片嶋が出向してから、もうすぐ一ヶ月。
俺はそこそこの契約を取り付けて、時計を気にしながら駅に向かっていた。
「桐野、次回もよろしくな」
隣りにいる男がゴキゲンな口調で俺の肩を叩く。
「やだよ。溝口の案件、無理やりが多すぎる」
「まあ、そう言わず。頼んだぞ」
課長のツテで親会社の営業マンと顔見知りになったおかげで、頻繁に同行依頼が舞い込むようになっていた。
そんな中でも特に溝口との仕事は多い。同い年だからか、気が合うせいか、事あるごとに俺を呼ぶ。
しかも、家がわりと近いせいで週末までメシに誘われたりする。
おかげで気がつくと週に2〜3回は顔を合わせる仲になっていた。
まあ、遠慮がなさ過ぎる所と噂好きな所を除けば悪いヤツじゃないんだが。
何よりコイツからの話はデカい案件ばっかりだから、多少の無理くらいどうってことはないというのが本音だった。
ただ、それを知ったら次々と無理を並べたてる奴だから、それは口が裂けても言わないけど。
「それよりさ、桐野。ほら、アイツ」
その浮かれた口調で、きっと溝口得意の噂話だろうということは見当が付いたが、アイツとかコイツとかで相手が分かるほどツーカーな仲でもない。
「誰だよ?」
最初からちゃんと名前で言えと思いながら尋ねると、ニヤリと意味ありげな笑顔が返った。
「企画部に出向してきた片嶋だよ」
「片嶋がどうかしたのか?」
溝口のいる営業部は片嶋の企画部の1フロア下。接点も多いから、顔見知りなのは当然だと思うけど。
片嶋に限って悪い噂はないだろうとタカを括っていたのに。
「女に興味ないってホントか?」
え??
「なんでいきなりそんな話なんだよ?」
そりゃあ、噂話には恰好のネタだとは思うが。
「いや、片嶋が酒好きだって言うから、この間、野郎ばっかで飲みに行ったんだけどさ。その時、本人がそう言ってたんだ」
「じゃあ、そうなんじゃないか?」
白々しいけど。仕方ない。
「なんだぁ? その返事は。前の会社ではみんな知ってたって言ってたぞ?」
「……ああ、うちでもそう言ってたよ」
この話、早く切り上げた方が良さそうだ。
「へ〜え、やっぱホントなのか。面白いヤツだなぁ」
本当に楽しくて仕方ないらしい。ニヤニヤしたきり顔が戻らなくなっている。
「まあ、片嶋もちょっと変わってるからな」
他に適当な言葉も思い当たらず。
サラリと流そうとしたが。
「アイツってさ、酒もメチャクチャ強いだろ? 歓迎会の恒例行事としてみんなで片嶋を潰そうとしたんだけどさ、全員撃沈したよ。凄いよな」
「……うちでもそうだったよ」
ちょっと見は真面目そうで酒なんか好きじゃないように見えるから、その事実が余計に浮き立つんだろうけど。
「それに片嶋って、あの顔だろ? 最初に見た時、俺たちみんな顔採用だと思ったんだ。ほら、うちの企画部ってよく雑誌の取材を受けるから」
「……仕事もできると思うけどな」
別に肩を持つわけじゃなくて。
親会社の社員と比べても、年齢を考えたらバツグンに優秀だろう。
「だな。びっくりした。こう言っちゃ悪いけど、桐野以外は全滅かと思ってたんだよ。おまえんとこって相当呑気だろ」
「まあな」
それは俺も否定しないけど。
「片嶋もちょっと見がボクちゃんっぽかったから正直言って期待はしてなかったんだけどさ。仕事は出来る、酒は強い、その上、女に興味ないって凄すぎるよな」
女に興味がないのと仕事が出来るのを同列にするのはどうかと思うんだが。
「まあ、いいんじゃないか。人それぞれだし」
俺は女に興味がないわけじゃないが、男がイケルっていう事実は溝口の言う「凄い」に入るんだろうな、きっと。
「でさ。片嶋の彼氏って、水商売なのか?」
「え?」
「この間、同行した時、おまえんとこのバカボンが言ってた」
それって……宮野のことなんだろうな。
そっか。
他の連中は片嶋がアイツと別れた事を知らないんだ。
「宮野が、何て?」
「見るからに遊び人風で新宿に住んでる30代半ばの男だって。片嶋なんて手玉に取られちゃって子猫ちゃん扱いだって言ってた」
そういえば、そんな感じだったっけ。
「でも、片嶋って手玉に取られるようなタイプじゃないよなぁ? どっちかって言わなくても、相手を振り回す方だろ?
おいしいとこだけ食べて『じゃあね』って言いそうなのに」
んなこと絶対にねーよ。
ったく。
ああ見えて片嶋は変なところが真面目なんだ。
「……俺は、あんまりよく知らないけど」
なんでこう、片嶋の周りはゴシップ好きばっかりなんだろう。
「知らないってことないだろ。それとも飲んでる間もプライベートな話はしないのか?」
「それも宮野が?」
あのヤロウ。口が軽いんだよ。仕事で同行したなら仕事の話をしろ。
……って思ったんだけど。
「いや、彰ちゃんが。桐野と一番仲良かったって」
「片嶋が?」
「そう。なんで驚いてるんだ?」
「いや……まあ、営業部の連中とみんなでよく飲みに行ってたけどな」
片嶋がそんな疑われるようなことをわざわざ言うとは思えなかったが。
まあ、「いい先輩です」って流れなら不自然ではないか。
「で? プライベートな話はしなかったのかって」
「ああ、ほとんど仕事の話だった」
それは嘘じゃない。片嶋に聞いてもそう答えるだろう。
時期が時期で、片嶋はあの案件にどっぷりハマってたから、そんなことばっかりだった。
「片嶋は桐野の事をいろいろ話してたぞ。酒も営業部の中じゃ一番強いって」
「つっても、片嶋よりはずっと弱いけどな」
「まあなぁ。『彰ちゃんを潰そう計画』は未だに続行中なんだが、果たせる気配がないだよ。この間も俺を含めて全滅したんだけど、片嶋だけほとんどシラフだったんだぞ?
最後まで真顔で企画ミーティングの話をしてて」
「ふうん」
そんなことより。
片嶋、『彰ちゃん』とか言われてんのか。
可愛がられているからなんだろうけど。
なんだか危険な職場だ。
「桐野は片嶋の酔った所も見たことあるんだろ?
どうなるんだ?」
「別に。変わんねーよ。爆睡するだけ。ただし、揺すったくらいじゃ起きなくなるけどな」
それも嘘じゃない。
変わったら面白いって、俺も思う事があるけど。
片嶋はどんなに酔っても変わらない。
「ふうん。なぁんだ。もっと乱れたりするのかと思ったよ。残念」
「何が」
「相当酒が入った時でも隙がないって、ちょっと可愛げないよなぁ……って感じかな。みんなそう言ってるんだ」
「愛想が悪いわけでもないだろ?」
会社では随分気を遣ってると思うのに。
「んー、まあ人当たりはいいんじゃないか。もっとツンケンしてんのかと思ったけど全然普通だ。付き合いもいいし、仕事も頑張るし、頼まれれば断わらないし。企画部では一番年下だから何かと雑用もしなきゃならないんだけど、嫌な顔もしないしな」
そうなんだ。片嶋は上下関係にはしっかりしてる。
だから俺に対しても未だに丁寧語が抜けないんだろうけど。
「しかも、ほら。片嶋は、顔がアレだから」
溝口のその言葉は、なんだか引っ掛かった。
「溝口って……男に興味ないよな?」
コイツは女好きだから、そういう心配は無用だろうけど、念のため。
そう思ったのに。
「ないよ。俺はね」
もっと引っ掛かる言い方をしやがった。
「なんだ、その言い方は?」
「文字通り。俺はそんな気はないけど、酔い潰してその隙を狙いたそうなヤツがいるんだよ。世の中って分かんないよな。顔が可愛きゃ男でもいいっていうのがさ」
悪かったな。
でも、俺は顔に惚れたわけじゃないぞ。
「片嶋を狙ってるのって、同じ部署のヤツなのか?」
「ん? そうだ。同じ課で片嶋よりは2つ上かな」
「へえ」
「まあ、全く相手にされてないけどさ」
当然だ。
片嶋はそんなに軽いヤツじゃない。
「ま、それも彼氏がいるんだったら当然だよな」
そういうことにしておけばいいって思っても、何故か素直に肯定できず。
「片嶋からは、『彼氏に振られた』って聞いたけど」
つい余計なことを言ってしまった。
「ふうん……じゃあ、今付き合ってんのはソイツじゃないんだな」
「へ?」
溝口ときたら、何でも知ってますって顔だった。
「聞いたんだよ。『彼氏、どんなヤツ?』って」
その後、溝口がふふんと笑うから、急に心配になった。
片嶋とは送別会の日から一度も会ってない。
メールや電話はあったけど、それだけだ。
会いたいとも言われなかったし、俺が休日の予定を聞いても曖昧にはぐらかすし。
今日の約束だってやっと取りつけたっていうのに。
それって、まさか他に……?
そんな疑惑がすぐに俺の頭いっぱいに広がった。
だって、一ヶ月間。
いくら忙しいと言っても、ちょっとくらいは会えたはずだろ?
なのに「忙しいから」とか「ちょっと用事が」とか「仕事が残ってて」とか「家族に付き合わないといけないから」とか。
土曜も日曜も平日も。いかにも適当な言い訳っぽい理由を繰り返してきたんだ。
だから、聞かずにはいられなかった。
「……で? 片嶋はなんて?」
「答えなかったけど、『ニッ』って笑われた。なぁんか、余裕の微笑みってヤツだったな」
余裕ってさ。
なんだかなぁ……
「桐野、もしかして彰ちゃんに、」
言いかけた時、溝口の携帯が鳴った。
悪い、と前置きをしてから電話を取る。
「今日? いいけど。……桐野? ああ、聞いてみるよ」
口から電話を離して、俺に向き直った。
「うちの女の子が、『今日暇だったら一緒に飲みに行きませんかぁ〜?』って」
同行の帰りにちょくちょく溝口の部にも出入りするせいで、事務をしている女の子たちともすっかり顔なじみになってしまった。
みんな明るい子で、営業部のヤツらともしょっちゅう飲みに行くらしい。そのたびに俺まで誘われるんだけど、今のところは断わり続けていた。
別に嫌じゃないんだが、なんか面倒に思えるんだよな。
「いや。今日は用事があるんだ」
まるっきり型通りの断わり文句みたいだなと自分でも思ったけど。
今日は本当に駄目なんだから仕方ない。
溝口が「ふうん」と言って次の言葉を捜していた。
「そっか。……飲み会には彰ちゃんも来るらしいけど?」
溝口はどうやら俺を試しているらしい。
ってことは、俺、さっきの片嶋の話題に自分が思っている以上に興味を示してしまったんだな。
気をつけないと。溝口はそういう勘はメチャクチャいいんだ。
「そうか。片嶋に宜しく言っといてくれよ」
さらっと言ったら、溝口はポケットに電話をしまってから「ふふん」と笑った。
「嘘だよ。桐野が彰ちゃんに興味あるみたいだったから、カマ掛けてみたんだけどさ。……やっぱ、そんなわけないか」
「まあ、片嶋とは仲いいけどな。出向してからは飲みに行ってねーよ」
実際、今日がはじめての約束だ。
「ちぇ、つまんねぇの。相手が桐野だったら、ちょっと面白いかなぁと思ったんだが」
「何が?」
「だってさ。結構似合いだろ? 稀に見るパーフェクトカップルって感じで」
俺も片嶋も、ごく普通のサラリーマンで、しかも男同士なんだけど。
それのどこがパーフェクトなんだか。
まあ、片嶋個人を言うなら、俺から見ても非の打ち所なんてないんだけど。
「それにさ、片嶋が彼氏にどんな顔で甘えるのかちょっと興味あるだろ? 普段は作り物みたいだから余計に。受け答えもソツがなくて。常に作り笑いで」
やっぱりそんな風に見えるんだな。
「まだ慣れてないだけだろ?」
多分、意外と人見知りなんだ。
打ち解けるまでに時間がかかるだけで、本当に笑ったら可愛いのに。
……そう考えると今の職場では打ち解けて欲しくないな。危険倍増だ。
「まあ、何にしてもこれからが楽しみだ。色気のない企画室のヤロウどもを翻弄すること間違いなし」
「仕事の面でだろ?」
「もちろんそれもだけどな」
溝口の口元に異常に楽しそうな笑いが浮かんで、俺の心配事が増えた。
「じゃ、また来週。よろしくな、桐野」
溝口は爽やかに去っていったけど。
俺は脱力した。
……バレなくて良かった。
このあと、片嶋と待ち合わせていなかったら、溝口の大嘘を真に受けて誘いに乗ったかもしれない。
まあ、いいか。
それよりも待ち合わせだ。
片嶋の顔を見るのは本当に一ヶ月ぶり。
そう思うと無意識のうちに早足になっていた。
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