いつもと同じ会社帰りの飲み会。
帰ろうと思って片嶋を探したが、姿が見えなかった。
さっきまで宮野の隣りで酒を注ぎまくっていたのに。
「片嶋クンですか? なんか、電話が掛ってきて外に出ていきましたけど」
宮野が溜息交じりに答えた。
「やっぱり彼氏ですかね〜……どこに行くって言ってましたっけ? ちょっとだけ聞こえたんだけどなぁ。桐野さんも気になりますか?」
「別に……俺、先に帰るからな」
無関心を装いながら店を出た。
片嶋がどっちに行ったかなんて、もちろんわからなかったけれど、とりあえず駅とは反対方向に歩き出した。
足は無意識のうちに最初に会ったあの通りに向かっていた。
追いかけたところで会えるはずなどないと思っていた。
けれど、通りに出た時、片嶋の後姿が見えた。
声をかけようとしたが、隣りにアイツがいるのに気付いて一瞬足が止まった。
その間に片嶋はアイツに引き摺られるようにして裏通りの暗闇に消えた。
「ったく、どこへ行く気だ?」
見失わないように慌てて後を追った。
神社の境内へ続く道。
ここを曲がったところにいるんだろう。
すぐ近くで片嶋の声が聞こえた。
「でも、俺……」
片嶋のそんな苦しそうな声を聞くのも久しぶりのことだった。
やっぱり、アイツのこと、忘れてなんかいないんだな……
「ショウ」
少し厳しい口調でアイツが片嶋を呼んだ。
「いつから付き合ってる? もう寝たのか?」
矢継ぎ早に質問されて。
「桐野さんはそんなんじゃ……っ…」
片嶋の声が途切れた。
抗う息遣いが聞こえてきそうな気がした。
「……少し構わなかったくらいで、拗ねるのは止め……」
アイツの声も途切れ途切れで。
何をしているのかなんて想像するまでもなかった。
片嶋の返事は聞こえなかったけれど。
「……いい子だ」
笑いを含んだアイツの声が聞こえた瞬間に、俺はその場を走り去った。
翌朝。最悪の気分で出社した時、片嶋はうちのフロアに下りて来て今井さんと話していた。
「桐野さ〜ん! Gグループの過去ファイルってどこにあるかご存知ありませんか?」
今井さんがバタバタとキャビネットを開けながら叫んだ。
「資料庫に移したよ。持ってこようか?」
「お願いしてもいいですか?」
今井さんから資料庫の鍵を受け取ってフロアを出た。
「すみません。お手を煩わせて」
片嶋はいつもと全く同じ笑顔で俺を見上げた。
口を開くと片嶋を責めてしまいそうだったから、無言で資料庫を開けた。
ひんやりした空気の中、キャビネットが立ち並んだ隙間を進んでいった。
目当てのファイルはすぐに見つかった。
「ほら、これ」
必要最低限の言葉と共に片嶋に分厚いファイルを渡す。
「ありがとうございました」
片嶋は嬉しそうに礼を言った後、少しだけ怪訝そうな表情を見せた。
俺の様子がおかしい事に気付いてはいるのだろう。
だが、わずかに首を傾げたものの、普通に話を続けた。
「これが終わったら、お礼をさせてください」
俺は返事もせずに背中を向けた。
出口を目指して狭い通路を戻っていく。
「桐野さん?」
さすがに違和感を持ったのか、片嶋が遠慮がちに呼び止めた。
出口はすぐそこだった。
「……もう、無理しなくていいよ」
片嶋に背を向けたまま、そう告げた。
俺自身への諦めの言葉でもあった。
「……昨日……おまえの後を追いかけて、おまえとアイツが話してるの、聞いたんだ」
それだけ言うのが精一杯だった。
あれから二人でアイツのところに行ったんだろう。
考えたくないのに、俺の気持ちの全てを占領する事実。
冷たい言葉にならないようにと思ったけれど、何を言っても駄目な気がした。
「……アイツのこと、忘れるつもりなんて、ないんだろう?」
なのに、こんなギリギリの状態で、俺はまだ可能性を期待していた。
少しでも否定してくれるなら、もう少し待ってもいいと。
でも。
「……すみません……」
片嶋がどんな顔でそれを告げたのか、俺にはわからなかったけれど。
抑揚のない声に迷いは感じられなかった。
「そうか……」
背を向けたまま資料庫を出た。
そのまま振り返らずにフロアに戻った。
席に戻ると宮野と飯島が昨夜の話をしていた。
「彼氏と二人でですか?」
飯島が机から身を乗り出して宮野の話を聞いていた。
宮野はどんよりと落ち込んでいた。
「見ちゃったんだよなぁ。相手の人が片嶋クンにキスしてるところ。なんだかメロメロって感じでさぁ。あんな寒い所でネクタイとワイシャツのボタン外されて、首にキスされて……」
それ以上は、聞けなかった。
「ったく、おまえらは。他人のプライベートなんて大声で話すもんじゃないだろ? いいから仕事しろよ。余裕があるなら、もう300万ずつ余計に数字振るぜ?」
飯島は慌ててカバンを持って出かけていった。
宮野もとりあえず仕事に戻ったものの、なんとなく落ち込みモードだった。
動きが緩慢。ミス多発。
今までの俺なら怒鳴る所だが。
今日の俺に、そんな気力はなかった。
午後の企画会議は俺も同席させられた。
「我が社の期待の星にも営業部代表として出席してもらいたいんだがね」
社長が冗談交じりに俺を誘いに来たから、逃げる事もできなかった。
虚ろな俺とは対照的に、片嶋は専務や牧原主任のキツい質問攻めも悠々と切り返していた。
偉いもんだな、と思いながら聞いていたら、いきなり矛先が俺に向いた。
「先日の提携の情報は、桐野君が流したそうじゃないか」
「だとしたら、それがどうかしましたか?」
来るとは思っていたが。
「片嶋君とは頻繁に飲みに行く仲だそうだね。肩を持っているんじゃないのかね?」
自分の息子可愛さに的外れな攻撃を仕掛ける。
親って、本当にバカだよな。
……まあ、こうまでして片嶋の肩を持つ俺もバカかもしれないけど。
「次の営業展開の事しか考えていませんよ。関連会社にいろいろと仕掛けていますから、この件についても出来るだけ良い結果を出して頂きたいだけです」
他の役員は感心したように頷いていたが、専務は面白くなさそうだった。
さすがの社長もそれには苦笑いしていた。
「そうですよ、専務。先に分かって良かったとは思いませんか?」
常務が宥めても不機嫌丸出しで。
「プレス発表など待たず木曜のうちに先方に出向いていれば、もしかしたら今頃は手元に契約書があったかもしれないんだぞ?」
んなわけねーだろ、と言いたい気持ちはグッと堪えた。
「いずれにしても情勢は変わりました。提携先の関連会社を含めて競合する会社は何社も増えたはずですから、心してかかった方がいいですよ」
自分の言葉なのに、妙に冷たく感じられた。
おかげで役員連中に妙な不安を与えたらしい。
何を今更そんなことくらいで―――
溜息をつく俺の斜め前で、片嶋はゆったりと座っていた。
俺の存在も居並ぶ役員も何のプレッシャーにもならないって顔で、自分の仕事だけは淡々と、でも、きっちりとこなしていた。
片嶋には威圧感とか貫禄とかはないけれど、見えない所が切れるという雰囲気は漂っている。
普段は「小賢しい」などと形容されてしまうが、こういう時には良い方向に働くだろう。
反対に、付け入る隙のない片嶋の提案を無理に崩そうとした牧原主任の稟議は、全体的に焦点がぼやけていた。
片嶋を潰すだけならこれも有効だが、他社に交じったら勝てるかどうか。
自社内で潰し合いなんて愚の骨頂だと思うんだが、役員連中は誰も口を挟まない。
明日、それを専務が先方の担当者に届ける。
他社がどれだけのものを出してくるかわからないが、この2案ではうちはかなり厳しいだろう。
なのに、片嶋は涼しい顔で笑っていた。
俺も片嶋くらい、仕事とプライベートを切り離せたらいいんだが。
説明のために片嶋がホワイトボードに向かっている時しか顔を上げられなかった。
……片嶋が俺を見るはずなんてないのにな。
会議が終了した翌日も片嶋の情報収集は続いていた。
実際、先方に出向くまでにはまだ時間がある。
それまでに出来る限りのことをしておくつもりなのだろう。
既に安穏としている牧原主任とは大違いだ。
「名刺?」
「ええ。ご担当者の。できればグループ全部の分が欲しいんですけど」
宮野の隣りに立ってファイルを広げながら話しかける片嶋。
いつもと同じ。
少し冷たそうな余裕の笑顔。
「結構前の案件だし、それに、結局、流れちゃったからなぁ。僕のところには残ってないよ〜。ごめんね」
「そうですか」
「あ、でも、桐野さんなら持ってるかもしれないよ?」
宮野の呑気な声が耳に入った。
けど。
聞こえなかった事にした。
片嶋だって俺とは話したくないだろうと思ったから。
案の定、宮野が席を立った隙に片嶋は黙ってフロアからいなくなった。
「……ったく……」
自分の将来が懸かった大事な案件なのに。
しょうのないヤツだ。
名刺を持って片嶋を追いかけた。
エレベーターの前でぼんやり立っている後姿はなんだか疲れて見えた。
みんなこの件を面白がっているけれど、結局は牧原主任寄りで、誰も片嶋に協力なんてしないんだろう。
一人で頑張るのは傍から見るよりもずっと辛いはずだ。
たとえ、アイツがどんなに優秀だったとしても。
「片嶋、」
呼び止めたら、真ん丸い目で振り返った。
「名刺、やるよ」
無言で固まっている片嶋に手持ちの名刺を渡した。
「コピー取ったら返せよ。後、グループの分は資料庫のファイルに入れちまったから、必要なら今井さんに鍵を借りて来い」
「……でも……」
片嶋が何を気にしてるのかなんて聞くまでもない。
「お互い仕事なんだから、遠慮するなよ」
少しだけ頷く片嶋の後姿を見送って、俺は先に資料庫に向かった。
後から追いかけてきた片嶋から、鍵を受け取ってドアを開ける。
手探りで電気をつけようとしたら、片嶋の手がそれを止めた。
「……桐野さん、」
締まり切っていないドアから通路の明かりが漏れてくる。
「……都合の良い時だけ利用して……って、思わないんですか?」
絞り出すように吐き出された片嶋の言葉を俺は苦い思いで噛み締めていた。
片嶋が俺に対して持っていたのは、そんな罪悪感だけなんだろうか。
それを埋めるために俺と一緒にいたんだろうか。
「……思わないよ」
それ以上の言葉も思いつかなかった。
俺の返事なんて聞いているのかいないのか。
片嶋はただ、手の中の名刺を見ていた。
何か言ってやりたいと思ったけど、こんな時に限って気の利いた言葉なんて思い浮かばなくて。
結局、ありきたりの返事をした。
「頼られるのは嫌いじゃないからな。……まあ、頑張れよ」
俺の言葉が終わらないうちに、無表情だった片嶋がキュッと目を瞑って顔を歪めた。
そのすぐ後に、小刻みに震える睫毛を濡らして涙が零れた。
「おまえな、そういうタイミングで泣くなよ。俺が泣かせたみたいじゃねーか」
腕を引き寄せて、ちょっと乱暴に手でゴシゴシと涙を拭いてやったら、
「……桐野さんのせいです」
やけにはっきりそんな言葉が返ってきた。
「桐野さん、」
「なんだよ。早く泣き止めよ。ここ、会社だぜ??」
俺は少なからずうろたえていたのに。
片嶋はポロポロ涙をこぼしながら、少しだけ笑った。
「……手、温かいです」
「当たり前だろ?」
この思考回路にだけは、どうしてもついていけなかったが。
片嶋にしか分からない所で、それが意味を持つんだろう。
そう思ったから、手のひらで何度も涙を拭いてやった。
でも途中で面倒になって胸に抱き寄せた。
そのまま何十分も寒々しい資料庫に突っ立っていた。
大事な場を控えて片嶋に風邪なんか引かせちゃいけないと思ったから。
案件ファイルを放り出して、片嶋が泣き止むまでの間だけ、抱き締めることにした。
そんな言い訳をしてみたのは、結局、まだ片嶋を諦めきれていないからなんだろうけど。
「やだ、桐野さん、シャツ、濡れてますよ」
フロアに戻って今井さんに言われるまで気付かなかった。
ブルーのシャツには左肩の辺りだけ涙の染みが出来ていた。
「もう、ずっと席にいないから探してたんですよ〜。どこで何してたんですかぁ?」
「……水遊び」
俺の返事に事務の女の子たちがキャラキャラと笑い転げた。
言い訳なんて思いつかなかった。
顔を洗っても左肩だけ濡れる事はないもんな。
「真冬に水遊びですかぁ?」
「じゃあ、火遊び」
「なんですかぁ、それ??」
「消火作業して濡れたんですか?」
「まあ、そんなところ」
「おかしいですよぉ、桐野さん〜っ!」
片嶋が俺とのことを遊びだって割り切っていたなら、あんなに辛そうな顔はしないんだろう。
そう思うと、余計に辛くて。
恋愛なんて思うようにならなくて当たり前なんだから、罪悪感なんて持たなくていいのに。
片嶋は変な所が真面目なんだよな……
独り言と行き場のない気持ちを溜息で流して、席に着いた。
「桐野さ〜ん、2番に飯島さんからお電話です〜。ミスったって泣いてますぅ〜!」
席に着いた途端に遠くから叫ばれた。
「……わかったよ」
嫌でも現実が俺の背中を叩くから。
溜息なんてついている場合じゃない。
俺もいい加減、気合を入れて仕事しなきゃな。
|