ためらっている俺に片嶋は乾いた笑いを向けた。
「嫌ならいいです」
嫌じゃない。
けど。
「おまえがどうとかじゃなくてさ。弱みにつけ込むみたいで嫌なんだって……」
弱みなんて見せないヤツかと思っていたのに。
「そんな風に思いませんから……」
抱きたいと思った。
けど、今はまだダメだと自分に言い聞かせながら、片嶋を抱き寄せた。
それでさえ必要以上の力が入る。
「……桐野……さ……」
片嶋が困惑したように俺を見上げた。
「じっとしてろよ」
それ以上、何もしないと決めたくせに。
片嶋を抱いた腕を弛めることが出来なかった。
ほんの少しでも、片嶋がそれ以上を求める素振りを見せたなら、あるいはこの行為を拒否したなら、俺はこのままでは居られなかっただろう。
けれど、片嶋はじっとしていた。
腕の中で静かに目を閉じて。
俺に身体を預けていた。
片嶋の髪の柔らかさや匂いを普通に認識できるようになるまでにずいぶんと時間がかかった。
ようやく落ち着いてくると肩にもたれている片嶋の瞼や口元に視線が行き始める。
ふうっと息を吐いて仕事のことを考え始めた時、片嶋が不意に口を開いた。
「……今、何考えてますか?」
会社と同じ、落ち着いた声だった。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「ぜんぜん関係ないこと考えてるんだろうなって思ったので……」
なんでそんなことまで分かるんだか。
理性が飛びそうなので意図的にそうしていたんだと説明したところで、言い訳にしか聞こえないだろう。
「そういう深読みは可愛くないな」
「分かってます」
首筋に当たる声が体の奥を震わせる。
「……そんな、大した事考えてねーよ」
「彼女のこととか?」
片嶋がそんなことを聞く理由だって、アイツのことを考えたくないからなんだろうけど。
「おまえに作ってもらった資料、ちゃんと説明できるかな、とか。そういうこと」
背中を抱き締めていた手を緩め、そっと片嶋の髪に触れた。
しばらくの間、片嶋は大人しく髪を撫でられていた。
相変わらずどこを見ているのか分からない目で。
「……大丈夫ですよ、桐野さんなら」
返事の後、片嶋の手がそっと俺の身体を押し戻した。
片嶋の体温が遠くなっていくのを感じながら、腕を離した。
「で、コンビニ行くけどホントに一緒に来るか?」
姿勢を正してからコクンと頷く。
俺は財布だけを掴んで、靴を履いた。
「俺も片嶋に稟議書作成の手ほどきを受けといた方がいいかなぁ」
あくび混じりに片嶋を振り返ると、目が合った。
けど、視線は俺を通り越してどこか他の場所を見ているようだった。
それも、最初に会ったあの日と同じ。
ポーカーフェイスと思っていたのに。
「部屋、戻るか?」
そんな顔をされたら、連れて歩けない。
「ご迷惑ならコンビニの外で待ってますから」
「そうじゃなくってな、」
今の片嶋を他人の目に触れさせたくない。
心配だからなのか。それとも、単なる独占欲か。
「……まあ、いいんだけどな。俺から離れるなよ」
俺の顔をじっと見上げてまた一つ頷く。
それも妙に素直そうな瞳で。
今、片嶋の目に映っている俺はきっとものすごく安全なヤツなんだろう。
28にもなって。
「抱いて」と言われて抱き締めるだけのヤツなんていねーよなぁ……
心の中で呟いて、気付かれないようにそっと深呼吸した。
コンビニで買い物をしている間、片嶋はごく普通だった。
芯の強さなのか、プライドの高さなのか。
「桐野さん、家に酒とかあります?」
「何? おまえまだ飲もうと思ってんのか?」
「いいじゃないですか、明日休みなんだし。……あ、桐野さん、明日早いんでしたっけ?」
作り笑いがちょっと痛々しい。
「そんなの、嘘に決まってんだろ」
片嶋は少し驚いた顔をした。同時に眉の辺りが少し歪んだ。
そんな片嶋の細かな表情にさえ振り回されて、本当の気持ちを他愛のない言葉にすり替える。
「……ビールくらいならあるよ。おまえが飲むには足りないと思うけどな」
片嶋は何も答えなかった代わりに、おもむろに缶ビールやら缶チューハイやらをカゴに入れた。
それも誰がそんなに飲むんだと思うほど何本も。
そしてレジでちゃんと自分の財布を取り出した。
いつの間に俺の鞄から財布を出したんだか。
「どうせ大半は俺が飲むんですから」
こういうソツの無さにも感心するが。
「それ、全部飲む気か? おまえ、ほんとザルだな」
マイペースなのかと思えば、どうやらそうでもないらしいし。
何でもカンペキなのかと思えば、あんな男に振り回されてるし。
「桐野さんもちょっとは付き合ってくださいよ」
口元だけで微笑む片嶋を見ながら、まだ安堵出来ずにいる自分を感じた。
「おまえと飲むと深酒になるからヤなんだよな」
表面的には普通の会話。
でも、片嶋は無理をしてる。
まだ不安定な場所を行ったり来たりしているから。
とにかく早くマンションに連れて帰ろうと思った。
二人きりの部屋で俺の理性がどこまでもつかなんて分からなかったが。
……まあ、その時はその時ってことで。
部屋に戻ってシャワーを浴びて、テーブルにビールとつまみを並べる。
片嶋は甲斐甲斐しく働いて、用意が整ったのを確認するとソファに腰掛けていた俺の足元に座り込んだ。
「んなとこに座るなよ」
いくらカーペットが敷いてあるからといっても、床の上って、なあ……
「ここがいいです」
焦点の合わない目が俺を見上げていた。
狙いなのか天然なのか。
普段のこいつなら演技ってことも充分に有り得るが、どうやら今日は違うらしい。
多分、相当酔っている。
「……好きにしろよ」
まあ、あれだけ飲めば酔っ払うよな。吐いたりしなきゃいいが。
「桐野さんって綺麗好きですね」
「そんなことねーよ。あんまり部屋にいないから散らからないだけだろ」
片嶋はビールを飲みながらもまだ俺の顔を見上げている。
「いつも新しい着替えが置いてあって」
「おまえみたいな奴がいるからだろ?」
シラフの時はこんなにキョロキョロしないもんな。
酔ってるよ。
間違いない。
「会社の人、よく泊めてあげるんですか?」
「今はそうでもないけどな。転勤前は後輩連中の宿泊施設だったよ」
地方勤務の時は後輩がしょっちゅう来ていた。
ふと、二人の時間がないと彼女に何度も愚痴をこぼされたことを思い出した。
「俺も、一応後輩ですもんね」
「まあな」
アイツに振られた日からもうずいぶん経つのに、片嶋はまだそれを引き摺っている。
バカだよなって思うけど、俺がどうにかできるわけじゃない。
抱いてくれと言われた時に、妙な意地なんか張らなかったら良かったんだろうか……
ぼんやり考えていたら、いきなり片嶋が真正面から切り込んできた。
「桐野さん、男の人抱くのってどう思います?」
あやうく吹き出すところだった。
「なんでいきなりそういうことを聞くんだよ??」
「知りたかったので」
それって理由になってないだろ?
俺はナンで知りたいのかを聞いてるんだよ。
「考えたことねーよ」
片嶋は頷いたのか首を傾げたのかわからない曖昧な動作をしてから、俯いた。
「……桐野さんって真面目なんですね。もっと遊んでるのかと思ってました」
それが理由で俺に懐いたとか言うなよな??
「俺のどこが遊んでるように見えるんだよ」
人を見る目がないよ、片嶋。
だから、あんな薄っぺらい男に……―――
「俺、他の奴らよりずっとマジメだぜ?」
言った途端、片嶋が微笑んだ。
自分で言うなってことなんだろうけど。
「桐野さんが一緒にいてくれて良かったです。一人だったら、俺、何するか分からないし……」
穏やかじゃないセリフをさらりと言って。
ビールの空き缶をペコンとへこませた。
「おまえ、明かに情緒不安定だな」
「今だけです」
そう言うけど。あれから、もう何ヶ月も経っている。
「いつまで?」
「……わかりません」
視線は逸らされたきり戻ってこなかった。
「片嶋、」
呼びかけたけど、慰める言葉なんて思い浮かばなかった。
片嶋は、キュッと目を閉じてようやく言葉を吐き出した。
「……俺だって、こんなことくらいで自分が崩れるとは思いませんでした」
虚ろに響くそれを聞きながら。
俺も溜息をついた。
「そんなにアイツがいいか?」
あんな男の良い所なんて俺にはさっぱり分からないけど。
ずっと一緒に居た片嶋には、いろんな思い出があるんだろう。
優しかった時だって、楽しかった時だって、沢山あるに違いないから。
「……初めて好きになった相手だから……でも、本当は今でも好きなのか、自分でもよく分からないんです」
片嶋は静かにそう言った。
そう思っていても離れられないんだな……
「まあ、人間、自分のことは客観的には見られないから、そんなもんなんだろうけどな」
片嶋は床に座ったまま俺の脚に寄りかかった。
「もう寝ろよ」
俺の言葉に淋しそうに笑って。
「もう少し飲んでからにします。眠れそうにないので」
手もとの缶ビールを見つめたまま「先に休んでください」と呟いた。
見慣れた作り笑い。
今更、何を隠すためなのか。
「そう言われても、おまえをほったらかして寝られねーだろ」
片嶋の口元に少し苦い笑いが浮かぶ。
「……優しいんですよね、桐野さんって」
誰と比べてるかなんて聞くまでもない。
「普通だと思うけどな」
俺は新しい缶ビールのプルタブに指を掛けた。
ニュースが流れているだけの部屋にプシュっと心地よい音が響く。
くいっと一口飲んでから、ソファを降りて片嶋の隣に座った。
「桐野さん……」
今なら押し倒してもすんなり受け入れてくれるだろう。
いつもなら迷わず抱くようなシチュエーションなのに。
好きになるっていう感情は思う以上に厄介で、打算や客観的な判断じゃどうにもならないものだから。
俺も、片嶋も。
―――振り回されてばっかりだな。
「まあ、あんまり無理するなよ」
抱き寄せたら、「すみません」という短い言葉の後、遠慮がちに顔を埋めた。
頭もルックスも人当たりもよくて、ソツも隙もない片嶋が、あんな男に振り回されるなんてと思うけど。
こんなことがなければ、俺は片嶋を好きになったりしなかったんだろうか。
それとも、会社にいる時のような可愛げのない片嶋を、やっぱり好きになったんだろうか。
「……絶対、俺の方がいい男だと思うけどな」
そう呟いたら、片嶋が少しだけ微笑んで俺の顔を見上げた。
「俺も、そう思います」
涼しげな目が眩しそうに何度か瞬きを繰り返す。その間も視線は俺の目を見たまま離れなかった。
まだ、アイツのことしか考えられないくせに。
そう思ったけど。
結局、その瞳に負けて俺は自分から口付けた。
軽く触れただけの短いキス。
唇を離すのがこんなに苦しかったことはない。
「ダメだな、俺……」
俺の独り言に、
「それって、不本意ってことですか?」
片嶋が冗談めかして笑った。
「……まあ、いいですけどね。桐野さんらしくて」
そう言った片嶋の目がいつもと同じに見えたから。
俺も少しだけホッとしてビールに口をつけた。
片嶋も半分俺に凭れ掛ったままクイッとビールを飲み干した。
そのあと俺に向き直って言った。
「じゃ、朝まで飲みますか」
見惚れるほど華やかな笑顔で。
「へ?? 本気かぁ?」
「もちろん」
そう答えて、また勢い良く缶を開けた。
結局、俺たちは延々と飲んでいた。
とは言っても、片嶋の酒量についていけるはずもなく。
俺は常に半分シラフで。
ときどき笑って、たまに心配しながら何時間も過ごした。
「……片嶋、まだ飲むのか?」
さすがに明け方になると、普通に会話が出来ないほど酔いが回ってきた。
片嶋はやけに楽しそうに次のプロジェクトの話をしてるけど、言ってる側から俺の脳を素通りしていく。
このペースで飲んでたら、あれだけ大量に買い込んだ酒だってあっという間になくなるだろう。
「おまえ、そんなに飲むと腹壊すぞ?」
声を掛けたが、片嶋は次の缶に手を掛けたまま固まっていた。
「もしかして、寝たのか?」
ちょっと喋らなくなったと思ったら爆睡してた。
「おまえのそういうところがわかんないんだよなぁ……」
くったりソファに寄りかかって眠っている片嶋はそれなりに幸せそうに見えた。
「どうでもいいけど、そこで寝るなよ」
笑いながら抱き上げようとしたら、不意に片嶋の唇が動いた。
「……ベッド、連れてって」
甘えたような声が耳の奥を擽る。
アイツと間違えてるんだと思ったら、なんだか腹が立った。
俺には常に『ですます』なのに。
アイツにはそういう口調で話すのか……。
深呼吸とも溜息ともつかない空気を吐き出してから、片嶋の身体をそっとベッドに下ろした。
「ったく。あんなヤツと間違えんなよ」
やるせない気持ちでもう一度溜息をついた時、片嶋が目を開けた。
潤んだ瞳で真っ直ぐ俺を見上げて。
掠れた声が呟いた。
「……間違えて……ないです…」
理性は簡単にプツリと切れて、俺はそのまま片嶋の唇を塞いだ。
俺も相当酔っていて、いまいち状況が分かっていなかったけれど。
このまま最後まで行くと思った。
片嶋がまだアイツを忘れられなくても。
特別な関係になれば、なんとかなるだろうと思った。
なのに。
片嶋は二度目のキスの途中で、ニッコリ笑ったまま眠ってしまった。
「おまえなぁ……」
それを確認した時、妙に脱力してベッドに突っ伏した。
ホントに、片嶋ってヤツは……―――
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