パーフェクト・ダイヤモンド

14




「片嶋、大丈夫か?」
部屋に入るなり、玄関に座り込んだ片嶋の身体を支えようとして抱き留めた。
「……すみません……」
呟いたものの、俺に身体を預けたまま目も開けようとしなかった。
ベッドに運び、静かに横たえる。
「……桐野さん、俺……」
服を脱がせている途中で、片嶋がまた呟く。
意識などないのだろう。
呟いた言葉はそれだけだった。
けれど。
掠れた声が身体の奥で響いて。
結局、俺は片嶋を抱いた。

力の抜けた身体に覆い被さった時、片嶋はうっすらと目を開けたけど、俺を拒みはしなかった。
ぐったりとした身体が絡み付く。
アルコールのせいで高まった熱を摺りつけるように、俺の背中に手を回した。
短い情事だったけれど、俺の罪悪感を煽るには十分だった。
「……んんっ、……野…さ……んっ…」
片嶋が果てる時に呼んだ名前が、俺なのかアイツなのか分からないことに苛立って、何度も片嶋の名前を呼んだ。
俺の声が聞こえるように。
抱いているのが俺だって分かるように。
「中野さん」なんて普段は呼んでいないだろうとずっと思っていたのに。
こんな時には確信が揺らぐものなんだな。
そんなことを考えながら。
「片嶋、」
少し冷静になってから「大丈夫か?」と声を掛けたが、片嶋は既に眠っていた。
顔を覗き込んで涙で濡れた頬を見て、切り裂かれたような気分になった。
抱いている最中に、泣いてることにも気がつかなかったなんて……


――――俺、何をしているんだろう……


酔っていたにもかかわらず、罪悪感と自己嫌悪で寝つけなかった。
ごめんと言う代わりに、腕の中で眠っている片嶋の髪を撫でた。
サラサラとこぼれる髪は指を通る時、わずかに冷気を伝えた。
何度もその感触を確かめているうちに片嶋が目を覚ました。
まだ焦点は合っていなくて、ぼんやりとしていた。
「……大丈夫か?」
俺の問いにわずかに頷いた。
涙が乾いてかさつく頬に手を当てると、片嶋が口を開いた。
「桐野さん、」
何の脈絡もなく。
口にした言葉。
「……俺、この間の土曜が、誕生日だったんです」
それだけ告げて。
また眠った。
俺の思考回路はまともに働いていなかったけれど。
……だから、ケーキを買いに行こうなんて……
いや、それよりも―――
『今日、桐野さんちに泊まりに行ってもいいですか?』
金曜に俺を誘った片嶋の言葉が脳裏を過った。
それが携帯の番号まで用意して俺を誘った理由だったとしたら。

なのに、俺、片嶋を無理やり抱いたんだ。
アイツに抱かれた後、シャツ一枚で鍵を届けに来た片嶋を……

俺に鍵を渡しにいくために殴られたのかもしれないのに……――――



眠れないまま朝を迎えた。
昨日の事を覚えていないわけじゃないだろうに。
片嶋はニッコリ笑って「おはようございます」と言う。
俺はただ曖昧に頷くだけ。
どんなに無理をしても笑い返すことが出来なかった。
片嶋が仕事の話をするのを適当な相槌で流しながら出社したけれど、仕事さえする気になれなくて、外回りの振りをして会社を出た。

一日中何もする気になれず、カラオケボックスのソファで夕方まで眠って、ぼんやりしたまま会社に戻った。
ほとんどの営業マンが戻っている時間のざわめきと熱気がこれほど鬱陶しく感じたことはなかった。
ドアをくぐってから、さらに気怠さが増した。
これじゃあ仕事にならない。
今日は早く帰ろうと思いながら席についた。
「お疲れ様です」
顔を上げると、隣りの席に片嶋が座っていた。
「……またヒアリングか?」
やっと適当な言葉を吐き出して腰掛けると同時に机の上のメモに気付いた。
携帯のメールアドレス。
少し右上がりの見慣れない文字。
電話メモで慣れているから、営業部のヤツの文字なら全部見分ける事ができるはずなのに。
……ってことは……?
机を片付けてゆっくりと立ち上がった片嶋に視線を投げた。
「今日は営業情報の確認です。あと、提案書のサンプルを借りにきました」
それしか言わなかったけれど。
これを置いたのは片嶋なんだってことは不思議と判った。
携帯を取り出して片嶋の電話番号を呼び出し、アドレスを入力した。
片嶋は何も言わずにそれを見ていた。
俺が入力し終わるのを確認してから、自分のフロアに戻っていった。


10分ほど待って、5時を回ったのを確認してから片嶋にメールした。
とは言っても用件がさっぱり分からなかったから、本当に素っ気ないメールになった。
『何の用だったんだ?』
気の利かないメールだなと苦笑しながら送信ボタンを押した。
片嶋の返事も短かった。
『いつならお時間をいただけますか?』
他人行儀この上ない。
こんな会話ならここで堂々とすればいいのに。
『月曜なら』
その4文字だけを片嶋に送って仕事に戻った。
片嶋からの返事は、『月曜8時に最初にお会いした場所でお待ちしています』だった。
その画面をしげしげと眺めながら、また同じことを思った。


―――――相変わらず、よく分からないヤツだよな……



片嶋が意味深なことをするから、何をしていても落ち着かなくて、そわそわしながら週末を過ごすハメになった。
それでも、今更どうにもならないことを悔やみながら過ごすよりは100倍マシだったと思う。
『最初にお会いした場所でお待ちしています』
何度もそのメールを読み返した。
その度に安堵して。
気持ちが軽くなった。



月曜日。8時。
無理やり仕事を切り上げ、宮野たちの誘いを振り切って、待ち合わせの場所に向かった。
片嶋は最初に会った日と同じように薄汚れた色のビルに凭れて煙草を吸っていた。
「何かあったのか?」
こんな回りくどいことをするくらいだから、と心配して尋ねたのに。
「飲みに行きませんか?」
片嶋はごく普通にそう言って笑っただけだった。
それから、営業部の奴らにみつからないようにと、わざわざタクシーで俺の家の近くまで行った。
「これでやっと約束が果たせます。今日は俺が全部出しますから」
そう言って片嶋は楽しそうにビールを注いでくれた。
ほとんどは仕事の話だった。
後は、家族の事とか飼っている犬の事とか、そんな他愛もない話。


そして、そのまま俺の部屋に来た。
俺はそれほど酔ってもいなくて、まだ、なんとなく気まずかった。
片嶋がこうしてここにいる理由が分からない。
なのに、それを尋ねることも出来ない。
シャワーを浴びると俺はさっさとベッドに入った。
出来る事なら一秒でも早く眠ってしまおうと思った。
片嶋は俺が用意した枕を持ってソファに座っていた。
髪を乾かしながら、何気なく俺に尋ねる。
「桐野さん、振られたことありますか?」
今日も俺の顔は見ないまま。
「あるに決まってんだろ?? 俺がそんなにもてるように見えるかよ?」
片嶋がそんなバカな質問を真面目な顔でするから。
寝た振りをするつもりだったのに、つい答えてしまった。
「見えますよ」
普通に考えて、28年間一度も振られた事がないなんてあり得ないだろ?
まあ、めちゃくちゃもてるヤツとか、恋愛そのものに興味がないヤツなら話は別だけど。
「とことん人を見る目がないな、片嶋」
もちろんそれはアイツを指しているんだけど。
片嶋もそれは分かったらしくて。
「桐野さんは誰から見てもそう見えますよ」
そんな返事をした。
「おまえ、全然ダメ」
もてない方だと思ったことはないけど、振られたことなんて何回もある。
他人から見るほど俺の人生も華やかじゃないわけで。
―――…っていうか、この間、片嶋に振られてるじゃねーか……
そう言ってやろうかとも思ったけど、一応止めた。
こればっかりは片嶋を責めてもしょうがないもんな。
そう思った矢先。
「でも……桐野さんは、辛い恋愛なんて縁がなさそうです」
片嶋があまりにも他人事みたいに言うから、無意識のうちに口を突いて出た。
「他の男のこと考えてるヤツを抱いて、楽しいと思うのかよ?」
言ってから「しまった」と思った。
片嶋は一瞬顔色を変えたが、否定はしなかった。
「……すみません……」
それだけ呟いて、苦しそうに目を閉じて口を結んだ。
「……悪い。失言」
今更謝ったって遅いけど。
片嶋の気持ちなんて無視して無理やり抱いておいて、何言ってるんだろう、俺。
「ごめんって。怒るなよ」
「怒ってないです。悪いの、俺ですから」
なんで片嶋がそう思うのかわからないけど。
それ以上、この会話を続ける気になれなかった。
「……寝ろよ。疲れただろ?」
それでも片嶋が呆然と座っているから。
隣りに腰掛けて片嶋の髪を撫でた。
俯いた片嶋からふうっと息が漏れて、抱いた肩がゆっくりと上下した。
「……ベッドで寝てもいいですか?」
「ああ、いいけど」
片嶋は俺が立つまで動こうとしなかった。
「どうした? もう寝るぜ?」
促されてようやく一緒にベッドに入った。
あんな会話をした後で片嶋を抱く気にもなれなくて。
俺はぜんぜん眠れなかった。
片嶋も俺が気になるのか時々そっと顔を上げた。
そのたびに額や頬に柔らかく唇を当てて「寝ろよ」と言った。


結局、朝までそれを繰り返した。



目覚ましが鳴り出す直前、アラームのスイッチを切った。
「朝なんてあっという間だな」
休みたい気分だったが、そうもいかない。
気怠さを身体に残したまま出勤の準備を始めた。
「おまえ、そんなんで会社に行けんのか?」
明かに怠そうなのに。
「行きますよ。次回の役員会の資料を作らないといけないので」
片嶋は仕事モードの口調でそう答えた。
「例のアレだろ?」
専務の息子、牧原主任との一騎打ち。
それに勝った方が親会社の企画部に出向になる。
それにしても、うちの会社にそんな気概のあるヤツがいたなんて。
おかげで、今、片嶋は話題の的だ。
「そうです。ひっくり返そうかと思って」
悪戯っぽく笑う片嶋が目の前にいた。
「そんなに出向したいのか?」
「それもありますけど。負けるの、悔しいじゃないですか」
切り替えの早いヤツだ。
俺と違って仕事とプライベートはまったく別物らしい。
「寝てないのに大丈夫なのか?」
「桐野さんこそ」
「俺はイザとなったら出掛ければいいからな」
営業はこういう時には便利だよな。
幸い今月は終わったも同然だし、来月の見通しもついてるし。
俺の懸念材料は片嶋だけだ。
「これが決まったら来月から出向になるんだろ?」
「そうですね。実際は今月の終わりくらいから向こうに行きっぱなしになると思うんですけど」

――――そしたら、もう会えないかもしれないな……



片嶋と一緒に会社に向かう。
駅の売店でガムを2つ買って片嶋に一個渡した。
不思議そうな顔をしている片嶋はなんだか可愛らしくて、俺も笑ってしまったんだけど。
「眠くなるといけないから。おまえ、外には出られないだろ?」
片嶋はそれを大事そうに受け取ってコートのポケットにしまった。
「俺、桐野さんのそういうところが好きです」
いつものセリフ。
嬉しくないわけじゃないんだけど。
俺が期待する「好き」とは意味が違う。
―――そういうセリフは、アイツのことを忘れてから言ってくれよ。
口にすることの出来ない言葉を飲み込んで、俺はほんの少し笑い返した。
「昨日、桐野さんとの約束が果たせて、ほっとしました」
涼しく笑う口元を見ながら、ぼんやりと思う。
来月には、片嶋と会社で会うこともなくなるだろう。
仕事の後、みんなで飲んだり、タクシーで帰ったり、うちに泊まったりすることも。
俺がどんなにそれを残念に思っても、片嶋はそんなことはどうでもいいんだろうな……
「じゃあ、仕事頑張ってください」
エレベーターを降りる俺に向けられた華やかな笑顔が、妙に眩しく感じられた。



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