまえでもそういうことに興味あるのか」
「もちろんありますよ。企画は情報が命ですから。営業情報も社内情報も全部チェックしてます」
俺は昇格なんてどうでも良いけどな。
人事に対しての希望と言ったら、できれば当分は異動したくないっていう程度で……
「大変だな、企画は」
あからさまに他人事のような返事をすると片嶋が満足そうに笑った。
「俺、桐野さんのそういうところが好きです」
「……変わってんな、片嶋って」
掴み所がないっていうか。
嘘くらいは見抜けるようになってきたけど、未だに大半が謎だった。
本当によくわからない。
だから、こんなに気になるんだろうか。
それなら、いいんだけど。
――――多分、違うよな……
グループ会社が保有している研修所で三日間。
内容はプレゼンとかロープレとか、そういうありがちなヤツだった。
俺にしてみたら、いつも仕事でやっていることで今更なことばかり。
思わずデカい口であくびをしていたら、それを見られて俺だけ名指しで課題が出た。
『お手本として』と言われても、資料作りは得意じゃない。
いつもアシスタントの子に作ってもらってるのに。
……一人でやれってか??
阿部辺りに手伝わせようと思っていたのに、他の連中は研修そのものよりも別の問題で頭が一杯だった。
「何揉めてるんだよ」
「二人部屋なんです。どうしましょう?」
阿部が紙とペンを持ってウロウロしていた。
「どうするって、何が?」
「部屋割り。東京地区参加者で6部屋割り当てられてるんですけど」
「別にどうでも」
そんなこと適当に決めてくれよ。
「どうでもいいのは多分おまえだけだぜ、桐野」
石村主任までそんな子供みたいなことを。
「気ィ遣うような相手はいないだろ?」
どうせ全員顔見知りなんだから。
「そうじゃなくて。片嶋さん、誰の部屋にすればいいですか?」
「片嶋? なんで?」
「そりゃあね」
宮野と速見が顔を見合わせる。
「片嶋は寝相も悪くないし、酔ってもいびきをかいたりはしないけどな」
おまえらじゃあるまいし。
「そうじゃなくて。同じ部屋で隣のベッドなんてドキドキしますよね、って話ですよ」
宮野は相変わらず片嶋のことになると真剣だった。
「中高生じゃあるまいし。いい大人が悩むようなことかよ。端から適当に名前埋めて出して来いよ」
って言っても、俺の話なんて誰も聞いてない。
「くじ引きっていうのも、なんだかね」
まったく、どいつもこいつも……。
「なら、片嶋本人に聞いてこいよ。そこだけ決まれば後はどうでもいいんだろ?」
「ですよね〜」
さっそく宮野が片嶋を呼びに言った。
「片嶋クン、誰と同じ部屋がいい?」
「え?」
いきなり連れてこられて唐突に訊かれて、片嶋がきょとんとした目を向ける。
それも、何故か俺に。
「二人部屋なんだと」
面倒くさいと思ったが説明してやった。
片嶋は笑いもせずに即答した。
「ああ、じゃ、桐野さん」
ちょっとは悩んだフリとかしてくれよ。
周囲の視線がえらく冷たい。
……まあ、そう答えるような気はしてたけど。
「なんで、桐野なわけ?」
石村主任は不服そうだ。
けど片嶋はちゃんと理由を用意していた。
「明日の研修資料仕上げないといけないでしょう?」
「そんなの、桐野さんの課題じゃない」
速見もロコツに冷たい。
「けど、ひとりじゃ大変でしょう? 大阪代表も名古屋代表もちゃんと後輩に手伝ってもらってますよ」
「アイツらと違って桐野ならそんなの簡単に終わらせるだろ?」
石村さんが言うと速見も宮野も頷いた。
「でも、桐野さん、PC得意じゃなさそうだし」
「悪かったな」
正直、それはかなり痛い所をついていた。
ベタ打ちのワードやエクセルくらいならできるけど、せいぜいその程度だ。
ビジュアル的なことを問われたら返す言葉もない。
「とにかく、さっさと仕上げましょう。終わらないと寝られないですよ」
お先に、と言って片嶋は阿部からキーを一つ受け取ると、研修課から与えられた資料を抱えた。
「悪いな、片嶋。助かるよ」
俺は溜息とともに残りの資料を抱え、片嶋の後についていった。
たかが研修課題。本当はそれほど憂鬱でもなかったけれど、アイツらに恨まれるのも面倒だからせいぜい憂鬱な振りをした。
「ま、速見さんや石村さんと同じ部屋になるのと違って安心ですけどね〜」
宮野はタラタラ不満を言いながらも俺たちを見送った。
部屋に入って改めて出された課題の資料を見た時、さすがにうんざりした。
量が多すぎる。
もっとも片嶋は平然としていたが。
「どんな感じで作ればいいですか?」
俺が提案の内容を説明している間にも片嶋の手は動いていた。
「さすが桐野さん。すごいですよね……ああ、ここでこれ使うんですね。いい切り返しです。その方がずっと分かりやすいですよね」
呑気に笑いながら。
「適当でいいぞ。後は口先でなんとかするから」
どうせ研修なんだから。
それに営業部でもない片嶋にあんまり遅くまで手伝わせるのも悪い。
「大丈夫ですよ」
片嶋は余裕だった。
これだけの資料をまとめ上げるのにいったいどれだけの時間がかかるのか、俺には見当さえつかない。営業部の連中も徹夜仕事になると思っているのだろう。入れ替わり立ち代わり差し入れを持ってきた。半分は偵察で半分は冷やかしだったが。
「どこまで終わったんすか?」
「全然」
遅々として進まない俺の手許を見て本当に一晩掛かりだと思ったのか、みんな早々に引き上げていった。
宮野と速見だけは何度も様子を見に来たが、そのたびに片嶋の眉間に皺が寄るので、そのうちに顔を見せなくなった。
「なんか、明日までに終わらない気がしてきたな」
今更ながらに事の重大さに気づく俺とは対照的に、片嶋はまた「大丈夫ですよ」と笑いながら軽く答えた。
「桐野さんはレジメだけ作っといてください。資料は俺がやりますから」
感心するやら呆れるやら。
問題はレジメじゃなくて資料なんだ。センスが問われる。
なのに、片嶋はいとも簡単に次々と仕上げていった。
「チェックお願いします」
俺がチェックするのと同じスピードで次の資料が出来上がる。
恐るべし、企画室。
おかげで一晩掛かりと思っていたレジメは12時前には出来上がった。
「これを保存して終わりですから、先にシャワー浴びてください」
今日の俺は片嶋の言うがまま。
「じゃ、お先に」
ほんと、こいつは頼りになる。エリート集団と言われる企画室の中でもピカイチで役員のお気に入りというのも頷ける。
バスルームから出てきた俺は机に置かれた程よい厚さにまとめられた提案書をぼんやりと見下ろしていた。
「あれ? もう出てきちゃったんですか?」
ビニール袋を持って部屋に入ってきた片嶋が残念そうに呟いた。
「え? ああ」
「背中流しに行こうかと思ったのに」
会社にいる時の片嶋は、絶対に冗談なんて言わないように見えるが、油断をしているとこうやって不意を突かれる。
「冗談だと思ってます?」
少し悪戯っぽく言うものの、どこか不安定な笑顔。
「当たり前だろ。同じ部屋ってだけで怨まれてんのに」
「いいじゃないですか。俺が桐野さんを指名させていただいたんだし」
だからマズいんだろう。
俺が『片嶋がいい』って言ったんなら恨まれたりしないって。
「とにかくサンキュ。助かったよ」
いつものように話を逸らせただけなのに。
片嶋は本当に嬉しそうに笑った。
こんな顔もするんだな……
そう思った時、ズキンという妙な動悸に襲われた。
あんまり良くない傾向だ。
「それより、ビール買ってきたので飲んでから休みましょう」
片嶋は袋から取り出した缶をミニ冷蔵庫に移すとさっさとシャワールームに消えていった。冷蔵庫には缶ビールがいい感じに冷たくなっていた。
けど、500ml缶6本って。誰が飲むんだ?
「残ったら明日飲めばいいですよ」
湯上がりの片嶋に聞いたら、髪を拭きながら呑気に答えた。
何がどうっていうんじゃないが、妙に色っぽく感じてまともに見る事ができなかった。
片嶋はちゃんと持ってきた短パンとTシャツに着替えていたが、これで備え付けの浴衣なんて着られた日には押し倒して襟元を開けたくなったかもしれない。
短パンからスラリと伸びた脚は、形良く筋肉がついていて、自然と目が行ってしまう。
そう言えば、ズボンを脱がせたことはなかったから、脚を見るのは初めてなんだな。
俺の視線にも気づかずに片嶋がビールを差し出した。
「お疲れさまでした」
「悪かったな。全部やらせて」
「そんなことないですよ。案がしっかりしていれば資料なんて簡単ですから」
片嶋が言うと本当になんでもなさそうに聞こえるんだけど。営業部の連中に手伝わせていたら、朝になっても終わってなかったに違いない。
ベッドに腰掛けてテレビを点けると蒼白い光が片嶋の顔を照らした。
冷えたビールが心地よく喉元を過ぎていく。
酔ったらヤバイかもな、俺。
「最近、こんなニュースばっかりですよね」
通り魔なのか、ストーカーなのか、女子学生が刺殺されたというニュース。
片嶋の言葉に当たり障りのない相槌を打ちながら、俺の脳は他のことを考えている。
ビールに濡れた片嶋の唇を見つめていたことに気付いて、慌てて視線を外した。
最初に唇を合わせた時は、こんな気持ちにはならなかったのに。
緩く脚を組んで隣りのベッドに腰掛けている片嶋の身体は、余計な力も入ってなくて。
片手を後ろについて、缶を口に当てたままテレビに見入っていた。
さっきまでの片嶋は会社にいる時と同じ顔。普通に会話をし、テキパキと仕事をこなしていた。
まったく可愛くないほど出来る後輩で。
けど、今は……
「おまえさ、」
「なんですか?」
涼しそうな瞳が静かに向けられる。
「会社の時と顔、変わるよな」
これって片嶋に興味津々って言ってるようなもんだけど。
それを聞いても片嶋はどこまで冗談かわからない言葉を返して笑うだけだ。
「桐野さんを誘惑しようかなと思って。明日も一緒に寝てくださいね」
こんなセリフにも慣れてきたけれど。
稟議書や企画書ではこれ以上はないほど的確な表現をする片嶋が、意図的に誤解を招くような言葉を選ぶ。
「移動するのも面倒だから、部屋割りはこのままだろ」
反対に俺は無意識のうちに当たり障りのない言葉を返す。
ただ、にっこりと笑う片嶋を真っ直ぐ見ることも出来ずに。
缶をグシャッと潰してゴミ箱に放り投げる。
ガコンという鈍い音がして細長いプラスチックの中に消えた。
そのままぼんやりしていたら、片嶋が立ち上がった。
片嶋の手に空缶が2つ。
「早いな、おまえ。もう2本飲んだのか??」
「集中したら喉渇いちゃって」
冷蔵庫からビールを取り出す片嶋の長い脚が嫌でも目に入る。
「どうぞ」
俺にビールを差し出して、片嶋は微笑んだ。
テレビは天気予報。明日は快晴だ。
「仕事したくなくなりますよね」
「そうだな」
今週はずっと天気がいいらしい。
……まあ、どうでもいいことだけど。
「桐野さん、研修終わったら真っ直ぐ東京に戻りますか?」
「え?……ああ」
曖昧な返事。
そんなことまで考えてなかった。
「何か予定があるんですか?」
「いや。別に何も。俺、火曜と水曜が振替休日だし」
「じゃあ、研修が終わったら一緒にK社に行きませんか? みんなで行くと目立つでしょうから」
K社はうちの課が担当している取引先の親会社だ。
今日から5日間の日程でイベントをするという情報が入っていた。
研修が終わった日に急いで行けば充分間に合う。
片嶋はそういうところもソツがない。
さすが企画室。いや、片嶋だからなんだろうな。
「いいよ。せっかく名古屋まで来たんだし、支社に行くより楽しいだろうしな」
あんまり乗り気じゃないのは、これ以上片嶋に特別な感情を持ちたくなかったからだ。
そうじゃなくても男の脚に見惚れる自分に嫌気が差しているところなのに。
俺の気持ちなど知る由もなく、
「良かった。俺も楽しみです」
予期しない時にあまりに素直な笑顔を向けるから。
もう、手遅れかもしれない。
そう思った。
片嶋が何時まで飲んでいたのかは知らない。
俺は「おやすみ」も言わずに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
目覚めた時、デスクにきちんとファイリングされた提案書を見ながら、何もなくて良かったと思った。
片嶋は隣りのベッドで俺に起されるまで気持ち良さそうに眠っていた。
その翌日は他の連中も含めて大宴会で。
俺の心配をよそに、研修は何事もなく終わった。
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