パーフェクト・ダイヤモンド





Dコーポレーションの件は無事締めに間に合い、自分だけに関して言えば今月も数字は安泰。
なのに、どこかに巣食った憂鬱はいつまで経っても抜けなかった。
仕事に余裕ができるとつい不要な事を考えてしまう。
つまり、片嶋のことだ。
もうすっかり自分の気持ちを持てあましていることも認識していた。
しかも、何故かこんな気分の時に限って何度も何度も会ってしまう。
朝はエレベーターで、午前中に会議で同席、昼には会社の前の交差点でばったり、午後になって役員室で顔を合わせた。
そのたびに余計な事を考えて、どんどんあらぬ方向に煮詰まっていく始末。
だからといって、まったく顔を見ないと今頃何をしているだろうと気になってしまうから厄介だ。


7時過ぎ。営業部のフロアに片嶋が降りてきた。
最近はすっかりうちにも溶け込んで、最初ほどの違和感はない。
「片嶋クン、もう帰るの?」
宮野は相変わらずデレデレだ。
「ええ。今日は早く終わったので」
上着は着ていたが、全くの手ぶらでバッグの類は持っていない。
「置き忘れる可能性のあるものは持ち歩かないことにしたので」
片嶋はそう言うけど。
あの日以来ってことは、カバンはまだきっと別れた男の家にあるんだろう。
溜息を堪えながらパソコンに向かっていると片嶋が声をかけてきた。
「桐野さん」
「なんだよ」
親会社の企画部長とアポが取れた件は伝えたはずだと思いながら、少しぶっきらぼうに言葉を返す。
だが、片嶋の用事はそんなことじゃなかった。
「今日、飲みに行きませんか?」
隣の作業用のデスクに腰掛けて、俺の手元を覗き込んだ。
なんとなく周囲の視線を感じるのは気のせいじゃない。
「行かねーよ。これ、8時までに仕上げなきゃいないんだ。また今度な」
ピラピラと稟議書をひらつかせた。
役員会用の稟議書は今日が締め切り。どうしても8時までに管掌役員に提出してOKを貰う必要があった。
「じゃあ、終わるまで待ってます」
「OKが出なきゃ、やり直しなんだよ。8時になっても終わらないかもしれないぜ?」
片嶋はしばらくの間、作業台にある共通端末で入力作業をしている宮野の手元を見ていたが、すぐに視線を戻して微笑んだ。
「手伝いましょうか? 俺、稟議書、提案書の類はかなり得意ですよ」
「……それは知ってるけどな」
いつの間に脱いだのか上着を椅子の背に掛け、宮野の隣に腰掛けた。
「役員の好みも考慮して、一回でOK頂けるように作りますよ」
言われてみれば、役員の好みなんて考えたこともなかったな。
「……じゃあ、頼むかな。添付資料作ってくれよ」
数字の並んだ目が痛くなるような分厚い一覧表を元に片嶋はさっさと資料をおこした。
出来上がったものをさらに自分で念入りにチェックした後、俺に手渡した。
「こんな感じでどうです?」
俺らが作るより文字が一回りでかい。
老眼対策か??
「営業部の管掌役員は常務でしょう? だったら、文字は大き目にして、要旨は1ページ目に無理やり入れた方がいいんです」
そんな傾向と対策があったとは。
それ以上に、営業部からこんなまともな資料のついた稟議が提出されたことは過去に一度もないだろう。
「上出来。っていうか、すっげーな。さすが企画室」
「毎日こんなことばっかりやってますから」
そりゃあ、分かってるけど。
それにしても。
「けど、後で直せって言われても誰も直せませんよぉ〜」
宮野が情けない声を出した。パソコンを駆使して作られた資料など怖くて触る気にもならない。
宮野も俺もそういうのは得意じゃなかった。
片嶋はクスッと笑ってから、俺を見つめた。
「呼びつけていただければ、いつでも喜んでお手伝いしますよ。桐野さんには色々お世話になってますから」
周囲の誤解を招くような発言も久々だ。
案の定、宮野がジットリした目で俺を見た。
「いつの間にそんな仲になったんですかぁ? もしかしてこの間の研修で……」
そんなわけないだろ。
あれ以来なんとなく気まずくて、仕事の話しかしてないって言うのに。
「どんな仲だよ。ったく……」
今は宮野のアホ話に付き合ってる場合じゃない。
「それより、早く稟議書を提出して飲みに行きましょうよ。ここで待ってますから」
片嶋に急かされながら役員室に向かった。

常務は稟議書をパラパラとめくって斜め読みしただけで、すぐにOKを出した。
「営業部でもまともな稟議書が作れるんだな」
妙に感心しながらそんなことを言われて俺は苦笑した。
実際、こんなにすんなりOKが出たことはなかった。軽い足取りで役員室を出て、エレベーターを降りると目の前に片嶋が立っていた。
しかも俺のカバンを持っている。
「このまま行きませんか?」
「え?……けどな、」
机も片付けていないし、パソコンの電源も入れたままだった。
「端末、落としてきました」
手回しがいい。
というか、良すぎる。
「そんな顔しないでくださいよ。下心はありません。約束を遂行したいんですけど、他の人も一緒だとなかなかそうはいかないので」
言われてみれば、奢ってもらう約束だった。
そんな何ヶ月も前のことを片嶋はちゃんと覚えていたのか。
意外と律儀。
見かけによらない。
なんの予告もなくいきなり飲みに行こうなんて言うから変に疑ってしまった。
振り回されたせいで被害妄想気味なのかもしれない。
まあ、半分は自惚れから来る期待なんだろうけど。
「で、宮野たちにはなんて言って断わってきたんだ?」
あいつらが大人しく俺と片嶋を二人きりで行かせるとは思えない。
「仕事のことで桐野さんに折り入ってご相談があるので……と」
なるほどな。
片嶋がそう言うんじゃ、仕方ないって思ったか。
「ご都合、悪いですか?」
「いや」
片嶋は、きっと本当はそんなに変わったヤツじゃないんだろう。
少なくとも俺が最初に思ったよりは、ずっとまともな感覚を持ち合わせている。
「じゃ、行きましょうか」
楽しそうにエレベーターのボタンを押す片嶋の口元を見ながら俺も微笑む。
今日は作り笑いじゃないらしい。
たったそれだけのことが嬉しかった。


片嶋がよく行くという小洒落たバーで軽くつまみながらゆっくりと過ごした。
話の内容といえば仕事のことばかりだったが、それでも楽しくて時間はどんどん過ぎていった。
相変わらず片嶋は酒量が多く、あっという間にめちゃめちゃ濃いアーリーの水割りをあけて、さっさと自分でお代わりを作っている。
「大丈夫か。そんな濃い酒飲んで。また、吐くなよ??」
俺は真面目に心配してるのに、片嶋はあははと軽く笑った。
こんなに飲んでもほんのり顔が赤くなるだけで、話すこともまともだし態度が変わったりもしない。
どこから酔っ払っているのか分からないのが難点だ。
「片嶋、それは、もう水割りじゃないぞ??」
水の方が少ないんじゃないかという濃さ。
それをくいっと一気飲みした辺りでさすがにちょっと心配になった。
「片嶋、聞いて……」
俺が呼ぶのと同時に背後から声がした。
「……ショウ?」
不意に名前を呼ばれて片嶋がグラスを倒した。
「……中……野、さん」
幸いグラスの中は氷しか入っていなかったから、ほんの少しシャツの袖を濡らしただけで済んだ。
けど、片嶋は動揺していた。
いつになく気まずそうな顔で、その男に挨拶をした。
「会社の帰りか?」
「……そうです。中野さんこそ……金曜は……」
「中野さん」と呼んだその響きは妙に不自然で、呼び慣れていないことを感じさせた。
普段は苗字でなんか呼んでいないのだろう。
男が片嶋を「彰」と呼んだ様に。
「ああ、曜日が変わった」
言わなくても分かる。
コイツが片嶋の……―――――
男から少し離れた所にいかにもそれ風の男が立っていて、じっと二人のやり取りを見守っている。
ずいぶんと若い男。どういう心境なのか、心配そうというよりは不思議そうな顔でこちらを見ていた。
片嶋を振った男とその新しい恋人。
笑ってしまうくらい分かりやすい構図だった。


片嶋はそいつを俺に紹介する気はなさそうだった。
だが、男がチラチラと俺を見るから、気まずそうに必要最低限の説明をした。
「会社の先輩だよ」
男は「そうか?」と疑問形で返事をしてから話を変えた。
「財布、後で取りに来いよ」
片嶋が座っている椅子の背に手を置いて、すぐ傍らに立った。
「いえ、今日は遠慮しておきます。お邪魔でしょうから」
片嶋の拗ねたような返事を聞きながら、俺は無言で水割りを飲んだ。
男は30代半ばくらいで見るからに遊び人風。
ダブルのスーツ姿だがサラリーマンなどではない。賭け事かなんかで金を稼いであとは水商売のコイビトの世話になっているのか、そうでなければヤバイ仕事に手を染めていて、それを隠すためにわざと軽い身形をしているのか……まあ、そんな感じだった。
―――ってことは、片嶋もコイツに貢いでたのか?
入社間もないサラリーマンにそんな金なんてないだろうに。
だから自宅から通っていたんだろうか。
けど、あんまり家には帰らないって言ってたよな……
ぐるぐるといろんなことが頭の中を巡っていった。


その後も片嶋はそいつと2、3の言葉を交わした。
平静を装っていても内心はそうじゃないんだろう。お天気レベルの世間話をする間、片嶋の細い指が落ち着きなくグラスを弄んでいた。
男は後ろに立たせておいた新しい恋人を隅の席に追いやってから、俺の存在を無視して片嶋の肩を抱いた。
慣れた手つき。
男の手にしっくりと馴染む片嶋の華奢な身体。
男は薄ら笑いとともにチラリと後ろの男に目をやって、片嶋の耳元で囁いた。
「あいつは自分の家に帰すから、今から部屋に来い……そう言ったら、ついて来るのか?」
片嶋は無表情だった。
だが、ほんの一瞬だけ俺に視線を送ってきた。
俺にはその意味はわからなかったけれど。
「なんでそんな顔をしてる? 会社には内緒ってわけか」
男が少し意地悪く囁く。
そんな言動の全てが酷く狡賢そうに見えて、だんだん腹が立ってきた。
一気に水割りを飲み干して、そっと店員を呼びつけると会計を済ませた。
とにかく一秒でも早く店を出ようと思った。
「そろそろ帰ろうぜ、片嶋。俺、明日は早いんだ」
何の予定もなかったけれど、そう言って片嶋の返事を待った。
強引に俺の部屋に連れて帰っても、片嶋は何も言わなかっただろう。
でも、選択権は片嶋にある。
迷惑に思うなら「先に帰ってください」と言うはずだ。
半ば賭けのような気持ちだったが、片嶋は意外にもホッとしたような顔で男に別れを告げた。
「じゃあ、俺も帰りますから」
椅子から立ち上がった瞬間、片嶋がフラリとよろめいた。
条件反射でその腕を掴むと、ピクリとわずかに眉が動いた。
だが、すぐに諦めたような表情になると、そのまま身体を預けた。
「大丈夫か?」
男に対してのあてつけだろうか。
それとも酔っているだけなんだろうか。
相変わらず俺には掴めなかったけれど。
落としそうなもの全てを片嶋のポケットから取り出すと俺のカバンの中に放り込み、椅子に置いてあった二人分の上着を持った。
「歩けるか?」
片嶋が無言で頷いた。
傍らで男が物欲しそうな視線を向けていた。
「ショウ、」
呼び止める声がさらに甘く響いて、片嶋の口元が歪んだ。
都合のいい時だけ片嶋を振り回して。
飽きたら捨てる。
だが、捨てた後でも誰かに取られるのは悔しい。
最低の男だ。
なんでこんなヤツがいいんだよ。
それよりも。
なんで俺はこんなヤツに勝てないんだよ。


片嶋は穏やかな声で「じゃあ」とだけ言って、俺に腰を抱かれたまま店を出た。
だが、店を出た途端に深い溜息をついた。
「まだ電車あるけど、どうする?」
今手を離したら、真っ直ぐアイツのところに戻ってしまいそうな気がして。
放っておけなかった。
「……桐野さんの部屋に行ってもいいってことですか?」
「ああ、俺は構わないけどな」
俺と視線を合わせないまま、片嶋が答える。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
気持ちはまだアイツのところに置き去りのまま。
そんな横顔だった。


目の前で止まったタクシーに先に乗り込み、片嶋を引き摺り込んで抱き寄せながら顔を覗き込んだ。
俺が半分ふて腐れていることに気付いたのか、片嶋がそっと顔を上げた。
泣いてはいなかったけれど、目が潤んでいた。
「……すみません」
「何がだよ」
「……俺、桐野さんに……奢るって言ったのに……」
ったく。
どっぷり落ち込んでるくせにそんなこと気にするなよ。
「また、今度な」
タクシーの運転手が怪訝そうにミラーを覗き込んでいる。
片嶋は泣きそうな顔で俺の肩にもたれかかっていて、俺の手は片嶋の腰に回されている。
ゲイのカップルに見えてもぜんぜん不思議じゃない。
って言うより、そうとしか見えないよな。
……まあ、いいか
「寝てもいいぞ。ちゃんと連れて帰ってやるから」
話しかけたが返事はなかった。
眠ったのかと思ったが、目は開いていた。
ただし、焦点はぜんぜん合っていなかったが。

――――そんなに惚れてたとはな……

片嶋の柔らかい髪が俺の頬をくすぐった。
あんな男のどこがいいんだ。
そんな言葉が口元まで出かかった。
けど、それは禁句だよな。



片嶋はなんとか自力でタクシーを降りたが、足元は覚束なかった。
見た目にはわからなくても、やっぱり相当酔っているんだろう。
エレベーターに入るなり壁に凭れかかる。
その憂鬱そうな表情が、酒のせいなのかアイツのせいなのかは分からなかったけど……

ようやく部屋まで辿り付いて、バスタオルと着替えを渡した。
「片嶋、俺んちに着替え置いとけよ」
片嶋はうつろに一回頷いただけ。
今は何を言っても駄目って感じだった。
「俺、水買ってくるけど、他になんか欲しいもんあるか?」
「……俺も……行きます」
返事と一緒に不安そうな視線が飛んできた。
「おまえはここに居ろよ。まともに歩けねーだろ?」
「置いていかないでください」
片嶋の手がそっと俺の腕を掴んだ。
「置いてくって……すぐそこのコンビニに行くだけだぞ? 分かってるか?」
一度頷いてから、片嶋は言い直した。
「……一人にしないでください」
こういう時に付け入るのは最低なことだと思う。
だが、気がつくと俺はその華奢な身体を抱き締めていた。
魔が差したんだと自分に言い訳をした後、片嶋に謝った。
「……悪い」
その言葉が正しいとは思わなかったけれど。
他には何も思い浮かばなかった。
「謝らないでください……余計に落ち込みそうですから」
片嶋の声は掠れていて、泣き出すんじゃないかと思った。
「でも、なんか、弱ってる時に付け込むみたいで嫌だろ?」
言いながらそっと片嶋の額にかかった髪を払うと、不意に俺を見上げた。
何か言いたそうに少し口を開いて。
なのに、いつまで経っても何も言わなかった。
「何だよ? 俺、なんか変なこと言ったか?」
それでも返事は無い。
「片嶋? なんか言えよ??」
ゆっくりした瞬きの後、心細そうな視線が少しの間、俺の肩の辺りをさ迷った。
「……桐野さん……」
その後の言葉。


――――抱いてください……と聞こえた。



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