パーフェクト・ダイヤモンド

13




片嶋にパジャマを着せて、ソファに座らせた。
「なんか食うもの買ってくるから、大人しく待ってろよ」
濡れた髪を指で梳いたら、片嶋は俺から目を逸らして頷いた。
「何が食いたい?」
「……なんでもいいです。あまり食欲がないので」
セーターを着込んで、財布を持って外に出た。
だが、コンビニには行かずにドアの横に立っていた。
5分後、ワイシャツとズボンに着替えた片嶋がドアを開けた。
「どこへ行くんだ?」
俺の声にあからさまに驚いて硬直した。
「おまえの嘘くらい、俺はもう見分けられるんだよ」
華奢な肩をそっと抱いて部屋に戻る。
「俺を騙そうと思ってんなら、ちゃんと目を見てにっこり笑って嘘をつくんだな」
片嶋は少しだけ頷いて、俺を見上げた。
「……今度から、そうします」
それから、少しだけ笑った。
苦しそうでもなく、困った様子でもなく。
少し照れたような笑顔が瞼に焼きついた。
コンビニになんか行かないで、家にあるものでも食べてようかと思った時、片嶋が俺のセーターを引っ張った。
「桐野さん、」
「ああ?」
「これからケーキ買いに行きませんか?」
「ケーキ?」
片嶋は、相変わらず俺にはよくわからなくて。
素直に理解不能を示したが、理由は教えてくれなかった。
「片嶋って甘いもの好きなのか?」
「桐野さんは嫌いなんですか?」
「俺はなんでも食うけどな」
真面目に答えているのに、片嶋は突然ポーカーフェイスを崩して華やかに笑った。
「なに笑ってんだよ」
「……なんでもありません。コンビニ行くんですよね?」
「ああ」
まあ、いいか。
理由は何でも。
片嶋が笑ってるんだから、それで。
「どうでもいいけど、一緒に行く気ならもうちょっと何か着て来いよ」
冷気なんてすぐに染み込んでしまいそうな薄い身体。
慌てて身につけたシャツはボタンさえちゃんと留められていなくて、胸元にアイツが付けた赤い痕が覗いていた。
「クローゼットにセーターがあるから」
片嶋の手を引いて、クローゼットの前まで連れていき、シャツのボタンをきっちり上まで留めてから、セーターを着せた。
その間、片嶋はただ笑って俺の手元を見つめていた。


コンビニでつまみとビールとケーキを買って遅すぎる夕飯を済ませた。
「泊まってけよ。明日、ちゃんと家まで送ってくから」
俺の申し出に片嶋が淋しそうな笑顔で首を振った。
「もう、十分ですから」
当たり障りのない断わりの言葉が胸を抉る。
片嶋がして欲しいと言えば、何だってしてやるのに。
俺にできることなら何だって……
なのに、家まで送ることさえ拒否されるんだもんな。
「嫌ってことか」
「そうじゃないです」
片嶋の視線はテレビの上に置かれた時計に注がれている。
俺が引き止めたりしなければ、アイツと過ごすはずだった時間。
「じゃあ、なんだよ?」
「……駄目なんです」
無意識のうちに首筋に触れる片嶋の指。
アイツが付けた痕が見えるかのように正確にその場所を往復する。
「意味、わかんねーよ」
妙に苛立つのは何故だろう。
駄目だと言われたことか?
「桐野さんなら他にいくらでもいるじゃないですか。俺みたいな奴じゃなくて……」
「おまえだっておんなじだろ? 選び放題なのにさ」
それでもアイツがいいんだもんな。
俺じゃなくて、アイツが。
「桐野さんは、俺なんか相手にしてたら駄目です」
「それって、俺を振ってんのか?」
片嶋から返事はなかった。
結局そういうことなんだって、長い沈黙の後でようやく分かった。


片嶋がまた俺を見なくなったことを確認するのが怖くて、目を逸らせたまま、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「……明日、送ってくから。今日はここに居ろよ」
それでも片嶋の心配をすることくらいは許されてもいいと思ったのに。
「大丈夫です。ちゃんと帰れますから」
「駄目だ」
俺が頑なにそう言い続ける理由なんて片嶋も分かってる。
「桐野さん、俺のこと信用してないんですか?」
「してないよ」
どうしてもアイツのところに戻したくない。
それだけだ。
片嶋はただ穏やかに俺を見ていた。
大きく一つ息をついて。
「……明日、帰ります」
そう答えた。



翌朝、目覚めた時、片嶋は俺の腕の中にはいなかった。
慌てて飛び起きたら、ソファに腰掛けている片嶋が目に入った。
もうすっかり着替え終わって出ていこうとしているところで、その手にメモ用紙とペンが握られていた。
「送っていくって言ったろ?」
俺が用意したセーターも身につけてなくて。
ここに来た時と同じワイシャツにズボン姿。
「一人で……帰らせてください」
書き掛けのメモを片手でクシャッと丸めて、視線を落す。
「駄目だ。おまえをアイツのところに帰したくない」
黙り込む片嶋にもう一度念を押した。
「そこに座って待ってろよ」
手早くシャワーを浴びて服を着た。
その間、片嶋はソファの端に腰掛けて待っていた。
端整な横顔は初めて会った日と同じ、温度のないポーカーフェイス。
静かな部屋にバスルームのドアを閉める音が響くと虚ろに視線を上げた。
それでも俺の顔は見ないまま。
「……俺が……黙って先に帰ると思わなかったんですか」
口先だけがわずかに動いて言葉を吐き出す。
熱のない平淡な音に聞こえた。
「……おまえだって、俺がなんでここまでするのか分かってないわけじゃないんだろ?」
知らず知らずのうちに責めるような口調になる。
そんな言葉なら言わない方がいいとわかっているのに。

片嶋は返事をしなかった。
黙って立ち上がって玄関に向かう。
「片嶋、」
その後姿を呼び止めて、鍵を放り投げた。
「おまえにやるよ」
どんなに駄目だと思っても。
諦めきれなくて。
「心配しなくてもスペアキーだから、遠慮なく持ってていいぜ」
片嶋は手の中の鍵をしばらく眺めた後、何も言わずにポケットに入れた。




もう営業部に顔を出したり、みんなで飲みに行ったりすることもなくなるのだろうか。
仕事の話だったとしてもまともに口を聞いてくれないかもしれない。
会社で片嶋に会うまで、俺はいろんな心配をしていた。
なのに片嶋は以前と全く変わらなかった。
フラリと営業部のフロアに下りてきて、適当に世間話をし、適度に仕事の話をして、普通に俺を誘った。
それも、もう今週3回目。しかも連日。
最初は火曜日。
片嶋は飲み会を早めに抜け出して駅とは反対方向に歩いていったらしい。
2回目はその翌日の水曜日。
散々飲んでタクシーで潰れて俺んちに泊まった。
朝、目が覚めてからも全く以前と変わりなかった。
口数は減ったような気がしたけれど、仕事の話をしながら一緒に会社に行った。
そして、今日。木曜日。
宮野たちに囲まれて楽しそうに酒を注ぎ返していた。
もういい加減遅い時間だけれど、抜け出す様子はない。
なんとなくホッとした。
片嶋が何を思ってアイツと俺の間を行ったり来たりしてるのかなんて知りたくもなかったし、出来るだけ考えないようにしていたけれど、そんな努力はあんまり役には立ってなかった。
何をしていても片嶋が気になる。
「そっか。じゃあ、今回の役員会は企画と営業推進の戦いになるんだね」
「まだ分かりませんよ」
酔っ払い相手に仕事の話。
余裕の微笑み。
涼しい眼差し。
「多分そうだよ。他からの稟議は上がってこないと思うね」
「だって、牧原さんを敵に回そうなんて普通は思わないもんなぁ」
「だいたい過去一度だって勝った人はいないんだからさぁ」
企画会議など縁のないヤツらが、まるで他人事のように話す中、片嶋は不敵な笑顔で言葉を返す。
「だからこそやり甲斐があるんじゃないですか?」
「前向きだね〜、さすが片嶋クン」
そんな時の片嶋は、まさにエリートと言われる企画室そのものって感じで。
あんな男に振り回されてることが信じられなかった。
けれど。
切れた唇。
背中の傷。
首筋につけられた痕。
そして虚ろな横顔が。
俺の気持ちから離れなかった。
あの日から、片時も。


まだ木曜だと言うのに大宴会状態の後輩達を置いて、俺は席を立った。
「悪い。俺、先に帰るよ」
比較的酔っ払い度合いが軽い阿部にそう言い残して一人で店を出た。
もう少し早ければ電車に間に合ったんだが。
片嶋が心配でなかなか席を立てなかった。
なのに、結局、最後まで片嶋を見ていることができなかった。
……一緒に帰ろうなんて、どの面下げて言えばいいって?
後悔なら、もう何十回もしたというのに。
自嘲しながらタクシーを拾う。
車が目の前に止まった時、後ろから呼び止められた。
「桐野さん、俺も一緒にいいですか」
片嶋はまるで何もなかったかのように、微笑んで立っていた。
「……ああ」
短い返事をする間にも、あの日の事がフラッシュバックする。
「ちゃんと自分の家に帰れよ」
酔い潰れていない片嶋と二人きりで部屋にいる勇気がなかった。
俺の理性なんてどれほど当てにならないものか、嫌というほど思い知ったから。
「大丈夫ですよ」
さらりと答える片嶋の口元に精巧な作り笑い。
もう2度と本心など見せてはくれないのかもしれない。
自業自得だけれど。
しばらくは立ち直れそうになかった。


大丈夫だと言っていた片嶋は、やっぱり途中で眠ってしまった。
ピンク色に染まった頬が俺の肩に当たる。
「片嶋、俺、降りるけど一人で大丈夫か?」
ぼんやりと薄く目を開けたが、焦点が合ってない。
「……俺も、」
それだけ言ってまた眠ってしまった。
「どうしますか、お客さん?」
運転手に尋ねられて、俺も少し困ってしまった。
片嶋の家までのだいたいの道は説明出来る。近くまで行ったら片嶋を起こしてもらえばいい。
最初はそう思った。
けれど、気持ち良さそうに眠っている片嶋を置いていくことが出来なかった。
着替えもあるし、火曜日にも泊まってるし。
別にいいよな……
一人でそう決めて、タクシーから片嶋を抱き下ろした。
「立てるか?」
俺に抱き支えられたまま片嶋がコクンと頷いた。
部屋の前でカバンから鍵を出そうとしていたら、片嶋がポケットからキーケースを取り出して俺に渡した。
「一番右の、です」
鍵は3つ。
俺の部屋の鍵。
自宅の鍵。
残りの一本はアイツの……―――
当たり前のことなのに。
平静ではいられなくなる。
片嶋は酔っていて俺の顔色が変わったことになんて気付いてなかったけれど。


もう2度と片嶋を傷つけるようなことはしないと思ってた。
けど。
気持ちを抑える自信がなかった。



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